深夜の散歩道
立ち止まって顔を上げると、随分と遠くにミエーレ城が見えた。ここはカトの隅だと気づく。もうすぐ日付が変わる頃だろう。
空を仰げば、清々しい程に晴れ渡った星空があった。もうすぐ夏だというのに、随分と空が深い。
「…………」
街灯の明かりの下で、エリィは静かに息を吐いた。
「考え事か」
不思議と驚きは無かった。エリィが視線を落とすと、そこに居たのは既に何度か顔を合わせた男の姿。
その名前を、エリィはもう知っている。
「ディアナ」
男は目を丸くして、そして細めた。
「思い出してくれたのか?」
数日前に見たものと変わらない、親しげな声と瞳。しかしエリィは、その感情に答えることが出来ない。
「教えてもらったんだ、ジェシカから」
その名を出した瞬間、ディアナの表情が一気に曇ったのがわかった。そこに宿るのは悲しみと悔しさ、そして確固たる苛立ちだ。
「……どうしてあの時、共に来なかった?」
三日前のことだろう。この日の昼に目を覚ましたエリィにとっては、まだ昨日の出来事のようだ。
動揺と焦燥と畏怖が入り混じった言葉にならない感情が、再び彼の心を支配していく。
「お前は『アレクシス』だ。どうして、動こうとしない」
縋るように伸ばされた手を、エリィは反射的に避けた。思わず半歩下がり、はっと視線を上げる。
ディアナの傷ついた表情が、そこにあった。
「――――ッ」
そんな顔をしないでくれと、エリィの中の『何か』が叫んでいる。
なにか言おうと思っていたはずなのに、用意したはずの言葉が虚空に飲まれていた。
喉の奥が締まるように苦しい。
空を掴んだ男の手が。その震える指先が。
こんなにも、苦しい。
「止めて貰えないかな」
第三者の声に、エリィは息を飲んだ。男が振り返った先に、小さな小さな影がある。
「お前」
「ヨル……」
鼠姿のヨルは、丸い瞳で真っ直ぐにディアナを見上げている。みるみるうちにディアナの周囲を殺意が巡った。
「これ以上、エリィに関わらないで」
ヨルの小さな体のすぐ脇を、男の足が通過した。
「ヨル!」
エリィの立ち位置からは、ヨルが踏みつぶされたかのように見えたことだろう。男は額に血管を浮き上がらせながら、奥歯を噛み締めて、自身の足のすぐ横に鎮座する子鼠を見下ろしていた。
「邪魔はさせない」
釘を打つような鋭い声は、エリィの耳には届かない。
「……ベア子が居ないことに感謝するんだな」
再びディアナの靴の裏が、力任せに同じレンガ道を踏みつける。風圧でヨルの桃色の毛が揺れた。
びくりと肩を揺らしたエリィに振り返り、ディアナはその瞳を睨みつける。それは敵意に間違いないはずだというのに、エリィにはどこか隠しきれない期待のようなものが見えて仕方がなかった。
迫るディアナの顔を前に、エリィは呼吸を止める。
「――待っている」
思いもよらない一言がエリィの脳裏に反射する。再び向けられた微笑みは、次の瞬間その男の姿かたち諸共消えていた。
止めていた呼吸を、無意識に再開する。冷たい空気が肺へと一気に流れこみ、咳込んでしまいそうだ。
「大丈夫、エリィ?」
何事も無かったかのように、ヨルが小さな足を動かしてエリィの足元まで駆け付ける。エリィはゆっくりと視線を降ろし、心配そうにこちらを見上げる子鼠と視線を合わせた。
「どうにか」
その言葉通り、どうにか笑顔を作ったエリィを見上げ、ヨルは対照的に眉を寄せる。
「……少し、散歩しよう」
「え?」
そう言ったヨルは、エリィの制止も聞かず夜の街へと進んで行く。
「お、おいおい、今何時だと思って……」
エリィはそんな子鼠の後姿を困惑のままに見つめていたが、やがてその姿が闇に溶け込む前にと、困惑も隠さず駆け出したのだった。
✱ ✱ ✱
徐々にその姿を取り戻していく月が、淡く二つの影を照らしている。
明らかに城の有る方角とは異なる方向へ進むヨルは、既に寝静まったカトの街並みを、横断するように歩いた。その後をただ追いかけるエリィもまた、昼間の活気など嘘のような街の中を、子鼠の進む速さに合わせゆっくりと進んでいく。
整備の行き届いたレンガ道。道の両脇に植えられた街路樹。さらさらと音を立てながら黙々と仕事をこなす噴水の脇を通り過ぎ、広場を抜ける。
月明りよりもはっきりと地上を照らすのは、等間隔に設置された街灯だった。そんな淡いスポットライトの下を潜る度、影が一つ現れてはエリィ自身に追い抜かれていく。
街並みを造る建物の窓ガラスに、いくつもの星の輝きが反射して煌いていた。一階の窓ガラスにはエリィの姿が映り込む。
彼の足元を歩くヨルの姿を、ガラスの世界で見ることは叶わなかった。
小一時間ほど歩いたろうか。流石に疲れを感じていたエリィだったが、終始無言で先を歩くヨルにかける言葉が、面白いほどに思い浮かばなかった。
だからこそ、突然その足を止めたヨルに驚きながらも、どこか安堵を覚えたのだった。
「そこのベンチにでも、座ろうか」
カトの内部であることは間違いないだろうが、この辺りはあまり来たことのない場所だ。エリィは道の脇に置かれたベンチを目にして頷いた。
木製のベンチは設置から随分と月日が過ぎているのだろうか、所々のニスが剥げ、補強された部分が一部腐敗していた。
「…………」
無言のまま椅子に腰を下ろしたエリィのすぐ隣に、ヨルは飛び乗った。夜風が街路樹の葉を揺らし、心地よい音楽を奏でる。
「エリィ」
「……なんだよ」
「呼んだだけだよ。ごめん、急に」
「なんなんだよ、さっきから……」
日付を超えた深夜の街並みは、随分と他人行儀だった。
「…………あのさ」
静けさをかき消すエリィの声に、ヨルがゆっくりと顔を上げる。エリィの横顔が、道の向かい側にあった窓ガラスを見ていた。
「今日のジェシカの話だけど。……ヨルは、知ってたのか?」
今度こそ窓ガラスに姿を映した子鼠が、エリィを見上げて頷いていた。
「知ってたよ」
覚悟していた答えのはずだ。
それでも、エリィの思考は一瞬白に染まった。
「ジェシカが五十年前の『アレクシス』と関わりを持っていたことも。この世界に再び『アレクシス』が現れていたことも。……エリィが『アレクシス』だってこともね」
そうか、と。そんな短い返事さえ、エリィの喉から出ることはない。前髪に隠れた彼の目元を見つめて、ヨルは言葉を続けた。
「さらに言うとね、エリィ。僕は……いや、僕とジェシカは、五十年前の『天変地異』を境に起こり続けている『異常現象』たちが、『アレクシス』の影響によるものだってことも知っていたんだ」
「どういうことだ……?」
ガラス越しに見た子鼠の姿が、やけに小さく見えるのはなぜだろう。
「神が居なくなったこの世界を『防衛』する存在は、五十年前の『アレクシス』が消滅した時点で無くなってしまった。そんな事実を悟ったこの世界自身が、防衛本能を呼び覚ましたんだろうと僕たちは考えてる」
ヨルは決してエリィから視線を外さずに、淡々と説明を続けていく。
「自分で壊して守ろうとしたのか、もしくはやがて再び現れるかもしれない『アレクシス』に、自分の意思を伝えようとしたのか。詳しいことは、僕にはわからないけど」
まるで学者のような物言いは、わからないという酷く曖昧な結論に充分すぎるほどの納得を得ているように聞こえる。
「……なんだよ、それ。……小難しい話しやがって」
ふっと無理やりに上げた口角も、一瞬で下がっていく。エリィは膝の上に置いた手のひらをぐっと握りしめた。
「全然わかんねーっての、バカ鼠」
捨て台詞のように吐き出した声が、自分でも驚く程にか細かった。
握りしめた手の甲に、短いヨルの前足が添えられる。険しい表情で俯いたエリィの膝の上に乗るヨルの姿が、彼の視界に映り込んだ。
どこか申し訳なさそうに、しかしそれは同情を向ける顔ではない。
「ごめんね、エリィ。ずっと、黙っていて、ごめん」
ただ彼は、事実を述べているのだと分かった。その上で、彼は謝罪している。表情や身振りでは伝えきれない程の感情を込めて。
今まで全く感じなかった膝の上と手の甲の小さな温もりが、エリィの体をじんわりと温めていくのがわかった。鼻の奥が、ツンと痛んだ。




