本能
「ぅ……ッ」
「!」
伏せた瞳を上げ、ジェシカはベッドの近くへと歩いた。苦し気なエリィの寝顔に眉を寄せる。
その呻き声は、果たして彼のものか。
「エリィ、大丈夫かな」
足元から聞こえたその声は、微かに震えていた。
「また、目を覚ましてくれるかな」
その理由を、ジェシカは知っている。
「僕とまた、遊んでくれるのかな」
小さい声だ。その体によく似合った。
「――エリィが目覚めたとして」
視界にも映り込まない小さな体に、ジェシカは声をかける。
「お主は」
「わかってる」
彼がどんな答えを求めていたのか。ジェシカは気づいていた。
そのうえで、彼がまったく望まないであろう答えを返した。
「……わかってるんだ」
ヨルはその両手足を動かして、壁際へと走る。開けられた窓の隙間から、夜闇へと飛び出していった。
静寂は、余計な思考を動かさせる。ジェシカは小さくため息をついた。まるで昨日のことのように、五十年前の記憶が蘇るのだ。
エリィの寝顔が、眩しいほどの月明かりに照らされている。似ても似つかない古き友の顔が重なった。
「ヨルだけでは、無かろうに」
自嘲する。
「のう、アレクシス」
ほんの少し視線を動かせば、心地良さそうに眠る少女の顔が見える。アレクシスへ寄り添うように眠る、弟弟子の姿が脳裏にありありと蘇った。
五十年前。彼を裏切り、怒らせたのは、自分だ。
間違ったとは思っていない。それでも今も尚、あの時の自分は、本当に正しかったのだろうかと思う時があった。
そんな問いかけに、答える声はない。そしてその答えは存在しないのだということを、ジェシカは知っている。
「ディアナの言う通りじゃ」
それでも、ふと気づかされるのだ。
「昔も、今も……。妾は『傍観者気取り』なのじゃろうな」
撫でた赤髪が、さらりとジェシカの指を絡めとる。ほんの少しだけ、エリィの表情が和らいだように見えた。
ジェシカは彼が、夢を見ているのだと気づいた。
そしてその夢が、もうすぐ終幕を迎えるということに気づいた。
長く、短く、儚い夢の終わりに気づいた。
* * *
「――何のつもりだ、ジェシカ!!」
叫びのような怒声。
自分に向けられたものではないと解っているのに、僕の体は委縮した。
この辺りで一番高い塔の最上階。僕とディアナは、なるべく天に近い地を探し、遂にここへ辿り着いた。
「見た通りじゃ」
僕らの後を追ったジェシカは、剣を握っていた。
この戦場で手に入れたのであろう傷まみれの剣の先は、僕と、隣のディアナへと向けられている。
「妾は、『アレクシス』による世界の破壊に、抵抗する」
ディアナが彼女の無事を喜んだのは、つい数秒前のことだ。
こんなにも一瞬で、この場の空気というものは変化するものなのか。
「裏切ったのか!」
「何を言うか。妾は最初から、暇つぶしだと伝えたはず。……共に行くとは言ったが、世界の破壊に助力する、と言った記憶は無い」
ジェシカの言葉は、間違いなく事実だ。彼女と同じように、僕もまたそのような記憶は持ち合わせてはいない。
輝きを持たない剣身は、迷いなく僕の命とやらを狙っている。
「妾は、この世界を守ると決めたのじゃ」
僕にとって、目の前の存在は障害に他ならない。邪魔をするならば、排除するまでだ。
「テメェ……!」
ディアナがズボンのポケットから何かを取り出し、指を鳴らす。その小さな粒は、空中で膨張し、やがて熊の形を模るぬいぐるみに成った。
彼の魔法は、あの熊を通さなければ具現化しないという。彼の能力に問題があるのだと聞いた。
「……ディアナ」
「訳分かんねーこと言ってんじゃねえぞ! その頭カチ割って、目ェ覚まさせてやる!」
彼の手の中でぐんぐんと質量を増やす熊が、やがて僕の身長の三倍程に膨れ上がった。
「ベア子、やってやれ!」
その太い両腕が、狭い塔の中でジェシカの体を圧し潰すように動き始める。その手が床を殴る度、僕の体は大きく揺れた。
「妾に、魔力で勝とうとは」
しかし、ジェシカへ向けて振り下ろしているはずのその腕は、彼女の横の床を殴るか、もしくは上空で止まるか。そんな動きを繰り返していた。
彼女から湧き上がる感覚に、僕は不思議な心地よさを感じる。
彼女の力は、より神に近い。力の差は歴然だ。ディアナでは、この魔女に敵わない。
「俺たちは、アレクシスの力になってやるって! 約束したじゃねーか!」
痺れを切らせたディアナが、説得するように声を上げる。
ジェシカは言葉を返さない。ただ防戦を続けていた。
そこで、僕は気づいた。一体僕は今、何をしている?
ディアナが、僕の障害を止めている。
彼の勝利を待たずとも、この時間で僕の使命を果たしてしまえばいい。
加えて、彼が勝利する確率は五分以下だ。待てば待つ程、僕にとって利益はない。
僕に、彼女を抑える力はない。
手汗を握りしめて彼らの攻防を睨む時間は、僕という存在にとって無駄以外の何物でもなかった。
「……」
僕は不思議と重い足を動かして、彼らの前から立ち去った。背後から聞こえる鈍い音が、僕の心拍を早めていく。
塔はここが最上階だが、この上には屋上という場所があるはずだとディアナは言っていた。
彼の言った通りで、出入り口のすぐ脇に簡素な扉があり、その先にはさらに上へ続く階段が隠されていた。
鉛のような足を持ち上げて、荒い呼吸もそのままに、僕は階段を駆け上がっていく。
やがて階段に手をついた僕は、頭上から外気を感じ取った。
天井に空いた穴へと、階段は続いている。
そう長い道ではなかったはずだが、僕の心臓は誰かに握りつぶされるように苦しかった。
「っ、は」
曇天に塗りつぶされた空の下で、人間は争いを続けていた。
天井だったものを足の裏に感じる。ここが、最上だ。
体が震える。それは本能からくる歓喜だった。
ここに、僕が生まれた理由がある。
「は、あっ」
聞こえる。怒声が、足音が、呼吸が。
明日の日の出を見るために。この先の未来を、生き抜くために。
神が己らと交わることをあきらめ、すべてを無に還そうとしていることも知らずに。
「は……っ」
なんて、無意味な。
明日を奪うのは、剣を交える同胞ではない。
その身を魔女に守らせ、争う者を悠長に上から眺める、この『アレクシス』だ。
「…………ぁ」
心拍が、さらに早まった。
なぜだろう。いや、簡単だ。
「あ、は」
僕は、この状況に興奮を覚えている。
ようやく僕の目的を達することが出来る、その事実に興奮している。
神の前に塵にも等しく、無力な下等生物を。
この手で、この力で。
ねじ伏せ、訳も分からないままに、命を、全てを、奪い去るのだ。
「はは……!」
それは、神という絶対的な存在に生まれた、『アレクシス』という兵器に生まれた、僕の、僕だけの特権――。
「あははははははははははははははッ!!」
体に力が籠った。
空と、地から、僕に向かって、力が集まってくるのが解る。
僕を中心に、何かが生み出されていくのが、何かが消え去っていくのが解る。
僕を中心に、空間がねじ曲がっていく。
地が揺れる。天が割れる。
人の声が消えた。
この状況に驚いたのか、それとも僕の耳がもう壊れてしまったのか。
わからない。
僕は今、笑っているのか?
――わからない。
「ァ――――――――!」
すべてが、壊れていく。
これでいい。
真っ新にするのだ。失敗作を。
この、僕を。
「――――『マリー』!!!!!!」
音のない世界に、誰かの声が響いた。
それは、僕のよく知る声だ。
「が、は……」
バキバキと、全てが壊れていく感覚。
僕の血管が破裂して、周囲に霧散する瓦礫と共に、全ての血液が天へと舞い上がっていくような。
――いや、違う。
「ッ、あ」
ゆっくりと、視線を下へと落としていく。
「そこまでじゃ、アレクシスよ」
鈍く輝く何かが、僕の胸部から飛び出していた。
これはなんだ。体が強張り視界が歪む。
これは――、痛み?
不愉快な音と共に、胸部の何かが背中から引き抜かれた。同時に、視界が紅に染まった。
これは血液だ。僕の胸部から噴き出している。
『アレクシス』にも、血液が巡っていたのか――。そんな考えが、この状況には不適切なのだろうと気づいた。
立っていられない。途端に朦朧とする意識をどうにか握りしめ、僕はその場に膝をついた。




