『神』
ヨルは答えない。痺れを切らしたように、男が再びぬいぐるみを抱いていない手で空を切った。
指先から生み出された無数の氷の刃が、次から次へとヨルを目指して空を飛ぶ。
ヨルは力の全てを振り絞り、鎌を振るった。
やがて手に感じていた衝撃が収まり顔を上げる。ヨルの目の前に、黒い熊の顔が迫っていた。
「!」
柔らかな体を逸らし、地面に手を突いて後退する。今まで見えることの無かった熊の爪が、誰も居ない空を切り裂いた。
「ベア子!」
そんな男の声に答えるように、その熊は表面積を広げていく。やがて長身のヨルをも飲み込むほどの図体を手に入れた熊が、ヨルへ更なる猛攻を始めた。
「く」
最初に感じた力も、ヨルの体から少しずつ離れていく。
このままではいずれ限界が来る。ヨルは歯を食いしばり、ほんの一瞬の隙をついて鎌を振り上げた。
「っう!」
弾き飛ばした両腕の間、熊の脳天へと。
両手で握りしめた、鎌の先を振り下ろす。
男の手が引いた。ヨルの鎌がその身を切り裂くよりも先に大きさを戻した熊が、瞬時に男の腕の中へと戻っていった。
「は……、はぁ……っ」
荒い呼吸を繰り返したヨルが、男の顔を見る。幸いエリィへの興味は薄れているようだが、男から感じる殺気は留まるどころか増す一方だ。
その表情は、ヨルという存在をただ嘲笑していた。
「まさかまだこの世界に、テメェみたいなヤツが居たなんてな」
「……君、は」
見覚えがあった。それは、遠い昔の記憶。
彼がまだ、「ヨル」という名を得るよりもずっと前の。
「こんな近くで見ていたなんてな。……どうだよ、お前らが捨てた玩具の行く末は!」
「あぐ……っ!」
再び彼を襲う無数の刃のうち、防ぎきれなかったいくつかがヨルの体を切り裂いた。紅の鮮血が舞う。痛みにヨルの視界が薄らいだ。
「……なんだ。お前らみたいなのも、イッパチに血を通わせているんだな」
鎌を杖替わりに、ヨルは肩で呼吸を繰り返す。彼の体に突き刺さったままの氷の刃が、血に溶けて水となる。その冷ややかさにヨルの体が震えた。
「……何のつもりだ」
男の顔から、笑みが消えた。
ヨルが、両手を広げて立っていた。この先には進ませないと、そう告げるように。
「駄目、だよ」
前髪に隠れた瞳と共に、ヨルは真っ直ぐに男を見つめていた。
「僕たちは、もう……手を出す、べきじゃ、ないんだ」
男の表情が歪んだ。
「手を出すべきじゃない、だと?」
ヨルの呼吸が止まった。
殺意などという言葉では言い表せない感情が、その全てが。ヨルの体へと、ぶつかってくる。
男が手を振るうと、その瞬間彼の手は氷で出来た剣を握っていた。一瞬の出来事だ。
「違うな!」
ヨルが再び構えた鎌へと、氷の剣が一直線に振り下ろされる。氷の破片が舞い、水となり蒸発して消えた。
「手を出すのが面倒になった、の間違いだろう!」
「うあ!!」
圧に耐え切れず鎌から手を放したヨルが、その衝撃で腰を打つ。鈍い鈍痛と、手の先の痺れ。思わず瞑った瞳を再び開くと、その目の前に迫る刃先に背筋が凍った。
「お前らのせいで『マリー』は――ッ!」
動かない。迫りくる脅威を退けるだけの力は、今のヨルには無い。
そして感じた。懐かしい戦慄を。
「!」
これは目の前の脅威に対する震えではない。
もっと近くて、ずっと遠くに置いてきた、彼らに向けられたものだ。
弾き飛ばされた氷の剣が、空中で弾け飛び消えていく。数歩後退した男が、忌々しそうに現れた二つの影を見つめていた。
「君、僕たちのペルドゥになにしてるの?」
桃色の髪と、禍々しく形を変え続ける黒い鎌。少女と少年の姿を象った二人が、ヨルを庇う様に鎌を構えて立っていた。
「大丈夫ですか、ペルドゥ!」
振り返ったスッピナの瞳には、いつも通り涙が浮かんでいる。
「良かった、ペルドゥになにかあれば、俺たちは……!」
「……ピアンタ、スッピナ……」
すっかり腰が抜けてしまったヨルは、ただ二人の名を呼ぶことしか出来ない。スッピナが彼の無事を確認し、ほんの少し表情を和らげた。しかし、その隣に立つピアンタがまとう殺気は、より一層その色を増していく。
「たかが『人間』の分際で、僕たちに盾突くつもり?」
威嚇するように振るったピアンタの鎌が、ごうと空気を震わせる。普通の神経を持つ人間であれば、それだけでも恐怖のあまり膝を折ってしまうことだろう。
しかし。この男は恐怖するどころか口角さえ上げて、新たな二人の登場を歓迎した。
「今更戻ってきて『神様』気取りか。反吐が出るな」
「当然でしょ」
「!」
唐突に男へと突進したピアンタが、鎌を大きく振るった。男は咄嗟に後退するが、宙を舞うピアンタの速度には追い付けない。
構えた手の甲が切り裂かれ、血液が舞った。
「気取りじゃない。僕たちは――『神』なんだから」
ヨルの表情が一気に沈んでいく。思い出される過去の記憶に眩暈がした。
自分が舞えば、辺りに朱が舞う。
怒号、嗚咽、断末魔。並ぶ十字架。冷えていく細い手。
悲鳴。悲鳴、悲鳴悲鳴――、悲鳴。
「お前等が捨てた世界だろうが! 今更、何を求めてここに来た!」
聞こえる。声が。
殺せ。奴らを殺せ。増えすぎた人類を、殺せ――。
「ペルドゥ?」
心配そうなスッピナが、ヨルの肩にそっと手を添える。
その優し気な言葉と触れられた手の冷ややかさに、ヨルは再び戦慄した。
「この世界に、僕たちがこれ以上なにかを求めると思ってるの?」
呆れたような声で、ピアンタがそう言った。
「僕たちはペルドゥを迎えに来ただけだよ。君たちみたいな人間には、これっぽっちも興味なんてない。……こんな、残りカスの世界にはね」
「――――!」
男が吠えた。いや、正しくは何も叫んでなどいないのだ。
それでもヨルは、自身の皮膚が彼の咆哮で震えたのに気付いた。
駆け出した男の周囲を、いくつもの氷の刃が躍る。スッピナもまた、ピアンタの傍に寄り鎌を構えた。男が手を振るう。縦横無尽に刃が宙を駆け巡る。しかし、二柱の神には到底かなわない。
「ベア子!」
男の手を離れた熊のぬいぐるみが、巨大化し二人の体へ迫る。その身を翻したピアンタの隣で、その手のひらの下にスッピナが収まった。
「スッピナ……!」
思わずヨルの口から声が漏れる。
しかしそのすぐ傍を舞うピアンタの表情は、焦りの色一つ見せなかった。
「無駄ですよ」
熊の手が、地面に届くことはない。
ぐらりとその巨体が揺らぐ。スッピナの押し上げられる力に敵わず、その腕が弾き飛ばされた。
「俺たちと、力比べでもしようっていうんですか?」
スッピナの瞳が、鈍く輝いた。
「っ!」
体勢を立て直した熊が、男の指示するままに猛攻を開始する。片手はピアンタ、そしてもう片方の手でスッピナを捉え、その鋭い牙と分厚い手のひらを何度も何度も叩きつけた。
その一つ一つが、この場で起きている異常現象とは異なる形で大きな地震を引き起こした。
土煙が舞う。
「無駄だって言ってるのにね」
姿が見えなくなっていたピアンタの、落ち着き払った声がした。
「な――!」
息を合わせた二人の一撃に、遂に巨大な熊が天を仰いだ。ピアンタとスッピナは同時に地面を蹴り、その熊の足をそれぞれが切り裂く。足元を掬われた熊はその体を一気に収縮させ、遂に普段と変わらないサイズに戻って地面に落ちた。
「……面白い魔法だね。でも、全然ダメ」
呼吸一つ乱さず、ピアンタが男を見る。男は辛うじてその場に立っていた。その両足から、だくだくと血を流しながら。
「疑似憑依? このぬいぐるみを媒体にしているのかな。う~ん……まあ、人間がこれだけ出来れば万々歳なんじゃない?」
頬に手を当て、感心したような素振り。
「この世界も案外捨てた物じゃないかもね。……なんて」
薄笑いを浮かべたピアンタの挑発に、男がその手を握りしめていた。