魔女の使いの作戦
動き始めた自軍の兵士の気配を感じ取りながら、白馬の上でフランソワが目を細める。彼の脳裏に思い返されるのは、四日ほど前の出来事だ。
「――なるほどね」
エリィから話を聞いたフランソワが、興味深そうに口角を上げソファの背もたれに体を預ける。早朝の来客だというのに、彼は嫌な顔一つせずエリィを迎え入れていた。
「異常現象が起きる日時の特定は難しい。でも、今までの様子を見れば、大きな異常が起きる日は決まって満月か新月の夜……。言われてみれば、そんな気もするね」
視線を向けられたシンハーが、不安げに頷く。
「そうだ。次にアルケイデアの近くで起きる異常現象は、デカいやつだってハイドラが言ってた。それならきっと、次の新月の夜に起きると思う」
ジェシカのまとめた資料を片手に、エリィはテーブルを叩く。
長い足を組み、フランソワが肘をついた。
「でも、その新月の日にあちら側が動くとは限らないだろう?」
「それなら大丈夫だ。手紙を書いておいたからな」
「……手紙、ねえ」
国境を越えてそんな手紙が王子の元に届くとは思えないが、と目を細めたフランソワに、エリィが声を上げる。
「届くわけがねぇって思ってんだろ。俺の相棒を舐めんなよ!」
ちらりと彼の隣でソファの生地に体を摺り寄せる子鼠の姿を捉える。彼曰く唯一無二の相棒なのだそうだが、この子鼠一匹に一体何が出来るのやらとフランソワはため息を吐いた。
「まあいいよ。面白い話は好きだから。……百歩譲って、そのハイドラ王子が君の指示通り次の新月の日に動いてくれたとしよう。でも当日、アルケイデア軍が君に協力してくれるという確証はあるのかな。もしも僕たちが君の指示に従っている間に、アルケイデア軍が攻めて来てしまったら?」
異常現象の発生も手紙の存在も、全てはこの少年の夢物語かもしれない。あるいはあのアンジエーラの少女と手を組み、こちら側を騙そうと動いているのかもしれない。
これは一種の博打だと、フランソワはそう考えていた。
蛇のような瞳に見つめられながらも、エリィは決して臆することなく口を開く。
「信じて欲しい。俺には、それしか言えねぇ」
そんな根拠も何もない一言に、従うと思うのか。
そんな言葉さえも、フランソワの口から溢れることは無かった。
「そうだな……。それなら、もしもこちらの軍がアルケイデア軍に負けるようなことや、異常現象に巻き込まれ、重大な損害を得るようなことがあったら」
組んだ指を唇に当て、優し気な笑みを浮かべフランソワが言葉を続ける。
「総司令官である僕は君の魔法に操られていた。延いては、ジェシカの悪意によるものだった……ということになるだろうけど。それでも良いかな」
ジェシカの名が出た瞬間、エリィが生唾を飲み込んだのがフランソワにもわかった。
万が一彼の作戦が失敗しようものならば。救世主であったはずの魔女は、一夜にして王子を操りミエーレに敗北をもたらした悪女となり果てる。
そしてそれだけのことがこの王子には可能であると、エリィは理解しているのだ。
「――いいぜ。それで、俺の話に乗ってくれんなら」
「おいおい、良いのかよ」
今まで黙っていたシンハーが、我慢できないと言いたげに声を挟む。フランソワが足を組み替え、瞳を伏せた。
「もちろん、僕たちに降りかかるリスクは最低限に抑えるさ。万一に備えて、ミエーレの軍は今日から国境すぐ傍の街に待機させておく。それに、信用があってこそ成り立つ君の商売だ。失うリスクを負ってでも実行しようとするんだから、それなりの確証があるんだろう?」
エリィが息を飲んだ。
「……とはいえ、これは僕が依頼したことでもあるし、ね。多少の協力はさせてもらうよ」
必ず成功させてね、と言ったフランソワに、エリィは立ち上がって「勿論だ」と答えた。
その言葉が今も、フランソワの耳にしっかりと残っている。
「こんなに早く始まるとは思わなかったな」
背筋を正し、フランソワが見えもしない相手の様子を探る。
「あんな雲見たこと無ェぞ。……本当に、大丈夫なんだろうな?」
その隣のシンハーが呆れたように声をかける。
揺れこそ収まりつつあるが、頭上を渦巻く厚い黒雲はその動きを一層速めているようだ。雷鳴は止まず、冷ややかな風が強くなっていく。
「全ては彼次第ということさ。僕たちみたいなただの人間に、出来ることなんて限られているからね」
そんなフランソワの言葉にシンハーはどこか納得がいかない様子を浮かべる。フランソワは上着のポケットに手を入れると、そこから一欠片の黒い塊と一枚の花弁を取り出した。
「さて、魔女の使い。止めて見せてよ。――この、異常をね」
彼の手の上でこすれ合ったその二つは、まるで上空から響く雷鳴に反応するようにゆらゆらと揺れている。
* * *
アルケイデア軍の馬が雷鳴に興奮し、進行の中断を余儀なくしていた。ハイドラもまた、興奮状態にある馬から降り身を屈めている。
兵士の持つランプの明かりだけでは、相手方の様子を伺うことは出来ない。
「歩兵隊、合流しました!」
ハイドラは舌打ちを漏らした。
時折頭上から周囲を照らす轟きが、少しずつ大きくなっていく。
しかしここで引けば、目的の達成は手の内から一気に零れていくだろう。
雷とは古くから神の怒りを表すものと謳われる。まるでハイドラの行動を、「天使の主」たる神が咎めているようではないか。
正に、天使の威厳も何もない。
「まさか、これが目的だったのか……?」
だとすれば、見事な作戦だ。アンジエーラの信頼は地に落ち、アルケイデア王国という組織の根底が崩れていくことだろう。
姿を見せない少年の姿を思い出し、ハイドラが毒づいた。
「後方から一頭の馬が接近中!」
「――後ろから、だと?」
監視役の兵士の声に、ハイドラは眉を寄せる。その言い様ではアルケイデア軍の馬ではないのだろう。
何たる失態だ。敵軍の兵を、背後へ回してしまうとは。
「……俺が行く。前方の注意も怠るなよ」
すぐ傍の兵に手綱を託し、ハイドラは足元を掬われないよう駆け出した。本来であれば、軍の総大将である自分が動くべきではないのだということも理解していた。
それでも、収まらない苛立ちと焦燥に、ハイドラはその場でただ待つことなど出来なかった。
ハイドラが軍の最後尾にたどり着くと、その姿を捉えたニーナが声を上げる。
「居た!」
全速力で馬を走らせていたゲルダが、思い切り手綱を引く。
予想通りだとニーナは思った。
異常現象を経験したことのないアルケイデアの馬たちは、ミエーレ軍の元にたどり着く前に使い物にならなくなっていた。この揺れの中これほどまで上手く馬を扱えるゲルダの腕はもちろんのこと、そのミエーレの馬もまたこの状況下で人を乗せて走っているという事実が、その経験の差を示している。
少し離れた位置で馬を止めたゲルダの後ろから、ニーナがひらりと飛び降りた。
「ハイドラ様っ!!」
唖然とした様子で、こちらを見つめるハイドラの元へと駆け付ける。揺れる髪の色からアンジエーラ族だと悟った兵士たちが、彼女の前に道を作る。
緊張で手のひらに浮かんだ汗が、夜闇に冷やされ冷たい。
息を飲み込んだニーナが、遂に足を止めてハイドラの前に立った。最早足の痛みなど気にしている場合ではない。
これが、最後だ。
「ステラリリア……?!」
ゲルダの姿を視界の隅に置きながら、ハイドラは想像もしていなかった来客にただ言葉を失う。そんなハイドラの驚きに、周囲の兵士たちもが騒めいた。
傷まみれの足にボロボロのドレス姿の彼女を、噂の絶えない謎のアンジエーラであるなどと、誰が思おうか。
「なんでここに居るんだ!」
動揺と苛立ちで声を荒げたハイドラを前に、ニーナは大きく息を吸った。
冷たい空気が喉を通って肺へと流れていくのが良くわかる。
ここへ来るまでの間、散々言葉を選んでいたはずだというのに。ニーナの頭の中で組み立てたばかりの硬い言葉は、既にどこかへ消え去っていった。
「――止めましょう、ハイドラ様」
後方から聞こえる兵士たちの騒めきが、ハイドラの耳から遠ざかっていく。
「エリィと……魔女の使いと一緒に、この異常を止めましょう……!」
わざと周囲の兵士にも聞こえるように。ニーナはそう言い放った。
ただ目の前に立つ少女が、どこか笑っているようにさえ見えて。ハイドラは見えない闇の先に、一人の少年の姿を感じ取る。
ニーナの後方に見える少女の姿は、紛れもなく数日前に相まみえたミエーレの少女だ。そして再び視線を向けたニーナの足には包袋が巻かれ、赤く滲んでいる。
その手には、昨晩彼女へ手渡したあの手紙があった。
そして何かを決心したらしい妹の瞳に。ハイドラはただ、息を飲む。
疑いは消えない。しかし動き出したという話を聞いてから今までの間、ミエーレ軍がこちらへと攻め入る姿がないのもまた事実だ。
感じる生命の危機、自分へ向けられた不信感。抱いていた希望が再び眼前に迫り、ハイドラは一度瞳を閉ざす。
決断は、まだ遅くないのだろうか。
「……話を聞かせろ、ステラリリア」
ニーナの表情が晴れていく。
困惑を続ける兵士たちからの視線を背に受けながら、ハイドラは真っ直ぐにニーナの言葉へ向き合った。