旅の終わり
やがてその居心地の悪さが消えると、ディアナはすっくと立ちあがり、闇へ溶けていく。
怒らせてしまったろうか。
揺れ動く赤に意識を向けていると、再び背後からディアナの気配を感じた。
「なあ」
肩を叩かれ、振り返った先に、目一杯のオレンジが映り込む。
驚いた僕の視界の中。しゃがみこんだディアナと思わしき顔が、オレンジの先に見えた。
「コレ、なんだかわかるか?」
これだけ近距離で見れば、視界の焦点も合わせやすい。しかし僕には、そのオレンジが花であるということしか判別することが出来ない。
おそらく彼は、そんな答えを望んでいるわけではないのだろう。
「……申し訳ありません。僕は知識不足です。その花は華麗ですね」
朧げなディアナの表情が、ふっと曇ったように見えた。
「……ディアナ?」
どうも僕はまた、彼を怒らせてしまったらしい。謝罪の言葉を述べると、ディアナは違うんだと首を振った。
「お前は今、アレクシスなんだな」
そんな言葉の意図を、僕はくみ取り切れなかった。首を傾げ疑問を唱えたつもりだったが、僕の問いかけに、この晩彼が答えることはなかった。
* * *
三日が経過した。僕たちは、とある大陸にたどり着く。賃金を渡し乗った漁船の漁師へ感謝を述べ、すでに海岸を歩いていた僕とディアナの元へ、ジェシカが駆けてきた。
「さて、もうすぐかえ?」
ジェシカの問いかけに、僕は頷いた。
僕が目指していたのは、この世界で最も魔力が充満しているらしい土地だ。僕も彼らも、その土地を知らない。それでも、僕はその場所を識っていた。
方角、距離、高度。地形とそこに住まう生物の種類と数。
『アレクシス』として、初期から持ち合わせていた知識だ。
日が落ち昇る度、早く向かえ、早くたどり着けと心が騒めく場所。おそらく、僕はそこで、この世界を壊すのだろう。
それは確信にも近い予感だった。
「はい。僕はこの大陸で、間違いないと考えます」
身が震える。この大陸からは、混沌と血の匂いがする。これまで歩いてきた道のりの中で、最も淀みを感じる。間違いない、ここが世界の綻びだ。
僕の言葉に従うように、ジェシカとディアナが歩を進めていく。
この先に、僕の生まれた意味がある。そう思うと、まるで人のように心が躍った。
ここから僕たち三人は、丸二日の旅を続けた。
しかし近づく旅の終着点に、ディアナは不思議と表情を曇らせていく。申し訳ない。やはり彼は、世界を終わらせることに乗り気ではなかったのだろう。
「……おはよう、アレクシス」
日の出前の空を背景に、ジェシカはこちらを見下ろしていた。
目を覚ました直後、視界がクリアなのは初めてのことだ。僕は、自分が眼鏡をかけたまま眠っていたことに気づいた。
ディアナと話したあの夜の後、彼から受け取った度の強い丸眼鏡。
珍しいことだった。自分のことながら驚いた。
「おはようございます、ジェシカ」
起き上がった僕の頬に、ジェシカの手が伸びる。
今日は首をならしていないはずだが。身を固めた僕の頬に触れたジェシカの指は、ゆっくりと眼鏡の下に潜り込んだ。
驚いた僕の前で、ジェシカは微笑みながら僕の目元と頬をなぞっていく。
「どうか、しましたか」
動揺した僕の言葉に、ジェシカは静かに首を振った。
やがてジェシカの白い手が離れていくと、視界の隅からディアナが歩いて近づいて来るのが見えた。
今日は二人とも早起きだ。
「おはようございます、ディアナ」
僕が体を動かし顔を上げると、ディアナは「おう」とだけ答えた。
「……?」
よそよそしく見えるのはなぜだろう。答えを求めてジェシカを見るが、彼女もまた困ったように肩をすくめたのだった。
「聞いてきたけど。どうやらこの辺りは、特にザデアス同士の抗争が激しいらしい。中でもアンジエーラとデーヴァとかいう有翼族の争いが、ここ数十年続いてるんだと」
ディアナは、近くにあった集落に足を運んでいたらしい。
ザデアス同士の争いは、ここまでの道のりで幾つも目にしてきた。それでも、この地に蔓延る死とは比べ物にならない。
おそらく、ザデアスではない人間まで巻き込まれている。
数十年でその二種族は、引くに引けないところまで来てしまったのだろう。
「理解出来ました。僕は感謝を伝えます」
立ち上がった僕は、改めて目の前の二人へ視線を送る。
「そして今までの労力に、僕は二人へ感謝を伝えます」
僕からの依頼は、ここで達成された。これ以上、僕の傍にいる必要はないのだ。
「二人の任務は、完遂されました。この後は、『アレクシス』が仕事をします。それでは、ありがとうございました」
足を動かす。もう数時間後には、僕の命は終わる。そして同時に、この世界も終わる。
その数時間くらいは、彼らに自由があっても良いだろう。
「何言ってんだよ」
手首を掴まれ、振り返る。苛立った様子のディアナが、僕の手首を掴んでいた。
「今更別行動なんて、出来るわけねーだろ」
眉を寄せてしまう。どうしてそこまで、この暇つぶしに拘るのか。
「二人には、自由があります」
「それならば。妾たちはその自由とやらを、お主と共にあることに使おうぞ」
ディアナの隣に並んだジェシカの言葉に、僕は返す言葉を失う。
そんな、無駄なことを。
「連れて行けよ、その終焉とやらに」
「…………」
人間というものは、まったく理解の及ばないことを言う。
* * *
神の創造物であるにも関わらず、僕は完全無欠の機械ではなかった。
五感は満足に働かず、記憶も途切れ途切れ。
どうして。
せめて、僕の全てである彼らとの時間くらいは。
全て抱いて、消えるくらいは良かろうに。
* * *
死に覆われたこの地では、今も二種の有翼族による争いが行われていた。
そこらかしこから香る血液の香り。その中を駆け抜ける僕たちを、彼らが放っておくはずもない。
危険を冒してでも、終焉を目指して走るしかないのだ。夜を待ち、確実に進むには、僕の命は短すぎる。
「ジェシカ!」
ディアナの叫びに振り返ると、地面にしゃがみこんだジェシカの姿が見えた。
強く鼻をくすぐるジェシカの匂い。彼女の足元は深紅の海。流れ弾が足に当たったのだ。
「構わぬ、早く行け!」
青空の下で美しく輝くはずの銀の髪が、砂ぼこりと血液で汚れている。
背後から聞こえたジェシカの声に、僕の脳内が渦巻いた。
なんだ、この感覚は。
「クソっ!」
立ち止まり周囲に目を向けたディアナの姿に、僕の足も止まりかける。
だめだ。何をしようとしている?
僕は『アレクシス』なのだ。このまま、目的の場所へ駆けることが使命なのだから。
「ディアナ、行くのじゃ!」
幸い、先ほどまで僕たちを追っていた人影は既に見えない。加えて、周囲近くに人の気配もない。
しかし、いつまでもここに立ち止まっていたならば話は別だ。
ディアナがここに残るのであれば、それで構わない。
脳ではそう言葉が浮かんでいるというのに、僕の口は動かなかった。
ついに、顔面の筋力まで衰えてしまったのか。
「……チッ、行くぞ!」
熱い手のひらが僕の背中を押す。動かない足は、僕のものだった。




