絶たれた希望、加速する異変
「……わかった。下がっていい」
ハイドラの言葉に頷いた兵が、一礼の後部屋を後にする。閉ざされた扉が、重く擦れた声を上げた。
兵の姿が扉の向こうへと消えていく様子を見届けて、ハイドラが深く息を吐く。
隊内部の混乱は、熾烈を極めていた。
戻らない精鋭部隊、襲い来る獣、沈まない月。隊がアルケイデア城から撤退し、何時間が経過しただろうか。
いつまでも「夜」が終わらないのだ。まるで、時が止まったかのように。
本陣を聖都アルケイデアの端に構え、総司令官であるフランソワ、ハイドラはその場で報告を聞いていた。
シンハー率いる部隊は、ベテルギウスに残されていたアルケイデア国民の発見及び保護を完了し、今はベテルギウスの端で待機しているそうだ。保護した国民の中に、駐屯兵は一人として見られなかったという。
冷えた空気に息を吐き、視線を上げたフランソワを、開け放たれた窓の先の満月が見下ろしている。
「あの日以来、月は少しも動いていないらしい。例の獣も、あの月の出現に答えるように、その動きを活発にしているみたいだね」
ハイドラは腕を組み、腰かけた背もたれに体重を預けた。ギシ、と木製の椅子の軋み、フランソワへ返事を返す。
「ベテルギウスの端からは、ここと同じように上空に上がる土地を、いくつも確認したそうだ」
まだ形のある家主の居ない家を拝借し、二人は会合を続けている。
「あの月が、『アレクシス』の象徴なのかもね」
背に満月の明かりを感じながら、フランソワがハイドラの傍へ寄った。
視界の端に映り込む満月が、ハイドラの記憶を呼び起こす。記憶の中のダリアラは、満月の日が来る度、窓の外から物憂げに空を見上げていた。
もしもあの時、彼の抱える運命に気付くことが出来ていたならば。こんな未来は、訪れなかったのだろうか。
そんな考えに、ハイドラは強く首を振った。気づいたところで、ダリアラは適当にはぐらかしただろう。あの時の自分に、『アレクシス』を止める手段があった訳では無い。
「さあな。そんなことより、これからのことを考えるべきなんじゃねぇの」
吐き捨てるような返答に、フランソワが苦笑する。
「そうだね。でも、正直手詰まりだ」
何かを言い返そうと腰を浮かせたハイドラだったが、彼の脳内に浮かぶ言葉は無かった。
あの日まで、一度として異常現象に直面したことのないアンジエーラ王国なのだ。その元凶に対し、何か策があるはずもない。
「アンジエーラ族の君たちが、禁忌まで犯したのにね」
顔を覗きこまれたハイドラが目を丸くし、腰を折ってくすりと微笑むフランソワの体を押し返した。
「おっと」
わざとらしくふらついたフランソワの傍をすり抜けるように、ハイドラが立ち上がる。
「『天の使いたる我が種は、他種族と関わりを持ってはならない』」
アンジエーラという種族に伝わる決まり事だ。再び争いを起こすかもしれない、そんな蛮族な他のザデアスとは、一切の関わりを持つことを禁じられていた。
国の経済は全て、国内で回っていたアンジエーラ王国なのだ。国外に足を運ぶ必要などなく、国内に居れば禁忌とされずとも、他種族との関わりを持つことなどない。
建国から五十年、アンジエーラとして生まれた人々の誰もが、その禁忌を破ったことなどなかった。
「……ステラリリアがお前の国に向かったのは、ダリアラの指示があったからだ」
ダリアラからその話を聞いた時は、血の気が引いたものだ。城の外壁の外に一度たりとも出たことのない少女が、城外どころかまさか国外に居るとなれば、どのような危険に晒されているかと心配もするだろう。
「俺だって元々は、その禁忌とやらを破ってお前等の国に殴り込もうとしたんだぜ?」
ハイドラの背に向かい、「そういえば」とフランソワが頷く。彼はあの戦争を、異常現象を抑える舞台としか捉えていなかったのだろう。
自身のそう古くはない過去を思い返しながら、ハイドラはバツの悪そうな表情を浮かべた。
「俺が王になったら、そんな禁忌消し去って、他国との貿易も再開するつもりだった。禁忌なんてのを口うるさく言ってんのは、一族の老害とステラリリアだけだぜ。そんなアイツが禁忌を犯す理由なんて、ダリアラ以外に無ェ」
正直あの日、意識の無いエリィと共にステラリリアがこちら側へ戻って来たのは意外だった。ダリアラの元へ戻った彼女と、ハイドラは敵対する覚悟さえしていたのだ。
いや。恐らく城を出る前のステラリリアであれば、最初からこちら側には居なかっただろう。
ダリアラの行動を制することも、彼と敵対することも無かったはずだ。
「今のアイツは、ステラリリアじゃねェのか」
新しい出会いが、ダリアラに盲目であった彼女を変えたのだ。
「……俺には、出来なかったのにな」
彼女にとっての自分が、仕えるべき相手なのだということは理解している。それでもハイドラは、これまで何度も自分の前でステラリリアとしてあろうとする彼女を変えようとした。
しかし彼女を変えたのは、兄として十八年共に居た自分ではなく、出会って半年も経たない隣国の少年だったのだ。
「エリィが羨ましい?」
思考を止めたハイドラが、フランソワの言葉を咀嚼した。
「そりゃあ、羨ましいに決まってる。俺にはない物を、アイツは全部持ってたんだからな」
責任のない発言。何者にも縛られない自由な生活。
根拠のない信用。
王子ではない、魔女の使いのそんな姿が、羨ましかった。
「でも」
顔を上げたハイドラと目を合わせ、フランソワは目を丸くする。
「アイツに羨ましいなんて言えるかよ。俺たちの中で、今一番苦しんでるのはアイツなんだ」
数回瞬きをした先で、ハイドラの瞳が揺らぐことはない。
「……そうだね」
エリィが目を覚ます気配はない、と。疲弊しきった様子のゲルダから報告があったのは、つい二時間ほど前だ。
医師としてエリィの傍に居たゲルダだったが、彼が目を覚まさない理由ははっきりとはわからないという。
それでも彼女は、ニーナから聞いた出来事を元に、
「エリィの体内にあった『アレクシス』の力が奪われたことで、急激に変化した体内環境に、意識が追い付いていないんじゃないかと思います」
と結論付けた。
つまるところ、彼が目覚める可能性は充分にあるが、それが何時になるかはわからないという状況なのだ。
エリィが目覚めるのが先か、ダリアラが世界を壊すのが先か。
悔しそうに、ゲルダはそう告げたのだった。
「エリィの様子を見てくる。ステラリリアにも一度寝るように言った方が良いな……。お前はここで休んでろよ」
一度仮眠をとると言ったゲルダは、その後「ニーナがずっとエリィの傍についている」と言っていた。
恐らくニーナは、ゲルダのように仮眠をとってなどいない。
「待ちなよ」
扉へと足を向けたハイドラの方に、フランソワの手が乗った。
「なん――――ッテェ?!」
振り返ったハイドラの額に衝撃が走る。
驚くまま足元をふらつかせ、ハイドラはその場に尻餅をついた。
「な、なにすんだ!」
「何って。デコピン、と言うんだろう?」
そういうことを聞いているのではないのだが、と。額を手のひらで抑えたハイドラが、困惑したままフランソワを見上げる。
「まったく。寝てないのは君もだね」
怒りさえ見えるその表情に、ハイドラが言葉を詰まらせた。
「いいかい? 僕たちは軍のトップで、君は国のトップになる男だ。自己管理が出来なくて、どうして部下の管理が出来ると思う?」
腰に片手を当て、もう片方の手で人差し指を上げる。
「そんなフラフラな状態で、よくまあ人の心配が出来たものだね」
確かに驚きはしたが、あの程度の衝撃で座り込んでしまうような鍛え方はしていない。しかし自分の尻の下から感じるのは、レンガ作りの冷ややかな床だ。
ハイドラは初めて、自分の体が疲弊しきっていることに気付いた。
「僕は聡明な王子で立派な指揮官だから、とっくに仮眠を取ったんだけど。そのおかげか、今とっても元気なんだよね」
突然の自尊に動揺を隠せないハイドラに、可笑しそうにフランソワが笑う。
「だからエリィの様子は、僕が見てきてあげる」
座り込んだハイドラの肩をぐっと押し込むように叩き、フランソワが離れていく。
「エリィが危険な目にあったこと、自分のせいだと感じているんだろう? まったく、兄妹そろって世話焼きだね」
扉の先へと消えたフランソワが、まるで捨て台詞のように呟いた声が、ハイドラの脳内で強く反響する。
全くその通りだ。
あの時、自分がエリィだけでもと行かせなければ、彼はこんな状況にはならなかったのではないか。そんなことは無いと言い聞かせながらも、心のどこかで責任を感じていた。
エリィが苦しんでいるというのに、自分が寝る訳には行かないと。
気づいてしまえば、あとは本能の主張を聞き入れる他ない。急激に重くなる身体を感じて、ハイドラが眉を寄せた。どうにか体を引きずり、ベッドに上半身を預ける。
「…………兄妹揃って、か」
睡魔を受け入れたハイドラは、自分がそう呟いていたことに気付かなかった。