罠
「廊下も駄目だよ!」
慌てて退路を確認したらしいゲルダが、悔しそうに声を上げる。すでに背後の廊下にも、異形が群れを成していた。
逃げ場はない。ハイドラが舌打ちを漏らす。
嵌められた。彼らが最初にこの場所へ来ることを見越しての罠だ。
あれだけ静かだった城内も全て、ダリアラの罠だったのだ。
「仕方が無いね。……応戦しよう」
フランソワが首を鳴らすと、その双眸が爛々と輝いた。
デーヴァ族らしい姿を取り戻したフランソワは、後方から飛び掛かった異形を鋭い爪で切り裂いていく。続けざまにその筋肉質な双腕が、迫り来る異形を組み伏せる。
「やるぞ!」
二人の王子の声に反応した兵騎士が、一斉に周囲の異形と交戦を開始する。
「私も!」
同じようにフランソワの隣に立ったゲルダが、竜の両手を構えて異形を睨みつけた。しかしフランソワはゲルダの前に立つと、異形から視線を逸らさず声を張る。
「君は、エリィの傍に」
動きを止めたゲルダの隣から、フランソワは再び姿を消す。異形の群れの中、鮮血をまき散らしながらも爪を振るう姿は、正に悪魔だ。
ゲルダはぐっと手を握り、振り返った先のエリィの前に立つ。
「ゲルダ……!」
「大丈夫、任せて!」
心配そうに声を上げたエリィの傍で、兵騎士の包囲網を潜り抜けた異形を、ゲルダは確実に倒していく。
ちらりとゲルダが視線を背後へと向けたが、そこでは腰の剣に手を当てたまま立ち尽くすニーナの姿があった。応援は、頼めそうに無い。
「俺もなんか手伝うぞ!」
そう言いながら、エリィは周囲になにか武器になりそうなものは無いかと探す。残念ながら、それらしいものは見当たらない。肩の上のヨルが、そんなエリィに声をかけた。
「エリィ、無茶しない方が……」
「俺ばっかり守られてんじゃ、カッコつかねーだろ……!」
どちらにしろ、武器があったところでそれの扱い方など齧ってすらいないのだ。エリィは精一杯思考を動かした末、自分にしか出来ない方法で、ゲルダの援護に当たることに決めた。
ゲルダへと手を挙げた異形の顔面へ向けて、いくつもの花弁が飛び交う。薄紫の壁が、ほんの一瞬異形の視界を奪った。
当然ゲルダがその隙を逃すはずもなく、異形の顎へと叩きこまれたゲルダの拳。恐らく脳があるはずの頭部を思い切り揺らし、異形の意識を吹き飛ばす。
「エリィ……!」
このくらいしか出来ないが、と苦笑するエリィに感謝の言葉を告げ、ゲルダは再び臨戦態勢を整えた。
彼女には確かに戦闘の才がある。しかし、彼女の本業は医者だ。戦闘員ではない。
今回のように対多数の状況は、恐らく初めてのはずだろう。
それでもハイドラたちに引けず劣らずの立ち回りを見せるあたり、流石はドラグニア族と言ったところだろうか。
だが、彼女の体力はそう多くない。あまり長くは続けられないはずだ。
少しずつ、しかし確実に、彼女の表情には焦りが見て始めていた。
「ッ、駄目だ、キリが無ェ!」
数体目の死体を払ったハイドラが、苛立ち交じりに声を荒げる。現状こちら側に欠落者は出ていない。だがそれも時間の問題だとハイドラは感じていた。
「これじゃ消耗戦だ! 俺たちに勝ち目は無ェぞ!!」
同じような感想を抱いていたフランソワが、周囲の兵騎士たちの様子を盗み見る。体力の限界はそう遠くはないだろう。
「一度撤退しよう、退路を切り開く! 戦力をこちらに集中させてほしい。出来るか、ハイドラ!」
苦渋の決断ではあったが、命あっての作戦だ。自分やハイドラという隊の頭を、そして要であるエリィを、ここで失うわけにはいかない。
「二人までだ!」
明らかに敵の多いダリアラ側は、現在彼を合わせて六人で対応していた。三分の一の戦力が減れば、残された者たちの負担は倍では済まされない。
この防波堤が崩れれば、エリィやゲルダ、ニーナは勿論のこと、フランソワが退路を作るよりも先に背後から迫る異形に殺される。
短期決戦だと、フランソワが心で吐き出す。久方ぶりに、額に冷や汗を感じた。
「十分だよ……!」
一度体制を立て直し、駆け付けた二人の騎士と共に再びフランソワは異形の群れへと駆け出した。
これらがダリアラの意思であることは、昨晩の動きからも明白だ。彼の思う壷だと思うと苛立ちもあるが、今はそんなことを言っている場合ではない。
押し出す様にフランソワが足を進める。もう少しだと両腕に力を込め、前線を上げていく。気づけばいつの間にか、随分と大広間の内部まで押されていたらしい。扉まであと少しだ。
「よし、廊下に――」
フランソワの言葉は、あまりの衝撃に途絶えてしまった。
廊下に出た。
だから、なんだというのだと。
廊下を埋め尽くさんばかりの白の異形が、フランソワへと一斉に視線を向けた。
この数を相手にしながら、先へ進むことなど不可能だ。
「フランソワ様、これでは……!」
絶望にも等しい状況に、思わず一人の騎士が声を震わせた。フランソワは舌打ちを漏らし、再び大声を上げる。
「エリィ!!」
名を呼ばれたエリィが、交戦を続けるゲルダの後ろで振り返る。
「先に行くんだ!!」
そんな言葉に、動きが止まった。
「な……」
「一時的に道を開くことなら出来る。そこの少女たちを連れて逃げろ!」
そんなこと、出来るわけが無い。
エリィが衝撃に眉を寄せるが、その言葉を早々に受け止めたのは、彼ではなくゲルダだ。
「エリィ、行こう!」
一瞬の隙をついたゲルダが、エリィの手首を掴む。
「お、おいゲルダ、でも……!」
「私たちが居ても足手まといだよ! 今は王子サマに従おう!」
誰かを庇いながら戦うことの不自由さを、ゲルダはエリィより余程知っている。ほんの少しの抵抗を見せたエリィへ次に声をかけたのはハイドラだった。
「そういうこった! 俺たちは問題無ェよ! すぐ後を追う、今はとにかく生きることだけを考えろ!」
そんなハイドラの言葉に、この状況が死と隣り合わせなのだと再度実感した。エリィはハイドラの様子を一度見て、そして決意する。
「わかった……!」
エリィが頷いたことを確認すると、ゲルダがその手を引く。しかしエリィはその手を拒むと、驚いた様子のゲルダと一度アイコンタクトを交わし、もう一人の少女の元へ駆け寄った。
「っあ」
「ニーナ、お前も行くぞ!」
白い手を握り、半ば強引にニーナの体を引く。抵抗はないが、進んで共に行こうという意思は感じられない。それでもエリィは、彼女の手を離さなかった。
二人を迎え入れたゲルダと共にフランソワの傍まで駆け寄る。彼は三人の姿を確認すると、その背から赤紫の翼を生み出した。デーヴァ族の本来の姿だ。
「チャンスは一度きりだ。……駆け抜けるんだよ!」
翼が羽ばたき、衝撃波が異形を襲う。ただの空気の震えだが、その近くに居たエリィたちは、自身の体が芯から体が震えあがるのを感じた。
それは目の前の異形たちも同じらしく、どこか狼狽した様子が見て取れる。
「行け!!」
フランソワの言葉に弾かれるように、エリィは駆け出した。ゲルダが先行し、尚も迫り来る異形をどうにかなぎ倒していく。
こんなことが出来るのであれば、最初から行えば良いのではとエリィは考えたが、そうもいかないのだとすぐに理解する。
異形が狼狽の色を見せたのは、ほんの一瞬だ。そして恐らく、二度目は殆ど威力を示さないだろう。自分の中で、抗体のようなものが生まれているのに気付いた。
それでも、三人が駆け抜けるには充分すぎる程の隙だと安堵した瞬間のこと。
「ッ!」
ゲルダの死角、凡そエリィのすぐ隣から、彼女に向かって飛び出した異形の姿を視界に捉えた。
今からゲルダに危険を伝えたところで、彼女の防御は間に合わないと悟った。普段であれば頼れるはずの肩の上の存在は、なぜか一向に動こうとはしない。
背後で、ニーナの息を飲む気配を感じた。
「――!」
ああ、なぜ、この瞬間にもなって。
エリィはニーナの手を強く握りしめ、そしてもう片方の手を異形へと伸ばした。この一瞬で抱ける精一杯の集中力と気力を、指先へと送り込む。
(なんで俺は、誰かに頼ろうとしてんだよ!)
「花に、成れ!!」
苛立ちと焦燥に駆られ、エリィの叫んだ声はどこか擦れていた。
それでも指先に感じた獣毛が、一瞬にして形を失っていくのを確信する。
はらはらと解けていくように、白が薄紫へと染まり舞い落ちてゆく。
その先を見届ける余裕など、彼らにはない。
「行くぞ!」
目を丸くしたゲルダだったが、その足を止めることはない。その後も同様にゲルダとエリィとで異形を退けながら、三人は大広間の扉の見えない場所まで駆け抜けた。
「はあ、はあ……!」
駆け抜けたことに加え、あまりの緊張に心拍数が上がる。ある程度群れを抜けた先でも、異形は絶えず廊下に点在していた。
「行くしかない、よね……!」
顎に垂れた汗を、竜の手の甲で荒々しく拭き取り、ゲルダが再び前を見据えた。
「ああ、急がないと後ろからまた……、ッ!」
耳を裂くような咆哮が、エリィを背後から襲った。
先ほどの大群の一部が、彼らを追って来ている。万が一前からも同じような群れが来てしまえば、この廊下で挟まれて今度こそ終わりだ。
「急ぐしかねぇのか?!」
逸る気持ちに脳が揺れる。正しい判断が、わからない。
「――僕が残るよ」
突然、エリィの肩から重さが消えた。
ひらりと足元に飛び降りた子鼠が、せかせかと来た道を戻っていく。
「お、おいヨル!」
先ほどまで静かだったのは、まさか兵騎士の前だったからなのだろうか。なぜそんなにも人型を見られることを嫌がるのだろうとエリィは眉を寄せ、しかし今はそんなことを考えている暇はないと首を振る。
「早く行くんだ。それともエリィは、彼らの気持ちを無下にするつもり?」
どこか冷ややかな声が、嫌というほどエリィの胸に突き刺さる。大広間を出る際に奥底にしまったどうしようもなく嫌な予感を、直接突かれたように感じた。
「今はまだ、逃げて良いんだ」
そんな小さな呟きが、不思議とエリィの体を押した。
この場所をヨルに任せることで、自分たちの背後の安全は確実になるだろう。立ち止まりヨルの姿を見つめていたゲルダの背を押し、エリィは駆け出した。
「……絶対! 俺んとこに戻って来いよ、ヨル!」
背後に感じる小さな相棒の気配に、エリィは抱く限りの信頼を乗せて、そう声をかけた。
「当たり前でしょ」
そんなヨルの返答が、エリィの耳に届くことはない。それでもエリィは、その言葉の存在を充分に感じ取っていた。




