そして夜がくる
バキバキと音が聞こえる。剣が貫通した部位を中心に、壁が崩壊していくのがわかる。
もう一歩。ニーナが足を進めると、その剣先は吸い込まれるように真っ直ぐにハイドラの翼を刺し貫いた。
「ゥ、アァァァァ!!!!」
体の芯から震えるような悲鳴がハイドラの喉から溢れ出す。翼を刺し貫いた剣の柄をしたから握りしめ、ニーナは力の限り振り上げた。
切り取られた翼はいくつもの羽根をまき散らし、重力を無視していた石礫が地面へと落ちていく。
ハイドラの手がだらりと垂れ下がり、巨大な杭は見るも無残に灰へと変わっていった。
あまりにも巨大だった翼はサァと消え、ニーナが感じていた威圧感は最早どこにもない。
地面に落ち腰を打ったゲルダが、「イタタ」と眉を寄せた。
「ハイドラ様!」
剣を投げ捨て、ニーナはその場に倒れこむハイドラの体を抱きとめる。顔色こそ悪いが、彼の体に大きな傷は無い。
翼もまた、時間が経てば再生するはずだ。
震える手で彼の背を握りしめ、ニーナは小さく唇を噛み締めた。
意識を失ったハイドラの姿に、言葉にならない恐怖を覚えて息を飲む。そんなニーナの後ろから、彼女の剣を拾ったゲルダが近寄った。
「……息はあるね。とにかく止められて良かった。……あっちが無事はどうかは、わからないけど」
悔しそうに顔を上げたゲルダが、空に浮かぶ穴まみれの光の網を捉える。
力なく揺らめくその光が、チカチカと点滅をはじめていた。そして視線を落とし、視界に映り込んだ存在に眉を寄せる。
「……ニーナ、これって」
ニーナが振り返り、ゲルダが掲げた剣を見る。その剣先には、なにか小さなものが刺し貫かれていた。
「羽根……?」
それにしては様子がおかしい。アンジエーラの羽根ならば、剣で刺し貫かれれば一瞬にして真っ二つだ。しかしまるで剣先にしがみ付くかのように、羽根はその形を維持したままそこに在る。
不思議に思ったニーナがその手を伸ばすと、羽根は彼女の指先を拒むかのようにバチリと火花のようなものを飛ばした。
「熱……っ!」
驚きのままに手を引いたニーナの指先に、強く残る痺れ。まるで小さな稲妻のようなものを生み出したその羽根は、砂となり崩れ落ち、平らを取り戻した地面と同化して消えた。
ニーナの抑えた指先から、痺れが消えていく。
原因は分からず、ハイドラの意識も戻らない。頭上から感じる異様な威圧感に、とにかく今は、この場から離れるべきだと彼女の本能が告げていた。
すうと息を吸い込むと、心の中で震える体に叱咤し、ニーナが顔を上げた。
「……ゲルダ。まだ馬には乗れそう?」
彼女の傷まみれの体を見たニーナが、申し訳なさそうに声をかける。視線を彼女へと向けたゲルダは力強く頷き、笑顔で剣をニーナへと手渡した。
「勿論! このくらいなんてことないよ。まったくエリィもニーナも、馬にすら乗れないなんて可愛いの!」
白い歯を見せて笑うゲルダに、ニーナが困ったように笑った。
「ハイドラ様をお願いしてもいいかしら」
意識の無いハイドラの体を支えて立ち上がったニーナに、ゲルダが眉を寄せる。
「私は大丈夫だけど、ニーナはどうするの? さすがに3人は乗れないよ」
「私は空を飛べるもの、大丈夫よ」
どこか納得の行かない様子のゲルダへと、ニーナは困ったように笑う。
「もし遅れても必ず後を追うわ。……だからゲルダ、ハイドラ様をお願い」
ゲルダは彼女の肩に担がれたハイドラと、ニーナの傷まみれの足を何度か見返し、そして頷いた。
「……わかった。無茶はしないでね。最悪無理になったらそこで待っててくれれば、私が王子様を送り届けた後、全速力で戻ってくるから!」
ぐっと拳を握りしめて見せたゲルダにありがとうと答えて、ニーナはハイドラを馬の傍へと運んでいく。
ゲルダは急いで馬の元に駆け寄り、大人しく馬主を待っていた馬の背へと飛び乗った。
馬の上からハイドラを引き上げたゲルダが、ニーナと目線を合わせた後に全速力で馬を蹴る。
颯爽と離れていく2人の姿を見送って、ニーナは天空を一瞥し、一度深呼吸をした。
王子に剣を向けてしまったという罪悪感。彼の体調と、この状況への不安。
禍々しい雲の動きと、鳴りやまない雷鳴。体中を震撼させる地鳴り。足の裏から伝わる大地の激動。
そして威圧感と共に感じたのは、1人の少年の気配――。
行かなければ。そう思うのに、ニーナは先を進むゲルダの背を見て足を止めた。
じんじんと痛み続ける足の傷が、徐々に遠くへと離れていくようだ。
意識が、また異なる方へと向いていく。
どうしてだろう。自分に出来ることなど無いのだと、分かっているはずなのに。
ふわりと浮いた体は、ゲルダたちの後を追おうとはしなかった。
くるりと振り返ったニーナの髪がなびく。
「――エリィ」
口を動かした少女の吐息が、空気を伝い音となる。
* * *
はち切れそうな血管が、すうとその緊張を解いた。パキパキと音が聞こえる。空いた穴が塞がっていく音だとわかった。
閉ざした瞳の裏側に必死に描いた景色が、鮮明に浮かんでいく。エリィの立つ地面を中心に作られたパノラマを見ているような、客観的な視界。
その心地良さに、エリィは困惑していた。
周囲と無理やりに同調していた体が、面白いほど心地良い。まるで外殻を失い、体内と外部の隔たりの一切を失ったかのようだ。
本能が暴れていた。
今しかない。エリィは確信した。
「いくぞ……!」
蔦のドームは圧縮をはじめ、エリィを中心に巨大な『空間』を押しつぶしていく。
心臓を押しつぶされそうな圧力に体中の血液が沸騰してしまいそうだ。エリィが血管の浮き出た両手を胸の前へと動かし、両の手のひらで、自らの胸の前の空間を圧迫する。
その動きとシンクロするように、目の前の巨大なドームも更なる収縮を始めた。
眩しいのに、眩しくはない。過去に何度も目にした不思議な景色だ。
「う、ぐうぅぅぅぅぅっ!」
言葉にならないうめき声を漏らしながら、エリィの指先が徐々に絡まっていく。網目が閉ざされ、空間が閉鎖された。
その様子を見ていた全ての生を持つ者たちが、呼吸を奪われる。
* * *
「……!」
顔を上げたニーナが、雲さえも飲み込む輝きに目をむいた。
あまりの眩さに体の平衡感覚を失い、慌てて地面という平面へ足をつける。
自分の手になど到底負えない、異次元の出来事が起きているのだということだけはわかった。
ああ、やはりゲルダと共に行くべきだったのか。
しゃがみ込むことすら出来ず、ニーナはただ天を見上げていた。
「何、してるの?」
ニーナの肩が震える。耳鳴りの様な不快な音の中から突然聞こえたその声の主は、小さな子鼠の姿をしていた。
「あなた……」
思わず漏れた声に、ヨルが足を止める。何故彼女がまだこんなところにいるのか? 何の力も持たない人間が、この場でなにか行動を起こせるはずがない。
このまま放っておけば、彼女は間違いなくこの光に飲まれてしまうだろう。
「…………」
厄介なものを見つけてしまったと、睨みつけるようにヨルはニーナを見上げていた。そんな視線を感じ取り、ニーナは委縮する。
「……ごめんなさい、邪魔するつもりなんて……」
彼女の足が震えていた。
殺す、と言った彼の言葉が、未だに彼女の脳内に強く印象付けられているのだ。
(当然だね。そうなるように脅したんだ)
今考えれば失敗だったかもしれないが、とヨルは自身を責める様にため息を吐いた。
そんな彼の様子に、再びニーナが肩を揺らす。
「そんなに怖がらないでよ」
自分で蒔いた種とはいえ、ここまでわかりやすく怖がられては居心地が悪い。
「エリィの説明、ちゃんと聞いてた? 早く遠くへ……」
「私は何か、エリィの邪魔をしてしまったの……?」
俯いたニーナの口から、そんな言葉が聞こえた。思わぬ台詞にヨルは首を傾げる。
そんなはずはない。思い込みもいいところだと感じて、言葉にするのをやめた。
彼女は今、この場がどんな状況にあるのか理解しきれていないのだ。自分が勝手な行動をしたことで、魔法が失敗してしまったのではないかと不安に感じているのだろう。
だからこそ今、ヨルが自身の前に現れたのではないかと。
(……そう、か)
ふと抱いた不協和が、みるみるうちに消えていく。
(この子は、僕に殺されるかもしれないことを、恐れているわけじゃないんだ)
黙ったままのヨルの様子を肯定と受け取ったのか、ニーナが戦慄するように震える足で一歩交代した。
「どうしよう、私……!」
口元を覆ったニーナの瞳に、薄く涙が浮かんでいるのが見えた。
今にも膝をついてしまいそうなニーナの前で、ヨルはふわりと身を上げ、人の姿に成る。驚いた様子のニーナを抱きしめると、彼女の視界を奪う様に、その顔を自身の胸の中へと納めた。
「エリィの方は問題ない。――目を閉じるんだ」
有無を言わさないヨルの言葉に、ニーナが息を止める。彼女の体から力が抜けていく。震えが収まっていく。
はらり、と。ヨルの視界に、一片の花弁が映り込んだ。
* * *
馬を止め、合流した兵士たちへハイドラの身を預ける。顔を上げたゲルダが、目の前で輝きを増すドームに目を奪われた。
彼女とハイドラを囲む兵士たちもまた、目の前の光景をただ呆然と見上げている。
一方また異なる場所では、以前一度見た光景であるにも関わらず、アルケイデアの兵士と同様に目を奪われるミエーレの騎士の姿があった。
シンハーの隣で顔を上げるフランソワの瞳が、輝きに揺れている。
そして。
蔦のドームの、その中心に立つエリィの指先が、絡まった。
「――――――――――!!!!」
体が焼き切れそうなほどの熱を感じた。
湧き上がる巨大な閃光は天を貫き、ほんの一瞬夜を昼へと巻き戻す。
一度体中の臓器が外気に触れ、再び元あった場所へ戻って行ったようだ。
そんな前代未聞の感覚を、エリィはすんなりと受け入れていく。
まるで森羅万象の全てを知り得、且つその全てを一瞬にして天空へと捨て去るような、脳の活動を感じる。
そしてその一瞬が過ぎ去ると、蔦は枯れ、はらはらと朽ちて空中に消えていった。
* * *
空は美しい星空だ。地面の揺れは収まり、空に穴が開いたかのような黒雲は消え去っている。
目も眩むような輝きはない。
あるのは普段と変わらない、夜だけだった。




