終結
ニーナが顔を上げると、人の姿をしたヨルが青い顔で空を見上げていた。
「終わっ、た……?」
周囲を確認するように首を動かすニーナから離れ、ヨルが深く息を吐く。感じていた威圧感はもうない。エリィの魔力も感じない。
再び子鼠の姿を取ったヨルが、力なく声を上げた。
「ねえ」
「はいっ?!」
思わず上ずった声を上げたニーナを細い目で見上げ、ヨルが言う。
「運んで」
ぴらぴらと短い腕を揺らす子鼠を呆然と見下ろしたニーナへ、再びヨルが声をかける。
「何してるの。エリィの役に立ちたいなら、僕を運んで」
最早ニーナに言い返す言葉はない。慌ててその小さな体を持ち上げると、ニーナは両手の中にヨルを納め、彼の指示するままに駆けだした。
* * *
途方もない緊張感から解き放たれたエリィが、どさりとその場に腰を下ろす。後のことは国同士の話し合いだ。暫くは彼が出る幕はない。
「ひァ……」
疲れや安堵、様々な感情が入り混じり、エリィは間抜けな声を漏らす。
「やって、やったぞ……」
今になって、ばくばくと響く自身の鼓動が聞こえた。うるさいなあと頭で考えながらも、声に出るのは異なる言葉ばかりだ。
「見たか、ジェシカめ……! 俺だってなぁ……!」
すっかり力の入らない体に、湧き上がる興奮。やってやったのだ、という達成感と高揚感が、彼の脳漿をかき回した。
「っ~~~~~~!!」
喜びのあまり、言葉が出ない。
快感だ。この上ない、快感。
「俺にもっ!! 出来たぞおぉぉぉぉぉ!!!!!!」
残っていた全ての力を使って、エリィは両手両足を思い切り伸ばした。そのまま空を見上げるように倒れこむと、自然のプラネタリウムが彼の瞳を輝かせた。
この状況を見て一番に動くのはフランソワだろう。あとは彼に伝えておいた通り、上手いように「アンジエーラの手柄」にしてもらえば万事解決だ。そこに魔女の使いが居る必要があれば、あとでいくらでも顔を出そう。
「あ~~~~」
ただ、今は。
「指一本も、動かしたくねー……」
吐き出す様に呟いた言葉が、彼が呼び起こした平穏の夜闇へと消えていく。
大仕事はこれで終わりだ。眠るように瞳を閉じたエリィは、この後二人の王子からたらふく受け取るであろう報酬を思い描いて胸を躍らせた。
(贅沢したいよなあ。とりあえず俺の部屋のカーテンを変えよう。あとは新しい靴を買って、美味い飯食って……。ジェシカの研究室、どっかのシャンデリアが壊れてたからあれもなおして、仕方ねーからヨル用の小さいベッドも……)
「あ」
閉じていた瞳を開き、反射的に起き上がる。体の重さを感じて眉を寄せ、力の入らない足を睨みつけた。
突然起き上がったことで目を回したエリィは、頭を抑えながら首を動かし周囲の様子を見る。
「ヨルとあの男は……?」
万が一にもヨルが負けることはないだろうが、それなりの無茶をさせたはずだ。当然ニーナやゲルダのことも気になる。ここで横になっている場合ではない。
「どこ行きゃいいんだ……」
とはいえ足が動く気配も無く。土地勘など一切ないこの場所で、迷わずミエーレ軍の方へ戻れる自信など無い。
困ったように周囲を見渡すエリィを、輝きを持たない月が見下ろしていた。
そんな月の視線を遮るように、一つの影がエリィの上に落ちる。
「探し物か?」
体が強張った。
今までの安堵や興奮が、一気にエリィの体から消えていく。吸い取られていく。
振り返った先に立つ、その瞳へ。
* * *
「う……」
眉を歪ませたハイドラが、重い瞼を開く。視界に映り込んだ少女の表情がぱっと明らんだ。
「起きた……! 王子様、どこか痛みは?」
起き上がるハイドラの肩を支えながら、ゲルダがその顔を覗き込む。状況が上手く読み取れないハイドラが、頭を押さえて首を振る。
「眩暈がする……あとは、体の節々が痛ェ」
「そりゃ地面に寝ててもらったから当然です。眩暈は……、うーん、しばらく様子を見ないと」
失礼と、言うが早いかハイドラの額や首元を触るゲルダが、満足気に頷いた。
「意識も脈拍も、特に問題無さそうだね……。よし、アルケイデアの王子様! 目を覚まして早々に申し訳ないけれど、やって貰わないといけないことがありますから!」
起きて起きて、とまるで友人に対するかのようにゲルダは彼の背を揺らす。再び眉を寄せたハイドラへ、異なる声が降り注いだ。
「そうだよ。いつまでも寝ていないで欲しいな」
「っ!」
ようやくはっきりと意識を取り戻したハイドラが、顔を上げて目を丸くする。
そこに立っていたのは尖った耳を持つ黒髪の青年だ。その背後には何人もの騎士が整列し、振り返った先には自らが率いた兵士たちが背筋を正して並んでいる。
「こいつは……」
「そろそろ目を覚ますと思う、と彼女から聞いていたからね。こうして、みんなで君の目覚めを待たせてもらったよ」
動揺と焦りと、隠しきれない羞恥にハイドラが頬を高揚させる。
「おっかない人……」
ハイドラにしか聞こえない程の声で、ぼそりとゲルダが呟いた。
「ここに居る皆には、僕からある程度の説明はさせてもらっているよ」
動揺のままにハイドラが振り返ると、すぐ傍で両手を後ろに組み背筋を正すアルケイデアの兵士と目があった。
今までハイドラの代わりとして軍を指揮していた彼は、フランソワの言葉を肯定するようにハイドラへと頷いた。
戻した視線の先でニコリと笑ったフランソワに、ハイドラが慌てて立ち上がる。再び歪んだ視界に体を揺らし、それに気づいたゲルダが彼の体を支える。大丈夫だと断ったハイドラが一度息を吐くと、一歩、目の前で待つフランソワへと近づいた。
ゲルダは彼等から離れて行く。
「……これは、大変失礼を」
「いやいや、大丈夫さ。こちらこそ、お疲れのところ急かすようで申し訳ない」
浮かべた笑みがフランソワの胡散臭さを一層際立たせる。その後ろで呆れた顔を浮かべるシンハーが、ゲルダと視線を交わらせ肩を竦めた。
「改めまして。僕はミエーレ国第二王子フランソワ・ミエーレ。今回の出軍における総指揮官を務めさせてもらった。そしてこの一件における、ミエーレ側の最高責任者でもある」
「……ハイドラ・アルケイデア・アンジエーラだ。アルケイデア国第二王子。同じくこの軍隊の総指揮官で最高責任者」
「認識に相違ないね。初めまして、ハイドラ王子。お会いできて光栄だよ。突然だけど親しみを込めてハイドラと呼ばせてもらってもいいかな? もちろん僕のことも気安くフランソワくんと呼んで欲しい」
「別に構わねーよ。……わかった、フランソワな」
蛇みたいな野郎だな、と心のなかで呟きながら、ハイドラが探るような視線を向ける。楽しそうに口角を上げるフランソワが、ハイドラの顔色の悪さなど一ミリも気にしない様子で話を進めていく。
「今回の一件はこれで終わりだ、そうだよね? ……さあ、僕たちで最後の確認をしよう。これ以上、『彼に頼りっぱなし』では居られないからね」
ハイドラの背筋が伸びた。全てを察したハイドラが、改めてこの近くに居るであろう少年の姿を思い出す。
この無意味な争いに、終止符を打たなければならない。
一瞬だけ視線を空へと向け、異常が綺麗に消え失せていることにハイドラは気付いた。
なるほど、あとは権力者たちの仕事ということだ。
「勿論だ。目的は達成したからな。……俺たちは俺たちの国を守った、それはアンタたちもまた同じ」
どちらからともなく差し出された手のひらが、お互いの手のひらをしっかと握りしめる。
「色々行き違いはあったけれど。『ミエーレ・アルケイデア二国による異常現象鎮圧作戦』は――、これにて、無事完了だ」
しんと静まったこの場に、フランソワの声が高々と響き渡った。