救済の殺人
ハイドラの中の割り切れない感情は、フランソワにまで伝わっていた。
「どうしてそんなに、ダリアラの肩を持つ?」
フランソワが腕を組み、問いかける。ハイドラはしばらくの間、既に見えないゲルダの姿を追うように遠くを見つめていた。
「優しい兄だったからさ。俺にとっても、妹にとってもな」
ハイドラ本人でさえ、自分の言葉の薄さに笑いがこみ上げてきそうだった。
事実であることは間違いない。現にステラリリアは、たったそれだけの理由でダリアラを慕っている。
「ダリアラ王子は、病弱体質で人前に殆ど姿を現さないと聞いているのだけれど。君たち家族は、別だったということ?」
「まさか!」
湧き上がりつつあった笑いが、遂に嘲笑として口からこぼれた。
「にーちゃんは平等だ。俺を含めた全ての人間から、一定の距離をとってた。……ステラリリアを除いてな」
ダリアラのステラリリアに対する特別扱いは、誰の目から見ても一目瞭然だった。特に直接言葉を交わしたことのない使用人からは、その姿を見て優しい王子だと称える声が上がることも少なくなかった。
「すべては、彼の思い通りだったってことかな」
不快な表情こそ浮かべても、ハイドラが反論を述べることは無い。ステラリリアは、事実ダリアラの忠実な駒であった。どれ程不可解な言動をとろうとも、その理由がダリアラであれば、ハイドラは納得してしまうだろう。
それでもハイドラは、フランソワの言葉を肯定する気にはなれなかった。
「では、君がダリアラをそこまで慕う理由は?」
なぜかと問われると、明確な言葉が思い浮かばない。
優しかったから? 憧れだったから? それとも。
「同情……、かもしんねェ」
「同情?」
頷いたハイドラの脳裏に、自分が叫んだ言葉が蘇る。
「だからアンジエーラは嫌いなんだよ! あんたのこともだ!」
ミエーレ進軍作戦前夜。ダリアラに叫んでしまった一言が、いつまでも彼の中で蔓延っていた。
「こんな兄を、どうか許して欲しい」
ダリアラが告げたそんな一言が、いつまでも、いつまでもハイドラの心を縛り付けていた。
「にーちゃんは、明確に言うと、アンジエーラじゃねェんだ」
フランソワの顔が強張った。流石の彼も、この言葉には動揺を隠すことが出来ない。
アルケイデア王国は、アンジエーラ族への信仰の力で国民をまとめているのだ。神と同等の立場である国王が、アンジエーラ族ではなかったとしたら。アルケイデア国民の反応は、想像に難くない。
「俺と、にーちゃんの母親は別人でさ。まあ、いわゆる腹違いの兄弟ってやつ。にーちゃんが生まれたすぐ後に、とーちゃん……死んだアルケイデア国王は、一人のアンジエーラの女を正式な后妃として妾に取ったんだ」
ハイドラが言うその女こそ、病弱体質で知られる故人のアルケイデア后妃なのだろう。
「にーちゃんの母親は、ザデアスですらなかったって聞いてる。知ってんのは、にーちゃんととーちゃんと、あとは側近のジジィたち数人だ。俺はにーちゃんから聞いた」
その時の兄は、酷く冷静だった。気が付けば、怒りに声を上げたのはハイドラの方だったのだ。
混血は最早アンジエーラ族ではない。親と子、どちらも忌み嫌われる定めだった。それが王族であるならば、尚更。
「ふざけんなって思った。でも、にーちゃんは笑って『それも一興だ』って言ったんだ。信じられるか?」
あれは珍しく、兄から誘われたアフタヌーンティーでの会話だった。兄弟水入らずでというダリアラたっての希望で、その話を聞いたのはハイドラただ一人。
思えばダリアラにとって、その話は他愛もない雑談のネタでしかなかったのだろうが、ハイドラの癇癪に触るには十分すぎる話だ。
「にーちゃんの体は、健康体そのものだった。にーちゃんは嘘つきだったんだ」
ようやく、フランソワの心中も合点がいった。ダリアラの姿を目にしたのはたった一度のことだったが、エリィたちから話を聞く限り、その体に異常があるとは思えなかったのだ。
病弱体質が原因で、普段から床についている。
そんな理由は、人前から姿を消すのに十分すぎる内容だろう。
「納得がいったよ」
そもそもいくら病弱であったとして、血統を重んじるアルケイデア内部で、才色兼備な第一王子を王座に付かせることに異論が生まれること自体不思議だった。
所謂ハイドラ派の存在は、ダリアラを王として崇めることを厭った権力者が筆頭なのだ。
「俺に王は向いてねェ。だからアンジエーラは嫌いなんだ……!」
ハイドラが、自身の髪を力の限り掻きむしる。黒く染めた髪の頭皮に近い部分は、既に彼の地毛の色が見えつつあった。
自分よりも秀でた兄を差し置いて、自分が王に成ることが許せないのだろう。彼が血統を理由に王に成ることが出来なかった事実を、受け入れたくないのだろう。
それほどハイドラは、兄に対する敬意を抱いていたのだ。
しかしそれも、ダリアラが普通の王子として生活を続けていた場合だ。世界を敵に回す前であれば、フランソワにも同情の余地はあったのかもしれない。
その可能性が、この先の未来に現れることはない。
「それでも、君は王になる」
手を止めたハイドラが、三白眼でフランソワを見上げる。
「アルケイデアはアンジエーラ族のためのものではない。そうだろう、ハイドラ?」
改めて言葉にすると、とてつもない違和感がハイドラを襲う。
「王に成るということは、向いているかどうかではないと僕は思うよ」
しかし彼が下町で見たものは、間違いなく彼にとっての原動力だった。
泣かせてしまった。待っていてくれる者たちを。
「成りてェかどうか、ってことかよ」
フランソワは否定をしなかった。アンジエーラの老害の前に立ち、彼らを指揮することに異論はない。しかしハイドラが見ていた父親の姿は、彼らの傀儡人形に他ならなかった。
アルケイデアはアンジエーラ族のためのものではない――。その一言が、ハイドラの背を押した。
「そう、だな」
自分に変える力があるのならば、使わない手はないだろう。
ダリアラが王になることは、もう敵わない。ならば。
「成りてェよ」
正直、王の座に興味はない。しかしアンジエーラ族の名に甘え、ふんぞり返る老害のたじろぐ顔は見たいと思った。
そして自分が統治する土地で、ベテルギウスで再開した彼らに、次こそは胸を張って安心しろと伝えたい。エリィのようには成れずとも、王として彼らの拠り所に成りたい。そう思った。
「わかってる。逃げてばっかじゃ、カッコつかねェよな」
王に成るために今、行わなければいけないことは何だ。
「……にーちゃんを、ダリアラを止める。その手段が、殺人であったとしても」
呟いたハイドラの指先が、小さく震えていた。
フランソワの視線に気づき、ハイドラはその震えを隠すように、指先を握りしめる。
「同じ王族のよしみだ。ハイドラが王に成れるよう、僕も手を貸そう」
ふっと笑みを浮かべたフランソワだったが、隣から感じる視線に目を向ける。
「何かな、その不審な目は?」
「お前はそんなこと言うタマじゃねーだろ」
「おや心外だね」
肩をすくめたフランソワへ、ハイドラは警戒の色を見せた。
「どうせ俺に借りを作って、よくわからん条約でも結ぶつもりだろうぜ」
「さあどうだろう。でもよかったのかい? 隣国の権力者に、これほどまでの秘密を話してしまうなんて」
「にーちゃんの身の上話を盾に、アルケイデアを脅そうってか?」
今度こそ、ハイドラは体の力を抜いて笑った。
「俺がアルケイデアの王になる。お前には、何の害もない隣国を攻めるような暇ねーだろ」
次に目を丸くしたのはフランソワの方だった。やはりこの男もまた、自分と同じ王族なのだと、改めて実感する。
「それは平和協定の立案かな?」
「この政治馬鹿が……」
おどけたように口にしたが、フランソワは本気だ。
同時に、この男に王に成ってほしいと。まるでアルケイデアの一市民になったかのように、そう思った。
「世話になるぜ」
「任されよう」
数分もたたないうちに、ゲルダが二人の元へ駆けつける。この短時間で、彼女は兵を集めきったらしい。彼女もまた、兵たちの信頼の的となっていたのだろう。
ゲルダに言われて、二人の王子はヨルの不在に気づいた。民家では、ジェシカの姿も見えないという。そもそもあの二人はエリィの付き添いという形でこの部隊に同行していたのだ。エリィの姿が消えれば、彼らも消えるのが道理だろう。
「それが、ニーナも見つかっていないらしくて……」
ハイドラの懸念はそこだ。優秀な彼女のことだ、そう簡単に倒れることは無いだろうが。
「きっとにーちゃんのとこだ」
そのハイドラの言葉に、二人は頷いて答えた。
「行こう。彼女一人に、この世界の未来を背負わせるわけにはいかない」
最早、もう一人の『アレクシス』を待つ時間はない。
彼の無事も確認した。やるべきことも決まった。
ハイドラが向かうべき場所は、一つしかなかった。