母親と息子
ジェシカが弾かれるようにその両腕を開いた。
はじけ飛ぶような圧とその動きに耐えられなかったエリィが、「うわあ」と声を上げて尻餅をつく。
衝撃は、その一瞬だった。
息が詰まる程の風圧を最後に、あれほど吹き荒れていた風は一気収まり、四方八方から体を押し付けていた圧は最早どこにもない。思い切り酸素を取り込むと、吐き出した息でエリィの頭上に乗っていた花弁が舞い落ちた。
荒れた前髪がエリィの目にかかる。
「道が、出来た……」
顔を上げたゲルダが、目の前の光景に息を飲む。空中都市まで続く、土と花で出来たなんとも幻想的な一本道がそこにあった。
その後ろで様子を見守っていたニーナが、小さく体を震わせていた。
ばくばくと響く心拍音に、エリィの高揚が引いていく。
「無事かえ、我が愛し息子」
手を差し出されたエリィが、はっと我に返ったようにその手を掴んで立ち上がった。
あの日のような疲労感は一切なく、むしろ体はすっきりとしている。不思議そうに体を見遣った後、困惑した表情でエリィはジェシカの顔を見上げた。
「…………なあ、俺、もしかしてあんまり役に立ってない……?」
「何を言うか!」
心底驚いたように目を開き、ジェシカは首を振った。
「妾も年かもしれぬのう。危うく失敗するところじゃった。こうして無事道を為せたのも、お主のおかげじゃよ」
声を上げて笑うジェシカの胸が揺れる。
頭を撫でる彼女の手の温もりに、ぱっとエリィの表情が明るくなった。
「って、子ども扱いすんじゃ……!」
ふと気恥ずかしくなりその手から離れようと身をよじった瞬間、エリィの体中に温もりが伝わった。
「……っ」
ジェシカの両腕の中に抱きしめられたのだと気づくまで、数秒の時間を有した。
「流石は我が息子じゃ。……知らぬ間に、立派に育っておったのじゃな」
エリィの頬が羞恥で朱に染まっていく。
「お、おいやめろってば……!」
押し返そうにも、ジェシカの両腕がしっかと彼の体を掴んで離さない。一体この細腕のどこに、そんな力があるというのか。
エリィは頬を擽る銀の髪に眉を寄せながらも、必死に腕を動かし抵抗する。
「まさか、お主に助けられる日が来ようとは思わなんだ」
「は……?」
腰と後頭部に回された細い手のひらが、ゆっくりと離れて行く。止めるよう自分から言ったにも関わらず、どこか物寂しさを覚えてエリィははっと唇を咥えた。
「……魔法はそう長く保たぬ。あの王子の元へ行くのじゃろう?」
再び顔を上げたエリィに、ジェシカがふっと笑った。
「早く行け。お前の望むままに」
その笑顔が、どこかぎこちない。そう感じて、エリィは小さく首を傾げる。
「ジェシカ……?」
「さあ、皆が待っておるぞ!」
「おあっ」
背を押され、エリィが数歩前に出る。シンハーの指示に従い既に道を登り始める騎士たちと、それに続くダリアラとアルケイデアの兵士たちの姿が見えた。
地上では馬の上からこちらを心配そうに見つめるゲルダと、その後ろに並ぶフランソワ、そしてニーナの姿もある。
慌てて一歩を踏み出そうとした足を止め、エリィは小さく振り返る。
「なあ。ジェシカは、一緒に行ってくれねーの?」
ほんの少し。ジェシカの真っ赤な唇が揺れた。
「行かぬよ。そう、決めておる」
再び目を細めたジェシカに、エリィは再び口を開いて、そして閉ざした。
「……わかった」
これ以上、何を言っても無駄だ。彼女の瞳を見れば、嫌でもわかる。
なぜだろう。普段と変わらない自由人であるはずなのに、どうしてかその声が耳に残る。
「…………」
ジェシカに背を向けたエリィの肩の上から、ヨルがそんな彼女と目を合わせた。
お互いに何も言わないまま、二人の距離は離れて行く。
子鼠は揺れる視界の先に立つ魔女の姿を、ただ見つめていた。
「さあ行こう、エリィ。ダリアラ王子の待つ、天空都市ベテルギウスへ」
クレーターを登り切ったエリィに、フランソワが声をかける。
「……ああ」
しっかりと頷いたエリィの姿を見て、ニーナの手綱を掴む手に力が入った。
ずっと見つめていたジェシカから視線を逸らし、ゲルダの瞳がエリィの背を捉える。
その肩の上の鼠と、その先で視線を落とすニーナの姿を。
* * *
「行ったか」
その場に残されたジェシカが、頭上に浮かぶ都市を見上げ息を吐く。役目を終えた一本道が、徐々にその形を失っていくのが見えた。
空高く巻き上がる薄紫の、なんと美しいことか。
「……妾ともあろう者が。ここへ来て、迷ってしまうとはのう……」
自嘲するように半月型に唇を曲げ、手のひらを頭上へと掲げながら、ジェシカは先ほどの感覚を思い出す。
彼女の指の先は、離れなかったのではない。
離したくなかった。
彼女自身が、そう思ってしまったのだ。
幼子を拾ったその瞬間に、彼女はその少年が『アレクシス』であることに気付いた。いつかは彼がそれを自覚し、その使命を果たす日が来る。そんな未来を、覚悟していた。
それでもジェシカは、彼を「人」として、「息子」として扱うと決めたのだ。
それは一体、なぜだったか。
「……のう、エリィ。妾はな。心のどこかで、ずっと期待しておったのじゃよ」
指の間から見える空中都市の上に、その少年は居るのだろう。
そしてそこでは、彼と同じ使命を背負った、もう一人の青年が彼を待っている。
「『アレクシス』などとは無縁のまま、お主がただのヒトとして成長し……。この先もずっと、妾と、そしてヨルと共に」
細めた瞳が、じわりと揺れた。
「なんということはない日常を、ただ、笑って過ごしてゆけるのではないかと――」
手のひらにすっぽりと収まってしまいそうな空中都市は、しかしジェシカの手の届かない、ずっと先の空にあった。