理解と和解
「選んだだけだよ」
そんな答えに、ハイドラは視線を上げる。どこか気恥ずかしそうに、エリィが眉を寄せて笑っていた。
「俺が『そうしたい』って思ったからしただけだ。別に、お礼を言われるようなことはしてねーって」
エリィは、数日前のジェシカとの会話を回顧した。
選択に間違いはない。お前は、どうしたいのか。
「……でも、そう言ってもらえてよかった。勝手なことしちまったかなって……ちょっと、不安だったからな」
ジェシカの言葉に救われたのは事実だ。それでも、彼の中の恐れは消えない。自分の選択は間違っているのではないか。いつか、後悔をする日がくるのではないかと。
それでも、エリィは考える。
あの時動くことを選ばなかったら、どうなっていただろう。自分は、その時の自分を許すことが出来るだろうかと。
答えはNOだ。
「だから、俺からもありがとうな! あん時俺に、言いたいこと言わせてくれて。そんで今、そう言ってくれたこともだ!」
見えた白い歯に、ハイドラは困惑さえ覚える。
この少年は、一体どこまで本気なのだろう。
「…………」
そしてそれこそ、愚問なのだと分かった。
困惑を隠せないハイドラへ、エリィは首を傾げてみせる。
ミエーレでニーナと再会し、初めてエリィと出会ったあの日。地頭の良いニーナが、なぜこんな少年と行動を共にしていたのかが不思議で仕方なかった。
そして今、ほんの少しだけ、ハイドラはニーナの気持ちがわかった気がした。
いや。恐らくはもっとずっと前から、ハイドラは理解していたのだ。彼からの手紙を目にし、その内容を受け入れたあの時には既に。
ただその理由はあまりにも漠然としていて、ただ何となくという意味合いが強かった。確証はない。しかし彼なら信頼出来るような気がする、と。
そんな向こう見ずな考えをこちらが抱いた理由は、他の誰でもないこのエリィという、少年が『そう』であったからなのだろう。
当然、それが全てにおいて正しいかと言われれば、そんなはずはない。
時には諦め、考え、妥協し、そして見切ることも生きていく上で必要な能力だ。
それでもただ真っ直ぐに、向こう見ずで、根拠もない自信家で――。
そして、全てを成し遂げてしまう。そんな、彼だからこそ。
「ハイドラ?」
無言のままただ顔を見つめられたエリィが、流石に動揺して声をかける。ハイドラは一度呆れたように笑うと、再び「なんだよ」と不満を漏らす少年から視線を外した。
「……なんだかいろんなことが一度に起こり過ぎて、何から考えればいいのかわかんねーな」
ふと彼の声色が変わり、エリィは口を閉ざす。
ハイドラの視線の先には、上弦の月。
「問題は山積みどころの騒ぎじゃねー。このベテルギウスをどうにか地上に戻さないとなんねーし、さっきのキモい獣のことだって調べる必要があるだろ? それになによりも、……その」
歯切れの悪い言葉を呟きながら、ハイドラが視線をエリィへと向ける。そのどこか遠慮するような視線に、エリィは彼の言わんとしていることが理解出来た。
「……『アレクシス』のことか?」
言葉を返さないハイドラへ、今度はエリィが口角を上げる番だった。わざとらしく困ったように、彼は肩を竦める。
「そんな腫物を扱うような言い方すんなよな。俺だって、正直まだ全部受け入れてる訳じゃねーんだ。……だから、ダリアラのとこに行くんだろ」
そう言うと、エリィは立ち上がって一つ大きく伸びをする。今度はハイドラの顔色を窺うための演技ではない。流石にこの日は、エリィの体にも疲労が溜まっていた。伸ばした両肩から、小さく骨の鳴る音が聞こえた。
振り返った先のハイドラが、再びその三白眼を丸くしてエリィを見上げていた。
「……そうか。そうだな」
わからないからこそ、この少年は動くのだと。
ハイドラはそう理解した。
話し合えるかなどわからない。そもそも、会えるかどうかもわからない。
しかしそれこそ、行ってみなければわからないのだ。
二人の姿を見下ろす上弦の月は、既に西の空へと傾いている。深夜零時を回る頃だ。
ハイドラとの会話が始まったのも、元はたまたまエリィが彼の背を見かけたからに過ぎない。こうして彼との蟠りのようなものが無事解消された今、長々と起きている必要はないだろう。
明日もまた、この空中都市攻略に向けた作戦は続くのだから。
「なあ」
野営の陣へと戻ろうとしたエリィの足を、立ち上がったハイドラの声が止める。
「ステラリリアとは……いや、ニーナとは、あの後なんか話したか?」
振り返ったエリィが、ほんの少し視線を落として首を振った。
ミエーレ城で目を覚ましてからというもの、ニーナはエリィと目を合わせようとはせず、彼が話しかけようにもあからさまに避けられてしまっていた。
それはゲルダも同じらしく、彼女伝いにニーナと会話をすることも出来ない。そして、どうやらそれはこのハイドラも同じようだった。
「あいつ、根っからのにーちゃん信者だからな。……変に気を病んでねぇといいけど」
それはこの数十日の間彼女と行動を共にする中で、嫌でもわかることだった。
彼女はダリアラという存在に忠誠を誓っていて、それは自身の身を危険に晒し、敵国に一人で入り込めるだけの強い決意。
だからこそエリィはあの日、ぼんやりとした意識の中で、ニーナが絶望を含むような声色で、彼の名を呟いていた姿が忘れられずにいる。
彼を慕い、信じていたからこそ、あの日のダリアラの言動に、困惑することしか出来なかったのだろう。
なぜ、どうして。
そんな彼女の言葉にならない問いかけに、答えられる人間はこの場には居ない。
そんな時、
「だーれだ」
「びあっ?!」
そんなどこか浮ついた声と共に視界が暗闇に染まり、エリィは思わず素っ頓狂な声を上げる。彼の目元を覆ったものが冷たく細い指であることに気付くまで、エリィはわたわたとその場で体を動かしていた。
「な、なんだ?! 誰だよ!」
「これは、それを当てる遊びでしょう? ねえ、ハイドラ」
ふふ、と笑い声が聞こえ、続けざまに呆れたようなハイドラのため息が聞こえた。
「何すんのかと思えば……」
剥がそうにも、その細さからは想像もつかない腕力で頭を固定され、エリィは首を振ることさえ敵わない。
「おい! 離せってば!」
「当ててもらわないとなあ、ほらほら」
「痛い痛い痛い痛い!!」
引き寄せられるように両手に力が籠められ、視界を遮られた上頭部を拘束されたエリィはそのまま背中を逸らしていく。元々彼の体はそう柔らかい方ではない。バキバキと背骨の鳴る音が聞こえ、エリィは悲鳴を上げた。
「痛ェってば! お前、フランソワだろ?!」
エリィがそう言うや否や、彼の頭を拘束していた両手はぱっと離れていく。
支えの無くなった体がそのまま地面へと吸い寄せられ、尻餅をついた。突然視界に飛び込んだ月明りに、エリィは一瞬目を細める。
そして腰を抑えながらも立ち上がって振り返ると、お茶目そうに手を開いて見せるもう一人の王子、フランソワの顔を睨みつけた。
「急に変なことするなよ! びっくりするだろうが!!」
苛立ちを露わにするエリィへ、しかしフランソワは悪気も無く笑う。
「ええ? だってお友達とは、こうして遊ぶものだと聞いているよ? シンハーやハイドラにはきっと気配で気付かれてしまうから面白くないしね。それにしても、君はいつも僕の期待以上の反応をくれるから、嬉しくなってしまうなあ」
エリィの様子へ満足気にフランソワが頷く。
ちらりとエリィはハイドラへと視線を向けるが、彼もまたフランソワの接近には気づいていたらしく、特段驚いた様子はない。恐らくフランソワがエリィへ近づく際に、何かしらの合図を受けていたのだろう。黙っていて欲しいと。
「何歳児の遊びだよ」
呆れたようにハイドラが肩を竦めるが、フランソワは一層楽しそうに手を叩く。
「何歳になったって楽しいものだよ。そうだ、今度はハイドラがエリィへやってあげると良い! 反応が見たいから、やるときは僕も呼んでね。もちろん、黙っているから安心して欲しいな」
「俺の了解は?!」
どうもこの王子は、人との関わり方にどこか難があるようだ。
いや、彼の部下たちへの態度は完璧であり、国民からの支持も十分すぎる程に得ている。言わば完璧。それこそ、ハイドラとは対になるような存在だ。
しかし、だからこそ、フランソワは親しい間柄である人物との関わり方をあまり知らないのだろうか。その点もまた、ハイドラとは対になる。
エリィの主張がフランソワの耳へ届くことはなく、彼は普段通りの笑みを丹精な顔へと貼り付けて、エリィの隣に並んだ。




