障害
荒野の中心で、エリィが息を吐いた。左右から感じる痺れに身が震える。
「どう、わかりそう?」
肩の上に乗ったヨルが、周囲の様子を確認しながら問いかける。
「……本当に、なんとなくだけどな」
目を閉じて、暗闇の中で感覚だけに意識を集中させる。自身を中心に四方八方へと向けた感覚は、次第にぼんやりと、いくつもの小さな存在を掴み取る。羽毛のようなものに触れるような。指先に、爪の先にほんの少しだけ触れるような。たったそれだけの、頼りない感触。
それは、彼自身が生み出した花弁の感覚だ。
「ニーナ、上手くやってくれてるかな」
「さあね」
素っ気ない返事にエリィが苦言を述べることはない。
「……今更だけどさ、お前どうやってハイドラのところに手紙を届けたんだ?」
この状況を見れば、エリィの書いた手紙が彼の元へ届いていたことはまず間違いないだろう。
ヨルを信じてこそいるが、一度気になると意識がそちらへ向いて仕方ない。
フランソワにああは言ったものの、エリィはその手段の一切を聞かされてはいなかった。
手紙を書いた日から今まで、日中ヨルがエリィの傍を離れていることは一度たりともなかったはずだ。ジェシカの屋敷からアルケイデアまでは、到底一晩で行って帰ってこれるような距離ではない。
「知り合いに頼んだんだよ」
ヨルはそれ以上を言わない。そしてエリィが、そんなヨルへと更に何かを問いただすこともない。
「相変わらず変わった奴だよな、お前って」
「嫌?」
思わず目を開けたエリィが、「はぁ?」と眉を寄せた。
「馬鹿みたいなこと言ってんじゃねーよ。お前が悪魔だろうが何だろうが、嫌になる訳ねーだろうが」
丸い瞳を更に丸くした子鼠が、呆れたようにため息を吐くエリィの横顔を見上げる。
「……そっか」
そして、会話は途切れた。
再び瞳を閉じたエリィが、その両手を広げていく。
ヨルの指摘は完全に「当たり」であった。階段の下の研究室でエリィが見つけた異常現象を止めるための手がかりは、主に三つだ。
まずは、今までに異常現象が発生した際の共通点。今回エリィがハイドラへ進軍の日を新月の夜を指定したのは、このジェシカの記録を元にしている。
次に騎士団との合同作戦の後、ジェシカの手によって生み出され、エリィに襲い掛かった蔓の残骸。その蔓がミエーレ騎士団とジェシカによる、合同作戦を実験台として作られたものであることをエリィは知っている。
残骸とはいえジェシカの魔力を帯びたそれはきっと、あの合同作戦時以上の効果が期待できるはずだとエリィは踏んでいた。
そしてもう一つは、彼の生み出した花びらについて。
ただしこれは、ほんの偶然に発見した事実であった。エリィの生み出す花弁は彼の意思の通りに動くことはなく、それはただの無害な花弁に過ぎない。
しかしその瞬間の出来事を思い出して、エリィは今も尚静かに興奮を抱く。
ふいに零した彼の花びらが、ジェシカの蔓に反応して動きを見せたのだ。恐らく、微量ながらその花びらに残されていたエリィの魔力が、蔓に残されたジェシカの魔力に反応したのだろう。
「……そもそもあの合同作戦の日。俺が種を撒いて回ったのは、あの種が魔力無しじゃあ発芽しなかったからだ」
自分に言い聞かせるように、エリィは言葉を呟いていく。
前回の合同作戦の際、ジェシカが言っていた言葉が脳裏へと蘇った。
「この種は発芽後、数十分と経たずに枯れてしまう。だから事前に蒔いておくことは出来ぬのじゃよ。とはいえ、魔力の無いものがこの種を蒔いたところで発芽はせぬからのう。エリィ一人で蒔いてもらわねばならぬ。まあ、今回は比較的範囲が狭そうじゃから、きっとエリィの足でも間に合うぞ」
結局エリィがジェシカの魔法の範囲から出る前に、彼女は魔法を実行した。あの時は待ってくれれば良かったのにと腹を立てたが、恐らくそれほどに発芽した蔓の寿命は短いのだろう。
「ったく、あの蔓散々俺を締め上げやがって……」
彼なりに実験を繰り返す中で、エリィは何度もジェシカの残した蔓に締め上げられてはヨルに助けられていたことを思い出す。
「くそ、あのやぶ魔女め……。もう少し扱いやすいモンをだな……!」
そんな苦言を呟きながらも意識の集中を始めたエリィの肩の上で、ヨルが静かに思考を巡らせた。
合同作戦の際、ジェシカが行ったものと同じ作戦で今回の異常を抑えるとなれば、前回と同様に短時間で、この巨大な範囲へ種を蒔く必要がある。そんなことは、エリィ一人では到底不可能だ。
そんな中、彼は自分の唯一扱える魔法に希望を託すことにした。
今回、ヨルがエリィから聞いた作戦はこうだ。
まずアルケイデア軍を説得し、残されていた蔓のカスとエリィの生み出した花弁を配る。ミエーレ、アルケイデア両軍に担当範囲を指定し、以前ジェシカがエリィに指示した方法と同じやり方で、その二つを共に蒔いてもらう。種に帯びさせる魔力は、エリィの花弁で代用するのだ。
それが終われば、エリィがその蔓を再び呼び起こし発芽させ、異常を抑えるというもの。
エリィの実験では、確かに花弁に残された魔力だけでも、蔓を呼び起こし発芽させることは可能だった。しかし作戦本番で、成功するかどうかは誰にも分らない。
エリィが本当にその魔法を成功させられるかはもちろんのこと、異常現象が大きな被害を出す前に種を撒き終われるか、そもそもアルケイデア軍に蔓と花弁を渡すことが出来るのか。
そんないくつもの懸念材料を抱えた、なんとも頼りない作戦だった。
しかしジェシカに頼れないエリィには、これ以上の作戦は無い。
後は自分次第だと、エリィは呼吸をする度に言い聞かせている。
(確かに、エリィの花びらには魔力がある。この作戦は、彼次第ではあるけれどまあ理屈は通ってる……)
ヨルはそんなエリィを見上げながら、眉を寄せる。
(でもそれなら、もっと早くにジェシカが実践しているはずだ)
前回の合同作戦の際も、エリィに走り回らせることもなく、且つ確実に異常を抑えることが出来たはずである。
何か思うところがあったのか、それとも不可能だという確信があったのか。どちらにせよ、実践しなかっただけの理由が彼女にはあったはずだ。
それだけが、ヨルにとっての気がかりだった。
「エリィ、もっと安全なところからじゃ駄目なの?」
尚も止まらない雷鳴に負けないように、ヨルが声を張った。
「……駄目だ。中心からあんまり離れると、花びらの居場所がわかんなくなる。それに移動したって、そこも結局安全な場所じゃねーよ」
目を閉じたまま、エリィがそう答えた。
全てが初めての経験なのだ。少しでも確実性の高い場所が良いのだろう。
ヨルは「わかった」と答えて、再び周囲の様子を見る。巨大な軍隊が動く様子は見られない。散り散りになって種を撒いているのだとすれば、この状況は納得だ。ニーナの説得は成功したのだろうとヨルは考える。
ここまでくれば、あとは全てエリィ次第だ。最早、自分に出来ることなど何もない。そう思った矢先。
「…………!」
全身に走る悪寒を感じ取り、ヨルはエリィの肩から飛び降りた。
「ヨル?」
エリィが薄く瞳を開け、足元に立つヨルへと振り返る。
そして、その視線の先に立つ一人の男の姿を見た。
「あんた……」
宙に浮く黒い熊のぬいぐるみ。いや、それはその男に抱かれているに過ぎない。
ラーマセで言葉を交わした、変わり者の男だ。
無造作にまとめられた髪と、いくつも開けられたピアス。鋭い瞳。意味があるのかわからないヘアピン。一度しか顔を合わせていないというのに、まるで昔からの知り合いのようにエリィは彼の姿を受け止めた。
「その後、どうだ?」
あまりにも軽い前振りの無い問いかけに、一瞬エリィの思考が止まる。
「困っているのなら、俺が助けてやる」
どこまで本気なのかわからない物言いだが、その瞳は決して軽薄な人間の持つそれではない。
だからこそ、恐ろしい。
「少しは、進展があったようだが……」
周囲の様子など視界に入らないとでもいう様に、男は口角を上げエリィへと肩を竦めて見せた。一体何のことを言っているのかと眉を寄せるエリィへ、男は呆れ半分でおいおいと手を動かす。
「『アレクシス』のことさ」
「!」
そうだ。この男との会話を思い出し、エリィは息を飲む。
しかしこの状況で悠々と『アレクシス』についての会話を続けるつもりはない。そんな余裕が、あるはずもない。
「……後でで良いか? 今は忙しいんだ。……あんただって、ここに居たら危険だぜ」
なぜここに居るのか。ここで、何をしているのか。そんな疑問も馬鹿馬鹿しく思える程、その男は当たり前にそこに居た。
異様な空間にエリィの背筋が凍っていく。危険だと、本能が訴えるように。
「忙しい? ……何をするつもりだ?」
男の瞳の色が変わった。エリィの体が、太い杭で打ち付けられたように動かない。
この感覚だ。エリィには息を飲むことすら許されない、彼という空間が生まれていく。
それは、気が遠くなるような、異空間。
男がため息交じりに首を振った。
「いい加減、『本能』に従えよ」
揺れる。
「――――ッ」
再び起こった揺れが、エリィの体をその杭から解き放つ。
しかし同時に、彼の内からその更に奥へと伸びる二つの手のひらを感じて、エリィは吐き気を感じた。
なんだ、これは。
誰だ、お前は――。
「!」
そして目の前に現れたもう一人の姿に、体中に走る緊張が奪われた。
安堵と衝撃。
いくつもの金属音と、弾き飛ばされ地面に落ちた無数の刃。
男の表情から、笑みが消えていた。
「ヨル……」
人の姿を為したヨルが、顔色の悪いままに手にした鎌を握りしめる。男が放った無数の氷の刃がエリィの体を切り裂く前に、ヨルがその間に割って入ったのだ。
「エリィは、作戦に……集中して。出来れば、ここから離れたところで」
状況が理解できていないエリィに振り返ることなく、ヨルは男から視線を逸らさず言った。再び揺れが強くなってきている。そう時間もない。
最早、ここが一番良いなどと言い張る余裕もない。
「…………わかった」
ヨルへ背を向け、エリィは暗闇へと駆け出した。
残されたヨルが男を見つめる。睨みつけるような男の表情に、ヨルが息を飲んだ。
「テメェ、は」
間違いない。彼がヨルへ向けるものは、殺意だった。




