『ザデアス』
翌日。エリィはジェシカの使いを任された。
明け方完成した薬を、ノブルの病院まで届けてほしいという。
ノブルとはジェシカが屋敷を構える街の名称だ。昨日エリィが立ち寄った八百屋も、この街の商店街にある。噂と音楽を好むこの街の住人たちは、この日も普段と同じ生活を営んでいた。
どこからかアップテンポな弦楽器による演奏が聞こえ、中央広場を中心に広がる商店街には、溢れんばかりの人々が集まっていた。
「おお、君は魔女さんの! 今日もお使いかい?」
初老の男性がエリィへと声をかけた。自宅兼店の前に立ち人々を観察していたらしい。この街では魔女ジェシカは然ることながら、その唯一の弟子兼小間使いとして、エリィはすっかり有名人であった。
とはいえこの感覚も、一歩ノブルを出れば一瞬で消え失せる。あくまでもエリィの知名度の高さはこの街の中に留まり、一歩街を出れば彼の噂はおろか名前すら聞くことはない。
「まあ、そんな感じ」
手を振り返したエリィが答える。男性がこちらへと振る手をよく見ると、いくつもの皺と並んで、鱗が浮き出ているのが見て取れた。
エリィが視線を前方へ向けると、そこには彼と同じように、両腕に鱗のようなものを浮かべる者の姿がちらほらと見られる。
それは昨日、エリィと話を交わした八百屋の店主には無かった特徴だ。
『ザデアス』。
古くからヒトと共に生活を営んできたこの世界の住人、その総称である。
彼等は種族毎に、それぞれヒトには無い特殊な能力を宿していた。
このノブルに多く住まう彼等ドラグニア族はザデアスの一種で、その体に浮き出る鱗がその証だ。太古に存在していたというドラゴンの力を、その身に宿している。
「今日も平和だな」
心躍る音楽に体を揺らしながら、エリィが肩に乗ったヨルへと声をかける。
人々から見たヨルという子鼠は、ただの「魔女のペット」に過ぎなかった。ヨルは頑なに、一部を除いた人前で言葉を発しようとしなかったのである。
小動物が言葉を発するという出来事に、この世界の人は特段驚かないだろう。以前ただのペットを貫く理由を聞いたエリィに、必要以上に話しかけられるのは億劫だからとヨルは答えていた。
商店街から少し離れた今、周囲の人の歩みは疎らになっていた。エリィが街の者と会話をしている間には一切の言葉を発しなかったヨルが、ほんの少し片目を開けて頷いた。
「この国は平和だよ、今はね。……なにか騒動が起きるとしたら、これから王の代替わりが起こるアルケイデア王国の方だ」
特殊能力を持たないヒトと比べその個体数は圧倒的に少ないものの、ザデアスたちが世界に与える影響力は多大なものであった。
長年絶えず続いていたザデアス同士の争いは激化を続け、その中で勝ち残った種族のみが繁栄を許され、人々を束ねて国を作る。
そうして勝ち残ったとあるザデアスの種族が、王となり生まれた二つの国。それこそがエリィの住まうミエーレ王国と、たった今話題に上がったアルケイデア王国であった。
この二つの巨大国家成立を期に大陸内での争いは収束の一途を辿り、今こうして多くのヒトやザデアスたちは各々の選んだ――もしくは選ばざるを得なかった――国で共に手を取り合って暮らしている。
その様は、長年にわたり激戦状態にあった世界の歴史から見れば、まさに「異様」な様と言えよう。
「そういや八百屋のばーちゃんもそんなこと言ってたっけ。なんで騒動が起こるんだ? 王子が居るんだから、そいつが王に成ればいいだけの話だろ?」
ヨルは周囲の様子に視線を向けつつ、そんなエリィの問いかけにため息を吐く。ヨルの態度にエリィがむっと口元を曲げた。
「ゲルダの家、もう着くでしょ。話は後でね」
中央広場を抜け、裏路地を進み、やがて人込みを抜けるとそこは住宅街であった。三つ目の十字路を過ぎたその先の角を曲がれば、目的地である病院は目の前だ。
再び住人の姿が増えた住宅街で、ヨルは再びペットよろしく黙り込む。
呑気にあくびをして見せる子鼠を尻目に、不満げなエリィは足を速めたのだった。
* * *
死人を自称するヨルはその体質からか、ウィルス感染等を理由に体調不良で苦しむことがない。またなぜかジェシカが体調を崩すという事態にさえ、エリィは一度たりとも出くわしたことがなかった。
「病院ってのは、どうも慣れねーな……」
「ジェシカが居てよかったね、エリィ」
周りに人がいないことを確認してから、ヨルがエリィの肩の上で呟く。エリィは苦い顔をした。
確かにエリィ本人は風邪をひくことこそあれど、ジェシカの薬のおかげでそれほど苦しい思いをしたことはない。……自分が服用する薬のために、風邪をひいたエリィ自ら薬草を採取しに行かされたことを「苦しい思い」と言わなければ。
エリィが病院の待合室へ入ると、数人の病人が自分の番を待っていた。彼の姿を見た患者たちの中には頭を下げる者や手を上げる者も居る。
子供は指を指し、珍しい物を見るように目を輝かせ、手を振ってくる。
エリィは挨拶を返しながらもどこかむず痒そうに視線を逸らすと、速足で受付の先のドアを開けた。
「ばば……あー、魔女ジェシカからの届けものなんだけど」
ショルダーバッグから紙袋を取り出し、胸の前辺りでひょいと掲げて顔を出す。その声にいち早く反応した一人の少女が、目を輝かせて彼の名を呼んだ。
「エリィ!」
明るい声の主が、嬉しそうにエリィの元へと駆けてくる。短く肩の上で切り揃えられた髪が、はっきりとした顔立ちによく似合っていた。
「おう。お疲れ、ゲルダ」
「お疲れ様! 今日もありがとう!」
彼女はこの病院の院長の娘であり、父親と同じ医者を目指すドラグニア族の少女ゲルダ。白く細い腕には種族の特徴である鱗が浮き出ている。エリィにとっては数少ない、同年代の友人だ。
幼い頃はエリィともよく遊んでいたが、最近はお互いに仕事量も増え、中々会う機会も減っていた。
「ヨルちゃんも、久しぶり」
ヨルが差し出されたゲルダの手に飛び移ると、心地よさそうにその手のひらに頬を摺り寄せた。
「急がせちゃってごめんね、おかげで患者さんを待たせなくて済むよ」
「いいよ、どうせ急いだのはジェシカだし。俺はここに持ってきただけだ」
手にしていた紙袋とはまた別に小分けにされた薬を取り出し、ゲルダへと手渡す。彼女の両手を空けるため、ヨルが肩の上に移動した。
いくつかの紙袋に張られたラベルの文字と中身を確認しながら、二人は奥の部屋へと進む。部屋に入ると、その中央のテーブルに菓子が並んだ皿が置かれているのが見えた。
ゲルダは受け取った紙袋をまとめて部屋のサイドテーブルに置き、傍にあった小さな金庫の鍵を開ける。その中から数枚の硬貨を取り出してエリィへと手渡した。
「お茶くらい飲んでくでしょ? 実はもうお菓子まで用意してたんだ」
サイドテーブルに置いていた紙袋を再び手に取り、ゲルダが壁に並ぶ引き出しへと仕舞っていく。受け取った硬貨の枚数を確認したエリィは、それを麻袋に入れてバスケットの中へ戻して頷いた。
「ヨル、もういいだろ」
エリィが部屋の扉を閉めると、二人と一匹きりになった室内でエリィが子鼠へと声をかける。片付けを続けるゲルダの肩から、ヨルがひらりとサイドテーブルに飛び降りた。
「はいはい、さっきの話の続きね」
「さっきの話?」
片腕に紙袋を抱きながら、ゲルダがちらりとヨルに視線を向ける。彼女はヨルが、自身がただのペットではないことを明かしている数少ない人物の一人だ。
「アルケイデアの国王の話だよ」
ヨルの言葉に、ゲルダが納得したように反応した。
「ゲルダも知ってんのか?」
エリィが椅子に座り目を丸くする。ゲルダは当たり前だと頷いた。
「そりゃ、大ニュースだもん! アルケイデア王国にとって建国後二回目の『王の交代』で、ただでさえ国民はざわつくはずだよ。なのに王の死から一週間近く経った今も、次の王が決まってないなんて大問題だよ」
「なんで次の王が決まらねーの?」
「エリィ、本当に知らないの?」
驚いた様子のゲルダに、エリィが再び唇を曲げる。
素直に「知らない」と言えないエリィの元へ、ヨルが小走りで近寄った。