崇拝されしは不在の王
異形が彼らを追ってくることはなく、馬から降りたハイドラが周囲を警戒しつつメリッサの体を降ろす。シンハーやフランソワと視線を交わした後、ハイドラは同じく馬から降りた数人の兵士を連れて、地下シェルターの入り口まで進んだ。
シェルターのすぐ傍でそわそわと周囲を探す男の姿に、ハイドラは見覚えがあった。
「お父さん!」
メリッサが声をかけると、男性ははっと息を飲んで声を上げる。
「メリッサ! それに、ハイドラ王子……?! 兵士さんたちも……」
メリッサの父であるその男の顔を見て、ハイドラはほんの少し胸を撫でおろした。
「久しぶりだな。でも、挨拶は後でにしよう。……今の状況を教えてくれるか」
そんなハイドラの問いかけに、男は困ったように眉を寄せながら首を振った。
「既にご覧になったことでしょうが、街はひどい有様です。……五日ほど前になりましょうか、突然地面が揺れたと思ったら、ものすごい衝撃があって……」
ゲルダの制止も聞かず馬から飛び降りたエリィが、ハイドラのすぐ傍まで歩く。到底兵士には見えない少年だったろうが、男はそんなことに反応出来るような精神状況ではない。
「アルケイデアで……、なにが、起きているんですか」
ハイドラから視線を離さず、この数日間の記憶を思い出したらしい男が、苦しそうに表情を歪める。
何もわからない。それでも、とてつもない異常が起きていることは理解せざるを得ないのだ。
静かで、悲痛な叫びだった。まるで、少し前の自分の姿を見ているようで。エリィはただ、口を噤むことしか出来ない。
「あのね、王子」
エリィが視線を落とす。父親の腕にしがみ付いたメリッサが、大粒の涙を流していた。
「ゲンちゃんも、ミヤくんも、ルチェも……。みんなみんな、どっかに行っちゃったの……!」
息を飲む。言葉を失ったエリィの隣で、ハイドラが男へと視線を向けた。
歯がゆそうに唇を噛み締めながら、男が小さく頷いていた。
「……様子を見に行くと出て行った同志たちも、それ以降誰一人として帰ってきてはいません。この街の外が一体どうなっているのかさえ。私たちには、何もわからないのです」
ハイドラが開け放たれたシェルターの入り口を見遣る。小さなシェルターだ。中に居るのは、多くて五十人程だろう。この街の住人の、ほんの一部にも満たない数字だ。
なにか、労いの言葉をかけるべきなのだろうとハイドラは思った。王族らしく堂々と、安心しろと言うべきなのだ。問題はないと――嘘を、吐くべきなのだ。
わかっている。頭では、理解している。
握りしめた指先の爪が、手のひらに食い込んで痛い。一度薄く開いた唇を一度閉ざし、ハイドラが再び息を吸い込んだ。
「俺たちは、その調査に来た。だが、まだ充分な調査結果は得られていない。……だが、この先に安全な場所を確認した。小隊に護衛させるから、今は俺たちを信じてそこで待っていて欲しい」
男はすぐには頷かなかった。
「辛い思いをさせて、申し訳ないと思ってる」
自身の手を握りしめる娘の頭を引き寄せ、男はただ、ハイドラの姿を見つめている。
その冷たい瞳が、ハイドラから酸素を奪った。
今まで見たこともないような、冷たい視線。
外の異変に気付いた数人の民が、シェルターの中からこちらを見上げている。無言になった二人の様子に、エリィが眉を寄せる。
「……信じ、られないか」
ハイドラが小さく呟いた。
その様子を離れた位置から見つめていたニーナは、一人言葉を失った。
シェルターの中から顔を覗かせる民たちの顔を見た。誰一人としてようやく訪ねて来た国家の守護団へ、希望や安堵の色を向けてはいない。
ここまで落ちていたのだ。アンジエーラに対する、アルケイデア王家に対する、崇拝の念は。
「……王様が居なくなっちゃったから、みんなも居なくなっちゃったんですか?」
メリッサのか細い声が、ニーナの脳内に響く。
「メリッサたちを守ってくれる王様が、もう、居ないから?」
普段であれば、父親が彼女を止めている頃だろう。王子を困らせることを言うのはやめなさいと。
しかし男は娘の姿を見下ろし、眉を寄せたまま黙り込んでいた。
「ハイドラ様とダリアラ様は、どうして王様になってくれないの? 私たちを、守ってはくれないの?」
「違――――、っ」
ハイドラの言葉が詰まった。
なんと返せばいいのだろう。何を伝えればいいのだろう。
彼女の言っている事は、もっともすぎる程に的確だ。
「…………」
ハイドラの両手から、力が抜けていく。だらりと下がった指先が、シンと冷えていく。
その通りだ。守りたいと言いながら、すぐに動こうとはしなかった。
本気で守る気が無いから、こうして崇拝されるべき、民の拠り所であるべき王の席を、譲り合っているのだ――。
「それは違うぞ!」
「!」
ハイドラの視線が上がった。同時にニーナの瞳もまた、その声に反応して丸くなる。ハイドラの隣でしゃがみこんだエリィが、ほんの少し眉を吊り上げながら、涙を流し続けるメリッサに向き合っていた。
「ハイドラは違う! 俺が断言してやる!」
メリッサの涙に濡れた睫毛が瞬き、太陽光に反射して虹色に輝いた。
「こいつは、こいつなりにいっぱい考えてんだ! あんたらアルケイデアの国の人たちのためだよ」
ミエーレの端で、初めてハイドラと顔を合わせたあの日を思い出す。
エリィは彼の心からの叫びを聞いた。
彼はとても不器用な青年なのだ。だからこそ、こんなにも遠回りをしてしまっているのだとわかった。
ただ、国民のためを思って動いているだけだというのに。
「ダリアラの方は、俺もまだよくわかんねー。だから今から、俺たちはあいつのところに行く。そんで話をして、全部全部、解決してくるよ」
袖の裾を持ち上げ、エリィがメリッサの涙を拭う。
「確かに今、王様は居ねーけどな。ハイドラはもちろん、この国を守ろうって思ってる奴等は、こーんなにたくさんいるんだ! それに、なんてったってこの俺! が! 居るんだからな、心配なんていらねーよ」
一度鼻を啜ったメリッサが、その奥に並ぶ百をも超える兵士を見遣る。
「お前の友達もみんな、俺が探してきてやる。辛いとは思うけど、あとちょっとだけ我慢してくれよな」
なんて根拠のない説得だろうか。エリィの肩の上で、子鼠が小さく息を吐いた。
それでも。
「……本当?」
少女の瞳に、輝きが戻っていく。
「おう! って、色々勝手に言ってたら、またハイドラに蹴り飛ばされちまいそーだからな。これ以上、俺はなんも言わねー」
「蹴られちゃうの……?!」
「そ! だから俺がこんなこと言ったのは内緒だぞ! ハイドラに怒られちまうからな」
すぐ隣に本人が居るにも関わらず、エリィはしいと人差し指を唇に当てて笑った。メリッサがはっと口元に両手を押し付け、こくこくと頷く。
「よし、いい子だ。お礼にこれをやろう」
不思議そうに首を傾げたメリッサの前で、エリィが指をすり合わせる。
「わあ……お花だ!」
生まれた薄紫の花弁を差し出した両手の平で受け止めて、メリッサが目を輝かせた。
「あんたは……」
立ち上がったエリィに、男が問いかける。エリィが口角を上げた。
「俺はエリィ。魔女ジェシカの使いで、いつか大魔王になる男だ!」
根拠など一つもない。それなのに、どこか説得力があるように感じてしまうその声が。
ハイドラには、到底理解出来なかった。
「…………そうかい、魔王さん」
男の口角が、小さく上がった。
「それなら、あんたを信じてみようか」
男が振り返ると、シェルターの中から顔を出していた数人がびくりと肩を震わせる。
「……皆、不安なんだよ。この国はどうなっちまうんだ、俺たちは……アルケイデアの民は、どうなっちまうんだってな」
くしゃりとメリッサの頭を撫でて、男が再びエリィと視線を交わす。
「何もわからない、頼るあても無い。だから、今はあんたに縋らせてもらうよ」
そう言った男の瞳の奥から冷たいなにかを感じ取り、エリィはゴクリと息を飲んだ。
好意的な笑みだと思っていたそれが、自嘲に過ぎないのだと分かった。
どこの馬の骨とも知らない少年に、希望を託すことしか出来ない、そんな自分たちの不甲斐なさに。
「…………」
ハイドラは何も言わず、二人に背を向ける。
「ミエーレ第五部隊は、シェルター内に残された人々の護衛に当たってくれ! 目的地は我々が最初に足を踏み入れた辺りだ。到着後はその場に留まり、俺たちの帰還まで彼らの護衛を頼みたい。あの辺りにさっき出会ったような獣は居なかったが、警戒は怠るなよ!」
指示を受けた騎士が掛け声と共に承諾を示す。先ほど別行動を指示した部隊へ「引き続き周囲の市民の捜索並びに保護と護衛」の任務を伝えるように言うと、ハイドラは残りの部隊の前に立ち、再び馬へと騎乗した。
「もう、突然行っちゃわないでよ」
同じようにゲルダの元へ戻ったエリィが、そんなゲルダの言葉に苦笑する。
「なんか気になっちまってさ。ま、結果良かっただろ?」
困ったように笑ったゲルダが、進行を始めた軍へと続いて行く。
シェルターからは、騎士の呼びかけに答えるように次々とアルケイデアの民たちが姿を現していた。
「さあ、こちらへ」
騎士に誘導されながらも、メリッサがくるりと振り返る。
「魔王のおにーちゃん!」
ゲルダが馬を止め、エリィが体ごと振り返る。
「みんなのこともだけど――、ハイドラ様のこと、よろしくね!」
思わず笑ってしまった。
流石に短い注意を告げた父親が、しかしエリィへ視線を向け小さく頭を下げる。
「おう、任せとけよ!」
エリィが握りこぶしを作り、天高くつき上げる。
「……うん!」
彼の真似をするように、メリッサが花弁を握りしめた手を突きあげる。
長居は出来ない。二人の会話に気付かない振りをして先を進んで行くハイドラの背を、ゲルダが急いで追った。
次第に小さくなっていく軍の姿を、メリッサとその父親が見えなくなるまで目で追っていた。