王未満、神未満。
ニーナは目を覚ました時、そこに居るはずの姿がないという事実に戦慄した。
自分が眠りこけている間に、彼の身に何かあったのではないかと。
「エリィ、どこ……?!」
民家の何処にも、エリィの姿は無い。
乱れた髪もそのままに、ニーナは慌てて民家を飛び出した。門番の静止も聞かず、一人の少年を探して。
人気のない街並みが、夜に埋もれている。
今はこの街並みと同じように暗闇に潜む、王宮の姿を思い出した。その中から、玉座に腰かけた自分が統治したかもしれない――、そんな街並みだ。
ハイドラは民のためにと、誠意一杯に動くことが出来る人物だった。少し不器用なだけだ。アンジエーラ城下の民に話を聞けば、誰もが納得する王になるだろう。
ダリアラは、まさに神だった。病弱体質で寝たきりの第一王子に、今も尚支持が集まり続けている一番の理由。それはアルケイデアの王としての、信仰の対象としての威厳に他ならない。
事実、彼は『アレクシス』という神であったのだから、威厳があるのも納得だ。
では、自分は?
この国のために、出来たことはあっただろうか?
「……っ」
自分は王になるための資質を、何も持ち合わせてなどいなかった。
当然と言えば当然だろう。王女ステラリリアとは、多くの杞憂の中に生まれた偶像に過ぎなかった。
ステラリリアの存在価値は、彼女の生涯を通して、見出されることは無い。あってはならない。
だからこそ彼女は、王族ではなく高貴なるアンジエーラの少女だったのだ。彼らを慕う従順な従者として存在し、二人の王子と同じ生活が送れるわけでもなく、誰からも敬われることもなく。
王族に成りきることも許されず、使用人に許された自由も無い少女。
結果、彼女の元に何も残らなかったとしても。
(それでよかった。そうでなければ、駄目だった)
夜闇が、余計な思考を働かせる。
「馬鹿らしい……」
民家を飛び出してから走り続けていた足が、止まってしまった。
どうして自分は、ここに居るのだろう。なぜ走り出してしまったのだろう。
エリィを見つけたとして、自分に出来ることは何もないかもしれないというのに。
ふと、呼ばれたような気がして視線を上げた。その先には、街路樹の傍に座り込む少年の姿があった。
今の今まで思い悩んでいた物事を、一瞬にして忘れ去ってしまう程の安堵感。彼の身に危険はなさそうだ。
数歩近づき名前を呼ぼうと開いた口が、止まってしまった。
彼の様子が普通ではないと気づいたからだ。
「エリィ」
数歩近づいてから、確実に聞こえるように声をかけたつもりだった。しかし少年は、ニーナの声に反応を見せない。
さらに足を進め、ニーナは俯く肩に手を乗せた。
「どうしたの、エリィ?」
エリィが、弾かれるように顔を上げた。その顔はひどく青ざめている。
「大丈夫……?」
ニーナはエリィの隣にしゃがみこみ、その肩を撫でる。周囲からの視線は無い。彼の体力が消耗している様子もない。なにか、交戦が起きたわけではなさそうだ。
「……ニーナ、か」
間違いなくエリィの声色だ。なにか考え事をしていたのだろうか。
「まだ体が本調子じゃないのね。早くみんなのところに帰りましょう。ゲルダが心配しているわ」
病み上がりの体に、この冷えた夜風は毒だ。立ち上がったニーナは周囲の様子を確認し、エリィが立ち上がるのを待った。
しかし彼は、一向に立ち上がる素振りを見せない。疑問に思ったニーナが再び膝を折り、エリィと視線を交わらせた。
「立てないのなら、肩を貸すわ」
なぜ突然民家から姿を消したのか、ここで何をしていたのか。聞きたいことは山ほどあったが、彼の体調が優先だ。
「……違うんだ」
返ってきた答えは、短いものだった。
「エリィ……?」
こういう場面に似合う良い言葉が、咄嗟に浮かばない。
再び俯いてしまったエリィの姿をただ見つめ、ニーナは黙り続ける彼の隣に腰を下ろした。
膝を抱えるエリィの姿を、視界の隅に捉える。
励ましの言葉か、心配の言葉か。はたまた叱咤なのか。彼にかけてやるための言葉は、一つも浮かばなかった。
ふと天を仰ぐ。満天の星空が、現実を忘れさせようと必死に輝いているようだ。
この数日間。そこにあったのは、一片も欠けることのない満月だった。
「行ってくれ」
声が聞こえた。喜びと同時に、その言葉の意図に困惑する。
体ごと視線を向けた先で、少年は抱え込んだ膝の間に視線を落とした。
「俺を置いて、行ってくれ」
冷ややかな空気に攫われてしまいそうな程、その声はか細かった。
「本当にどうしたの、エリィ」
ニーナの感情を請け負ったのは、困惑だった。
「俺は……行けない」
握りしめた両手が震えている。エリィの赤髪が、夜風に揺れて輝いた。
「どうして、そんなことを言うの?」
ニーナは再びその肩に触れる。
「動けないの? 私が、無茶をさせてしまったから?」
「っ、違う!」
「そうじゃないのなら、何があったのか話して! 言ってくれなくちゃ、私は……!」
ニーナの手のひらが力んだのが分かった。
話せない。自分自身の中でさえ、この感情を言葉に形成することが出来かねているのだ。
自分が消し去ることになるかもしれない。この世界と引き換えに、その命を奪い去ってしまうかも知れない。
そんな少女の姿を、どんな顔をして見ればいいのかわからない。
「ごめん」
何に対する謝罪なのかも、わからなかった。ただ今は、肩に感じる温もりが苦しい。
エリィはなにも言わず、ただ彼女が離れていくのを待っていた。
「私には、話せない?」
違う。そういうことじゃない。
奥歯を痛いほど噛みしめて、それでもエリィは無言を貫き通した。
「…………そっか」
冷え切った空気を肺に流し込み、ニーナはゆっくりと体を元の態勢に戻す。
諦めてくれたのだろうか――、そう虚しさと安堵に瞳を閉ざしたエリィだったが、彼女の気配が離れていくことはない。
ニーナは彼の隣に座り込み、動く意思を見せなかった。
その様子に痺れを利かせ、エリィはようやくその頭を上げる。
「ニーナ、いい加減に……っ!」
エリィの視線の先で、ニーナは背を伸ばし、まっすぐに舗装された道を見つめていた。
凛とした横顔が、やけに大人びて見えた。
「――――馬鹿」
その短い一言が、エリィの息を詰まらせた。
鼻の奥がつんと痛い。
そうだ、自分はきっと、大馬鹿者だ。
ここまで来て、ここまで、頼り続けて。
たどり着いた自分には、結局何かを成す力も、意志もなかった。
意識の隅で見た五十年前の『アレクシス』であれば、選ぶ余力もあったのかもしれないと、ふと不毛な考えがエリィの脳裏をよぎる。
彼のように、それを成せる力があれば。
彼のような、完全な神だったならば。
「…………ッ」
人間として生まれた自分に、そんな力はない。
殺すか、見殺しにするか。そんな二択しか選べないのなら。
「どうしようも、ないんだ……」
望まない未来ばかりが、エリィの手のひらに舞い込んでくる。その未来でさえ、必死に追いかけても、手が届くかわからない。
せっかく、ヨルが指示をくれたというのに。
これではジェシカの前で泣いたあの時と、何一つ変わらないではないか。
「……ごめんな」
掴めるものは何だ。掴みたいものは何だ。守りたいものは何だ。守れるものは何だ。
自分がやりたいことは、何だったろう。
「俺は――」
「どうしてわからないの!!」
喝を入れられたように、体がびくりと動いた。
立ち上がったニーナの影に、満月が消える。見上げた先の少女の表情は、見たこともないほど怒りにあふれていた。
「どうして一人で悩むの? どうして話してはくれないの!」
感情に身を任せ、ニーナは口を動かす。
「置いて行けるわけないでしょう?! 私をここまで連れてきたのは、あなたなのよ!」
ニーナの本能は、喉の痛みを訴えていた。ここまで大声を上げたのは、生まれて初めてかもしれない。そう思っても、言葉は止まらなかった。
「あなただったから! だから私は、ダリアラ様を置いて、ここまで来たのに!」
八つ当たりだと、ニーナ自身もわかっていた。
「あなたまで!」
選んだのは自分だ。わかっているのに。
「私を、裏切るのね……!」
その一言が、エリィの体を動かした。
「違う!」
「違わないわ!」
感情が溢れて、止まらない。
「エリィなんか、もう知らないんだから!!」
彼女の影が、突如大きくなった。彼女の背から、アンジエーラの翼が姿を現したのだ。
ニーナの感情の高ぶりに答えるように、エリィを威嚇するように。
美しいと賛美の言葉を口にするには、この状況が似合わなすぎる。
「ニーナ……」
くるりとエリィに背を向け、ニーナは速足でその場を去っていく。
返す言葉など、あるはずも無い。
残されたエリィは、伸ばしかけた手をゆっくりと地面におろした。




