悩むのは
「だあぁぁぁぁっ!!」
ばっと両腕を空へと持ち上げたエリィの膝の上で、ヨルが驚いた表情を浮かべる。エリィは体中に力を籠め、両足さえもピンと伸ばして地面から持ち上げた。
思い切り鼻から息を吸うと、エリィは数秒間に渡りその動きを止める。
「……エリィ?」
「ぶはあッ!」
「キュッ?!」
硬直したエリィへ心配そうに声をかけたヨルに、エリィが思い切り吐き出した息がかかる。
ヨルは思わず目を瞑り、一気に脱力したエリィを再び見上げた。
彼の表情は、どこか清々しかった。
「ど、どうしたの……?」
突然の奇行に目を白黒させるヨルへ、エリィは肩を竦めた。
「やっぱ、わかんねーなって!」
目を丸くしたヨルを見下ろし、エリィは心底可笑しそうに笑う。
「俺さ、ジェシカの話聞いて、一つも、なんにも理解できなかったんだよな」
無意識に押し込んでいた不安が、解放されていく。
「『アレクシス』のことなんて何も知らねーし、話を聞いても思い当たる節なんて一個もねぇ。俺は本当に『アレクシス』なのか? 世界を壊す兵器なのか? みんながみんな、俺を騙そうと躍起になってんじゃねーのって、そんなことまで考えちまった」
瞬きを繰り返すヨルに、エリィは冗談を言う様に語る。
わからないのだ。なにも。
なにが正しく、なにが嘘で。
なにが善意でなにが悪意なのか。
「魔法だってろくに使えなくて、ジェシカやヨルや、ゲルダたちに守られてばっかりの俺なんだぜ?」
エリィは、今までずっと感じていた心の奥の手が離れて行くように感じていた。
エリィの心を締め上げていた誰かが、そっとその身を引くように。
「あの男の言ってることも、ジェシカの言ってたこともさ。俺自身のことのはずなのに……。全部全部、わかんねーんだ」
『わからない』ということしか、わからない。苦しくて、悔しくて、どこか寂しい。
どうしてなのだろう。それさえも、わからない。
「でもさ、誰も嘘なんてついてねーんだってことは、わかる」
それにはきっと自分自身のことも含まれているのだと、彼の直感が告げていた。なにか自己防衛のようなものが働いて『忘れている』わけではない。どこかに『置いてきた』わけではない。
知らないのだ。まったく、なにも。
「俺さ。あんまり、事の重大さっての? ヨルがそんなに真面目な顔で「ごめん」なんて言う意味が、よくわかってねーんだ」
困ったようにエリィは笑った。
「今んとこ俺に世界を壊せるような力は無ぇし、色々考えったって知らねーもんは知らねぇ。お前がもっと早く俺に『アレクシス』のことを教えてくれてたって、結局現状は変わらねーよ」
ヨルの視線と、エリィの視線が交わった。
「……でも僕は、君やあの少女が『アレクシス』を探していたのに、なにも教えてあげなかったんだよ」
どこか弱々しい声で、ヨルが抗議する。エリィは今気づいたと言わんばかりに目を丸くして、歯を見せて笑った。
「ま、お前にもお前なりの理由があったんだろ?」
ヨルの耳が、ぴくりと動いた。真っ直ぐにこちらを見下ろすその瞳を、眩しそうに目を細めて見上げながら。
「俺は相棒を信じてるからな。別に怒ってねーよ。ま、なんでかなとは思うけどな」
それも後々、話したくなったら話してくれよとエリィは言った。
「どっちにしろ、詳しい話はあいつから聞くつもりだ」
「あいつ……?」
エリィは頷いて、星空の先にあるだろう空中都市を見据える。
「もう一人の『アレクシス』。ハイドラのにーちゃん。ダリアラ……だったっけ? 俺を待ってるらしいからな。無視する訳にはいかねーだろ」
それに、とエリィは言葉を続ける。
「あいつとは……。面と向かって、話さないとなんねー気がするんだ」
その瞳を今度は目一杯に広げた子鼠を、エリィはどこか不服そうに見下ろした。
「なんだよその顔! 俺だってたまには真面目に考えるんだからな! ……まあ、俺は天下の大魔王に成る男だしなあ? 『防衛装置』だか『破壊兵器』だか知らねーけど、むしろそんくらいの力を持ってて当たり前だっての!」
エリィは自身の太ももを両手で叩くと、すっくと立ちあがって伸びをする。ひらりとその身をレンガ道へ下ろしたヨルが、その様子を見上げていた。
「さてと。ふらふらしながら考え込んでたはずが、お前のせいでとんだ運動になっちまったぜ。さっさと帰ろう、ヨル。明日にはフランソワから何か話もあんだろ」
首を回したエリィが大きな一歩を踏み出す。
大きく頭を動かしてその様子を目で追ったヨルが、その鼻先を動かした。
「エリィ、そっち逆方向」
「~っ、うるせ! わかってるっての!」
くるりと方向転換したエリィが、バツが悪そうに視線を泳がせつつ道の上を進んで行く。
その場に残されたヨルは、何を見る訳でもなく、ただその場に立っていた。
「僕の嘘も、我儘も、全部……。いつだってそうやって、笑って受け入れてくれるんだったね」
街灯の明かりが彼の丸い瞳を照らし、夜風が彼を押し返す様に吹いている。
「……ジェシカ。やっぱり、僕は……。君の様には、出来ないよ」
そんな呟きを足元に置き去りにして、ヨルはエリィの後を駆けた。
* * *
そして二つの影がその場から消えた頃。子鼠の呟きを拾う様に、その場にヒールの音が鳴る。
まだ温もりの残ったベンチの背もたれに指を這わせ、ジェシカは小さく息を吐いた。
「ヨル。妾はお主の思うよりもずっと、大した人間では無い。お主の言う様に、……今更、なのじゃろう」
爪でベンチを擦る。塗装の剥げかけたそれは、ジェシカの指の動きに合わせその木製を露わにしていく。
「あの時。あやつが、この世界を破壊していれば。あやつと共に、破壊を止めようとしなければ。……妾たちが、アレクシスに、出会わなければ……」
くっと力を込めた指先の爪が、露わになった木材さえもはぎ取った。
「そんなことばかり、考えてしまう。……まったく、ああも息子へ叱咤したにも関わらず、人のことなど言えぬのう」
涙さえ浮かべ、自分を見上げるエリィの表情を思い出し、ジェシカは愛おしさに目を細める。
「今度こそ、全ては『アレクシス』の意のままに――」
思い描いたエリィの体が、ゆっくりとジェシカの傍から離れて行く。
それでいい。ジェシカは温もりを失った両手を下ろし、彼の独り立ちを見送ったつもりだった。
そして、そんなエリィの肩を掴む「もう一人の青年」の姿に、はっと息を飲む。
エリィは自ら足を引いたのではない。その手に、引き剥がされたのだと気づいた。
「――――っ」
ただの幻覚だ。わかっている。
似ても似つかない顔立ちだというのに、どこかエリィと同じ雰囲気をまとった青年。
ただ一度、数日前に顔を見たばかりだというのに、こうも鮮明にその顔立ちを覚えている。
ダリアラ・アルケイデア・アンジエーラ。
エリィと同じく、『アレクシス』の宿命を抱きこの世界に生まれ落ちた存在。
一度瞬きをすれば、そこは深夜のカトの街。自分以外に人の気配のないその場所で、ジェシカは止めた呼吸を静かに再開する。
「……終わるはずだったこの世界で。何の因果で姿を二つに増やし、妾と、そしてディアナの元に現れたのか」
噛み締めた唇から朱が溢れ出る。ジェシカの紅の乗った薄い唇を、一層深紅に染め上げていく。
「……これは、お前なりの報復なのじゃろうか」
傍観することを決めた魔女の呟きが、誰かの耳に届くことはない。
遠い過去の記憶が、その笑顔が。ジェシカを締め上げ、身動きを許さない。
「アレクシスよ――」
彼女を捉えて離さない。古い友人の名を、呼ぶ。