再会
溢れた感情が、涙となって頬を伝った。彼女を守ろうとするように、無意識に翼があふれ出す。
いくつもの羽根が宙を舞う。
彼女の元に届いたのは、誰の声でもなかった。
「……!」
呼吸を奪われるような地鳴り。恐怖が彼女を支配し、翼がニーナの体を覆った。ただでさえ力の入らない足が、恐怖に委縮し更に彼女の動きを制限する。
「っ!」
突き上げるような揺れに、ニーナの息が止まる。
彼女の足元の地面が隆起を始めた。地盤が緩んでいく。割れた地面の隙間から泥があふれ出し、立ち上がろうと力を込めたニーナの足を絡めとる。
焦りと恐怖で涙が止まらない。言葉にならない。
「嫌……!」
止まらない揺れの中で、ニーナは頭上に現れていた巨大な黒雲の存在に気付いた。
渦巻く黒と、時折姿を現す龍のような稲妻。頭の頂点から彼女を押し付けるような圧迫感。ニーナの息が詰まる。
本能が危険を知らせていた。ここは、人が居て良い場所ではないと。
「あ――」
幻が見えたような気がした。
それは一匹の馬が、自分の元へ駆け寄ってくる姿。
ふわりと、彼女の髪が揺れた。なにかを知らせるようなその感覚に、ニーナは視線を空へと向ける。
一筋の雷柱が、彼女へ向かって落ちている。
一瞬とも言えない刹那。死ぬのだろうか、と。そんな客観的な思考が浮かぶ。
そして、目を閉じる。
聞きたかった。その声を思い出しながら。
「ニーナ!!!!」
(ああ、こんなにも鮮明に――)
浮遊感と温もりに、ニーナが閉ざしていた瞳を開く。痛みも衝撃も無かった。
視界に映る赤い髪と、舞い散る薄紫の花弁に、ニーナの瞳が揺らぐ。
「あ……」
彼女の元へと真っ直ぐに落ちていた雷柱は消え、ニーナの瞳を彩るのはこの状況にあまりにも相応しくない、淡い花吹雪。
彼女を抱きしめた体が、ニーナの冷え切った体にじんわりと熱を送り込む。
視界が歪んだ。
「ひ~! 危ねぇ!!」
これは、夢だろうか。
「ごめんなニーナ。間に合って良かった!」
それは彼女が今、最も求めていた声。
止まらない地鳴りも、揺れも、黒雲も、雷鳴も。
全てが、その声にかき消されていくようだ。
「……っ」
溢れ出す涙で、視界が霞む。目の前の温もりに、必死に手を伸ばす。
その背中に手を回し、離すまいとするように爪を立てた。
「エリィ……!!」
ゆっくりと体を離したエリィが、ニーナの髪をかき上げる。
その頬を伝う涙に困惑し、慌てて服の裾で涙を拭った。
「お、おいおい。泣くなって……! 悪かったよ、ちょっと道に迷っちまったんだ!」
為されるままに顔を拭われながら、ニーナは止まらない嗚咽と共に涙を零す。
「もう! エリィってば突然飛び降りないでよ!」
そんなエリィの後ろから、馬に跨ったゲルダが追い付いた。手綱を持ったままひらりと降りると、地面に座り込み泣き続けるニーナに目を丸くする。
「ニーナ?! 大丈夫……って、怪我まみれじゃない! 今は大したもの持ってきてないんだよ~! 痛いよね、泣かないで~!」
ニーナの元に駆け付けたゲルダが、その頭を抱きしめ撫でた。
「痛いの飛んでけ!」
そんな子供だましの言葉を、彼女は必死に唱える。本物だ、とニーナは思った。
「もう、ニーナが居たならそう言ってよ!」
「そもそもお前がもっと早く馬を走らせれば、あんな危険なことにはならなかったんだぞ!」
「なによ! 私だって馬の達人じゃないもん! だったらあの王子様にでもお願いすればよかったでしょ!」
「馬鹿、あんな奴の後ろに乗ったらニーナと会う前に俺が死ぬ!」
頭上で言い争いを続ける二人の声を聞きながら、ニーナは少しずつ荒れた感情を整えていく。涙を抑えたニーナが顔を上げると、その様子に気付いたゲルダが彼女から離れた。
「大丈夫だよニーナ。全部の傷の手当ては難しいけど、その足の怪我だけでもどうにかしてあげるからね!」
ゲルダが馬から下げた荷物を探り、塗り薬や包袋を手にし戻ってくる。その間もエリィは周囲の様子を確認しながら、ニーナを庇う様に立っていた。
ゲルダが再びニーナの傍にしゃがみこむと、ガーゼで足の血を拭う。痛みを我慢しながらも、ニーナは唇を噛み締め、エリィの姿を見上げた。
「エリィ、ゲルダ。……ハイドラ様は、もう」
懇願するように、縋るように。嗚咽交じりの声を絞り出す。
「わかってる」
エリィが力強く頷いた。
手際よくニーナの傷の手当てを続けるゲルダの隣にしゃがみ込むと、エリィは真っ直ぐにニーナの顔を見る。
「お前が居てくれて助かったぜ。……ニーナ。手伝ってほしいんだ」
「え……?」
ニーナが困惑のままに眉を寄せる。
見返す先の瞳から、強い決意を感じて息を飲んだ。
「――俺は今から、この異常現象を止める。でもそのためには、俺の力だけじゃ駄目なんだ」
エリィがゲルダヘと視線を向けると、話の全てを理解しているらしいゲルダが彼へと答えるように頷いた。
「あんまり無理して欲しくはねーんだけど……時間が無いんだ、ニーナ。ゲルダと一緒にアルケイデア軍のところへ、ハイドラのところに行ってくれ」
「ハイドラ様の……?」
ゲルダが簡易ながらも手当てを終えると、駆け足で待機させていた馬に飛び乗った。ニーナの傍まで近寄り、馬に乗せた荷物の中からランプを取り出し明かりを灯す。
「まだ痛いと思うけど、すぐに痛みは引いていくと思うから我慢してね」
「……ええ、ありがとうゲルダ」
包帯の巻かれたふくらはぎに触れる。痛みこそあるが、それ以上の安心感がそこにあった。
指先を包袋から離し、視線をゲルダへと向ける。
ランプに照らされた先に見えたのは、その馬のたてがみにしがみ付いた小さな子鼠の姿だ。
「ヨルがお前の匂いを辿ってくれたんだぜ。……立てるか?」
再びニーナと視線を合わせたエリィが、彼女の手を取る。ニーナはその手を握りしめ、しっかりと頷いて立ち上がった。足元の沼が、いつの間にか消えている。
痛い。苦しい。しかしそれ以上に手のひらに感じる温かさが、恐怖や不安の全てを奪い去る。
ニーナは顔を拭い、一度息をついた。
彼に聞きたいことは山のようにある。この手紙の意図は? ミエーレ軍が居る理由は? 現在の状況はわかっているのだろうか。
しかしそんな問いかけよりも先に、ニーナには優先すべき事象があった。
「私は、何をすればいい?」
異常現象を止めると、彼は言った。
ならば、彼に従うのが最善のはずだ。その手段や理由を聞く暇はない。
必要もない。
顔を上げたニーナに、エリィが口角を上げた。
「今はとにかく、ゲルダと一緒に行ってくれ。俺はここから別行動だ」
馬から飛び降りたヨルが、ひらりとエリィの肩の上に登った。ヨルの体を手のひらで軽く撫で、エリィが両手を腰に当てる。
伸ばされたゲルダの手を取り、ニーナは足の痛みをこらえてどうにか馬へ跨った。
「ゲルダ、エリィは」
「大丈夫! 全部移動しながら説明するよ!」
ゲルダと視線を合わせ、エリィが頷く。
「捕まって!」
ニーナが反射的にその腰へ手を回すと、ゲルダは手綱を動かし馬を走らせた。下げたランプが揺れる。
「エリィ!」
振り返ったニーナが、エリィの笑みに息を飲む。
そしてそれ以上、なにも言わなかった。
小さくなっていく少年の姿に目を細め、ニーナは顔を前へと向ける。
「……説明を頂戴、ゲルダ。私に出来ることなら、なんでもするわ!」
ゲルダの腰に回した腕に力を込め、声を張る。ゲルダが笑った。
ランプの明かりが、見る見るうちに遠くへと消えていく。
エリィはその様子を最後まで見届けることなく、彼女らが消えた方角とは異なる方へと駆け出した。
目指すは頭上を渦巻く雷雲の中心。
異常現象の中枢だ。
空を見上げたヨルが、目を細めて声を張る。
「予想よりも随分早い上に大きい。フランソワ王子たちは大丈夫だろうけど、あの子が間に合うかどうかは、もうわからないよ」
「間に合わせるために俺はここで別れたんだろうが!」
「エリィが馬さえ乗れれば、もっと楽だったんだろうけどね」
「うるせー!! 俺たちも急ぐぞ!」
エリィが足を速め、ヨルが顔を塞いだ。