昔年の記憶
* * *
視界が眩しい。随分と長い間、目を瞑っていたようだ。
起き上がった僕は、伸びを一つして首を鳴らす。寝ぼけている僕の癖。いつからかわからない、生まれた時からの癖だと、僕はそう言っている。
「あーっ! また首を鳴らしておったな!」
むくりと起き上がった僕は、こちらを指差しながら駆け付ける女性の姿が見えた。
しかし、いくらその女性が僕の傍へ近寄っても、その姿はぼやけて良く見えない。
「首は大切にしろと、何度も言っておるじゃろう!」
僕の傍でしゃがみこんだその女性は、労わるようにそっと白い手を僕の首筋に添えた。撫でてくれるその手が温かくて、僕は再び目を閉じる。
「いつまで寝ておる! そろそろ夕飯の用意をするのじゃぞ!」
「っ」
首筋を撫でていたはずのその手は、何時しか僕の頬へと移動し、僕を覚醒させようと軽く何度か叩いていた。
「それは、僕に苦痛を与えます……」
痛くはない。それでも「痛い」というのは、人間の面白いところだ。
「おいおい。それじゃ『こいつ』、何も見えてないんじゃねぇのか」
後ろから男性の声がして、僕はその主を見ようと顔を上げる。
しかしぼやけた視界に人の姿は無く、変わりに清々しい太陽の光が、僕の眼球に降り注いだ。
「わ」
慌てて俯くが、太陽光の速さを前に、人の行動が間に合うはずもない。すっかり自然からの目くらましを受けた僕を、女性と、僕の後ろに立つ男性が笑っていた。
笑うことないじゃないかと顔上げると、ぼやけた視界の上から、二つのフレームが下がってくる。両耳になにかが触れる感覚があった。
「ほら、寝坊助。これで見えるだろ」
それは眼鏡だった。何度か瞬きを繰り返しながら、レンズの位置を自分の手で調整する。
その間に僕の前へと移動したらしい男性の姿が、焦点の合い始めた視界に入ってきた。
足元に生える草の一本一本が、僕の肌を撫でていることに気づいた。
そうだ、僕は草原で日光浴をしている間に、眠ってしまったのだっけ。
顔を上げる。僕の顔を、笑顔で見つめる二人の姿があった。
「目が覚めたかえ?」
僕が頷くと、彼女は満足げに頷いて、隣に立つ男性を見上げた。僕もその視線を追って、男性の顔を見る。
「ったく。寝た分、少しはいつも以上に働けよ」
呆れたようなその声が、僕の寝起きで不透明だった記憶を呼び起こした。
おかしいことだ。どうして今さっきまで、まるで二人のことが思い出せなかったのだろう。
「さあ行くぞい」
「さっさと来いよ」
二人に手を取られ、立ち上がる。
「「アレクシス」」
二人が呼ぶその名前は、僕の物だ。
「はい。僕はあなた方へ感謝を伝えます。――ジェシカ、ディアナ」
何と清々しい、いつも通りの平穏な日々。
* * *
生まれた瞬間を「自分という存在が形成された時」だと言うならば、僕の誕生は「世界を破壊せよ」と神に命ぜられた瞬間だ。
人ではない。しかし、神でもない。
この世界と共に消滅するために生まれた、喋る兵器。それが僕だった。
「なあ、アレクシス。最近、睡眠時間が更に増えてないか?」
焚き火のそばに座り込んだ僕の隣で、ディアナが眉を寄せていた。
アレクシスというのは、僕の生まれ持った名前だ。誰に教えられたわけではない。だから、「生まれ持った名前」なのだ。
「確かに。僕はほんの少しだけ、それを感じているように思うかもしれません」
目を覚ました時、僕は大人の脳と体を持つ赤ん坊だった。僕は言葉や体の動かし方と言った、一通りの「生きる術」を身に着けた赤ん坊だったのだ。
そう言うとどうも伝わり辛いだろうが、つまりは僕が意識を初めて持った時には既に、記憶を持たない完璧な成人男性だったという訳だ。
僕が自我をもってこの世界に産み落とされた時、初めて僕を見つけてくれたのが彼ら『魔女』の姉弟だった。
姉弟子のジェシカと、弟弟子のディアナ。二人の師は今ここに居らず、二人の間に血の繋がりは無い。
彼らは僕を、まるで家族のように扱ってくれる。僕もまた、彼らと同じように行動した。
「かも、って……お前な。自分の体調がおかしいとか、そういうこと何も感じねェのかよ」
同じように座り込んだディアナに、僕は困ってしまって首を振った。
「はい。僕は赤ん坊を脱却しましたが、身体の異常は感じられません」
「……相変わらず、解り辛ェな」
僕が生まれながらに持っていたのは「言葉」であって、その言葉をどのように扱えば、どのように相手に伝わるのかまでは、未だに理解できていない。
だからなのか、僕はよく二人から「難しいことを言うな」と言われてしまう。申し訳ないことだ。
僕が機械的な苦笑を浮かべると、ディアナはどこかへと視線を逸らしてしまった。
「お前の目的は、この世界を壊すことなんだろ?」
頷く。最初の頃こそ躊躇いはなかったが、今では情を持ってしまった相手に「お前ごとこの世を破壊する」などと伝えるのは、どうも気が引ける。
これが、人間らしい感情なのだろう。
約一か月。僕が彼らと共に行動を続ける中で、学び得た感情だ。
「なんかさ、俺からすれば……なんつーか」
言葉の続きが想像出来ず、僕は黙ってその続きを待った。
「世界より先に、お前の体が先に壊れそーじゃん」
「……!」
驚いてしまった。
老いた訳ではない。それでも、僕の身体は日に日に壊れていた。僕の中にあるはずの五感は、日を追うごとに薄れて行くのだ。
まるで、人を模り生まれた僕という存在を、目的へと急かすように。
しかしそれは、僕の体内で起こっていただけのこと。
他人である彼が気づくはずも――。
「お前、その眼鏡だって大して意味無ェンじゃねーの」
「!」
焦点のない視界に映っているのは、長い髪を一つにまとめた人間。クマのぬいぐるみを抱いた、長身の人間だ。
しかし僕は、彼を「ディアナ」という一つの個体として認知している。だからこそ、その朧な立ち居振る舞いや声から、彼であるという判断を行っているに過ぎない。
僕は今、視界に映るあの人間と思わしき存在が、男なのか女なのかさえも判別することが出来ないのだ。
僕の中にある五感は、日に日に衰えていた。
それでも悟られぬようにと動いた。僕の振る舞いは、完璧だったはずだ。どうして悟られたのだろう、理解が及ばない。
「お前な……」
それはディアナの声だ。その声色には、呆れの感情が含んでいるらしい。
ディアナと思わしき人影が、手のひらを地面について僕の顔を覗き込む。驚いた僕は、大した意味も成さない両目を見開いた。
「俺たちは家族だろ」
僕の脳は、その言葉に過剰に反応する。
家族というのは、配偶者と呼ばれる一種の契りを交わした男女と、その男女の元に誕生した血縁者のことを指すのだ。その定義に間違いはない。
つまり、僕と彼は家族という関係ではないのだ。当然、ジェシカとディアナもまた、家族ではない。
その関係が、どれほど親しかろうとも。
「お前、また難しいこと考えてんな?」
僕がなにかを反論する前に、ディアナの声が僕の思考を停止させた。
まったくその通りだ。今の思考を彼に伝えたところで、途中で飽きられてしまう未来は容易に想像がつく。
「……」
不満を顔面に出すと、ディアナは鼻で笑った。
「お前がどう思おうと、俺たちはアレクシスの家族だからな」
焚き火の先で、毛布に身を包んだジェシカの姿が見える。巨大な岩に背を預け、彼女は眠りについていた。
「……僕が二人を連れ出したのは、僕の目的のためです」
彼らは一か月前、何もない荒野に倒れこんでいた僕を見つけてしまった。僕を心配して、二人の住まう洞穴まで連れてきたのだという。
実際、僕は倒れていたのではない。「生まれたばかり」だったのだ。
僕が「生まれ」て最初に顔を合わせたのが、彼ら二人の魔女だっただけのこと。
「この世の綻び。そこへ、僕を連れて行くことは可能ですか?」
そして、初めて彼らに言った台詞はこれだ。今考えれば、命を救おうとしてくれた二人に対しての第一声とは思えない。
それでも二人は、快く承諾した。
「それについては、何度も言ってんだろ」
「暇だから、と?」
二人は永劫の生を持っているのだという。既に数百年もの時を過ごしてきたと。
「そういうこった。それに、俺もジェシカも、困ってる奴はほっとけない質でさ」
どうも納得いかない。僕に手を貸すということが、世界を破壊に導いているという事実に気づいていないのだろうか。この期に及んで?
「お前なあ、表情だけは分かりやすいよな」
また、呆れられてしまった。
「いいんだよ。俺たちは、お前の正体を知らずに助けた。だから、それでこの世界が壊れたって、それもまた運命だ」
そういうものなのだろうか。僕の常識は、彼らとは少し違うようだ。
いや、彼らの常識が僕に通じないのは、当然の理だろう。
「――――当たり前だ」
つい、声に出してしまった。
「ん?」
どうもディアナは耳がいい。そこもまた、僕と彼との間にある差異だ。
「いや。……僕は再認識しただけです。僕は、『アレクシス』なのだと」
不思議そうに首を傾げたディアナに、僕は笑っておいた。
僕はアレクシスだ。しかしそれは、僕という個体に名付けられたものであり、僕という能力を示す名称。
世界を破壊するための兵器に付けられた、呼称に他ならない。
「お前……」
「忘れてください」
口を滑らせてしまったようだ。羞恥の念を紛らわすように、僕は焚き火の赤に視線を向けた。
空は深い藍色だというのに、不思議な空間だ。
隣から刺さる視線が、心地悪かった。