決別
「聞くな、エリィ!」
靄がかかったような脳内を、鋭い声が切り裂いた。
「っ!」
びくりと体が震え、歪んだ視界が一気に晴れていく。
エリィは自分の手が、差し出されていたダリアラの手に触れかけていたことに気付き、慌てて手を引いた。
脳内に響いたその声がハイドラのものであることを理解すると、自分の置かれた状況が鮮明に思い起こされていく。
「惑わされないで!」
続けて聞こえたフランソワの声は、どこか切羽詰まった様子だった。
当然だ、彼らは戦闘の真っ最中。少しでも気を抜けば命を落としかねない。
思わず顔を上げると、その先に見えたダリアラの表情は酷く冷ややかで。震える体にどうにか力を入れながら、エリィは数歩彼の元から離れていく。
「俺は、お前を受け入れるなんて出来ない。……世界を壊すのが正しいなんて、俺は認めねーぞ!」
どうにか絞り出したエリィの言葉に、ダリアラは差し出していた手を下げた。
「そうか」
それは、随分と他人行儀な声色だった。
「交渉は決裂だ。お前は私にとっての脅威。手を取り合う未来は潰えた」
今までの優し気な瞳は消え、そこに居るのは自分にとっての敵なのだとエリィは確信した。
「私はお前を殺し、『アレクシス』の全てを手に入れる」
ダリアラの言葉にエリィが身構える。
しかし彼が動きを見せるよりも先に、その背後から複数の足音が聞こえて来た。
闇夜に響く戦闘音に、兵士たちが駆け付けたのだ。
「エリィ!」
その先頭に立つ騎士の後ろから顔を出したゲルダが、ダリアラの影に隠れたエリィの名を呼ぶ。ダリアラがちらりと振り返ると、ゲルダの横に並んでいたニーナと視線がぶつかった。
思わぬ再会に、ニーナの思考が止まる。
「来たか……!」
気配を感じ取ったハイドラが、生まれた安堵で声を漏らす。
「王子たちの援護に当たれ!」
兵たちは二人の王子の様子を目の当たりにすると、先頭の騎士を筆頭に彼らの援護に走った。人数からして、恐らくエリィが伝えるはずであったダリアラたちからの指示の通りに彼らは動いている。流石は国家直属の兵士たちだと言ったところか。
ダリアラは彼らを止めるようなことはしない。その姿を気にしながらも隣を通り過ぎていく、そんなアルケイデアの兵たちには目もくれず、ただ真っ直ぐに、ニーナの瞳を見つめていた。
「どう、して」
震える唇が、どうにか言葉を紡いでいく。目を細め、ダリアラはふっと笑みを零した。
「なぜ、と? 当然だ。ここは私の島。私がエリィの顔を見たいと思ったから来た。なにか問題でも?」
その表情からは想像も出来ない程に冷たい声色。異論を許さない、冷ややかな威圧。ずっと昔から知っていたはずのその声が、まるで赤の他人の物のように聞こえる。
ニーナは言葉を飲み込んだ。
「だが、彼は私の想いを理解出来ないらしい。同じ魂を持つ者同士、理解し合えるのではと期待していたが……。時間の無駄だったようだ」
ダリアラの背後から彼を見上げる、エリィの姿が見えた。浅からぬ二人の関係性を思うと、ニーナは彼へと返す言葉を見つけることが出来ない。
例えどんな甘い言葉を囁かれたとしても、エリィは決してダリアラの言葉には従わないだろう。そんな確信があるからこそ、ニーナは主の願いを叶えられないという現実を受け入れるしかない。
実感すればするほど、更にニーナの体が冷えていく。
「ニーナ」
ふと名を呼ばれる。先ほどまで聞こえていた他人の声とはまた違う、懐かしく心惹かれる兄の声。
「私の大切な妹。……わかってくれ。何も持たない私の、最初で最後の我儘なのだと」
数歩先に立つ彼の温もりを、ニーナの体は覚えている。
本物の家族などいない、監禁生活の中で自身へ唯一手を差し伸べてくれた兄。
ステラリリアではなく、ニーナとして接してくれた彼の表情が、
「…………っ」
今にも泣き出しそうに眉を寄せていた。
「ニーナに変な魔法でもかけるつもり?!」
立ち尽くすニーナの前に、臨戦態勢のゲルダが躍り出る。様子のおかしいニーナの姿に、体が動いてしまったのだろう。ニーナを庇う様に挙げられた腕は、既に龍のそれだ。
ダリアラはそんなゲルダをまさに虫けらを見るような目で見下ろしていた。そんなことで怯むようなゲルダではないが、あからさまな蔑視の瞳には居心地の悪さを感じざるを得ない。
対抗するように金色に輝く瞳でダリアラを睨みつけると、やがて興味を失ったように彼はゲルダから視線を外した。
「私は、ただ一人の味方が欲しいだけだよ」
ぼそりと呟かれたその言葉に、ゲルダは眉を寄せることしか出来ない。
ニーナが密かに息を飲んだ先で、ダリアラはくるりと彼女に背を向け、手を伸ばした。
「な、なにするつもりだよ……!」
エリィが慌てて数歩後退するが、ダリアラの目的はどうやら彼ではないらしい。差し出された手のひらが、空気を握りしめるように拳を作る。
目的がわからずその様子をただ見つめていたエリィは、背後の異変に眉を寄せた。
「っ、うぐ……ッ?!」
振り返った先に見えたのは、異形との攻防を兵士たちへ任せ、ダリアラの動向を見ていたらしいフランソワとハイドラの姿。しかしその片方は、首元へ両手を添え、暗闇でもわかる程に顔を青白く染め上げている。
「ハイドラ?!」
異変にいち早く気付いたフランソワがその震える肩を抱いた。荒れる呼吸は収まらず、ハイドラのうめき声が、苦し気に彼の唇の隙間から溢れていく。
首元に添えられていたハイドラの両手が、痛みを掻き出そうとするように胸元へ移動した。
「あれって……!」
その様子には見覚えがある。ゲルダが思い返したのは、数日前のハイドラの姿。
本人には思い当たる節も無く、その後同じような症状は見られなかった。暫くは様子見だとゲルダは言うしかなかったが、どうやらその原因はたった今判明したようだ。
それは考えうる中での、最悪の病原。
「テメェの、仕業、だったのか……ッ」
苦痛だけは記憶にあるらしく、ハイドラが忌々しそうにダリアラを睨みつける。
「お前、何を……!」
「一人で良い」
その声は、エリィへの返答ではない。
「一人で、良いんだ」
ダリアラの拳に、更に力が籠る。その力みに合わせて、ハイドラの胸が締め付けられていく。
熱い。体中の血液が、沸騰するように。
「――――やめて!!!!」
ふっと。ダリアラの拳から力が抜けた。苦しみから解放されたハイドラが、思い切り空気を吸い込み咳込みながらも膝をつく。
兵士と異形の争う音さえかき消すほどの、少女の叫び。
「ニーナ……」
思わず肩を揺らしたエリィが、両手を握りしめるニーナの姿を見つめていた。
「……」
手を下ろし、振り返ったダリアラが何かを言うことはない。その色の無い瞳に、ニーナは今度こそ言葉を失った。
ダリアラは一度首を鳴らすと、誰に視線を向けることなく異形の群れへと進んで行く。彼の進む道は不自然なほど真っ直ぐに開かれ、やがてその姿は尚も兵士たちと攻防を続ける異形の無連先へと消えていった。
数十分程が経過すると、突如異形は攻撃の手を止め、闇夜に溶け込むように姿を消していく。当然、ダリアラの姿はどこにも見当たらない。
残された獣の死体からは、まるで人の血液のような鉄の香りがした。