ニーナの選択
扉を叩く。いつもならばすぐに返事が返ってくると言うのに、この日ダリアラに答える声は無かった。
ブランケットを肩からかけたダリアラが、叩いた扉を開ける。
部屋には誰も居ない。バルコニーの窓は開かれたままで、夜風にレースのカーテンが揺れていた。
「…………」
後ろ手に扉を閉めたダリアラが、バルコニーの傍まで歩いた。もうすぐ夏だと言うのに、どこか夜風が肌寒い。
ブランケットを両手で抑えた彼の様子は、宛ら闘病中のか弱き青年だ。
人の気配が無くなってから、既に数刻が過ぎているようだ。
薄暗い部屋の中で、ダリアラが一人窓の外を見る。
「そうか、お前も――」
姿の見えない妹に声をかけ、ダリアラは口を閉ざした。
* * *
考えるよりも先に体が動くというのはまさにこういうことなのだろうと、荒れた呼吸もそのままにニーナは考えていた。
一人でただ待つことに限界を迎えた彼女は、一人ダリアラの元へと向かっていた。その道中、戦況を聞いたらしい使用人たちの立ち話がニーナの耳に届いた。ミエーレ軍は既に国境付近で待機していて、双方の軍は膠着状態に陥っていると。
自体は想像以上に緊迫しているのだ。そう分かった時、ニーナは元来た道を駆け戻っていた。
人のいないことを確認しながら離れへ戻り、自室の窓を開け放ち、バルコニーの手すりを飛び越えた。
剣と、暇さえあれば視線を奪われていた一枚の手紙を掴み取って。
このまま、ただ結果を待つことなど出来ない。そんな衝動が、彼女の体を動かしていた。
ハイドラと再会し、時間をもらえるよう説得する。
叶うことならば馬を借り、貰った時間の限りでエリィを探し出そう。そしてこの手に握りしめた手紙の真意と彼の策を聞き、自分に出来る最大の手伝いをするために。
随分と決断が遅くなってしまったと、ニーナは心の中でエリィへと謝罪する。そして同時に、アルケイデアで共にハイドラを待つはずだったダリアラへ向けても、謝罪の言葉を繰り返した。
何も言わずに飛び出してしまった。再び顔を合わせれば、この決意が再び揺らいでしまいそうだったからだ。
全てが終わり、アルケイデアで再び彼と相見えた際に、しっかりと謝罪をしよう。黙って城を出たこと。彼の言いつけを守れなかったことを。
バルコニーから身を投げ出し、翼を広げ、飛ぶ。新月のこの日、空を飛ぶ彼女の姿を目にする者はそう居ない。それでも国境に近づくと、ニーナは飛行を止めて地面を走った。
走り辛いヒールは途中で脱ぎ捨てた。足や枝に絡みつくドレスの裾は剣で切り裂いた。
城を出るのはこれが二度目だ。緊張と焦燥感は、初めて国境を越えたあの日と変わらない。それでも彼女の感情は、彼女自身でも理解出来ない程に、ニーナの足を動かしていた。
なにが出来るのかわからない。
それでも行こうと、そう思った。
彼を信じると、そう決めたのだから。
(エリィが、私を信じてくれたように……!)
素足に石や枝の先がすれ、いくつもの傷が出来ていた。それでも、ニーナは足を止めない。
幸い、城から国境までの距離はミエーレと比べてそう遠くはない。ここまで空を移動すれば、すぐにハイドラたちアルケイデア軍に追いつけるだろう。
そのために、ニーナは走り続けた。
「お願い、間に合って……!」
握りしめた手紙の香りが、少しずつ薄れていた。
どれ程走ったことだろうか。自分でも信じられない程のスピードで空を駆けた彼女は、既に国境付近にまで到達していた。
二つの軍は、今まさに極限の緊張感の中にあることだろう。どちらかが動きを見せれば、すぐにでも全面衝突が始まってもおかしくはない距離にあるはずだ。
焦ったハイドラが、今すぐにでも砲弾を撃ち込むかもしれない。前衛部隊を動かすかもしれない。
「どこに居るの、ハイドラ様……!」
まさかもう戦争は始まってしまったのだろうか。そんな不安に、ニーナの足が一層早まる。
聞こえるのは自身の足音と呼吸だけだ。まるで、嵐の前の静けさのように。
「っあ!」
限界を迎えた足がもつれ、ニーナはその場に倒れこんだ。
擦れた手のひらから血が滲む。痛みで視界が歪んだ。
「う……」
両手をつき、体を持ち上げる。震える足に鞭を打つ。
こんなところで、倒れているわけにはいかないのだ。
「どこ、ハイドラ様……っ!」
どうしようもない痛みにニーナが息を飲んだ。ふくらはぎが大きく裂けている。転んだ拍子に思い切り枝で切り裂いたのだろう。
もうすぐ森を抜けられるというのに、とニーナが唇を噛む。
そんな彼女の耳に、いくつかの足音が届いた。
「!」
ほんの一瞬だけ、その先を走る兵の姿が見えた。あちらからニーナの姿を捉えるには、周囲の木々が邪魔すぎる。
「――ミエーレ軍が動き出したぞ!」
戦慄した。
足の先から、さあっと体が冷えていくのがわかる。
「ハイドラ殿下は?」
「殿下の元にも報告役が向かった! 恐らくはもう動き出されていることだろう、俺たちも後を追うぞ!」
合流したらしい二人の兵士が、その場から駆け足で離れて行く。
「待って――!」
ニーナの声を遮るように、けたたましい程の雷鳴が彼女の耳を刺した。体の芯から震える様なその音に、思わずニーナは両手で耳を塞ぐ。
その間にも、兵士たちは彼女の元から離れて行く。
「待って、お願い……!」
擦れた声が、彼らの耳に届くことはない。衝動のままに動いていた体が止まり、ニーナの思考が徐々に正常に動き始める。
そもそも、なぜミエーレ軍が居る? 待ち構えていたのか、アルケイデアの軍を。
この日に進軍することを知っていて?
「どう、して……?」
そんな言葉が、ニーナの意識を飲み込んだ。
握りしめた紙が、ニーナの動揺に同調するように揺れた。
まさか、この手紙は罠だったというのか。そんな疑問を一瞬でも抱いた自分への嫌悪感で、ニーナは吐き気を覚えた。そんなはずはない。そんなはずは。
再び駆け出そうとした彼女を引き留めるように、地面が大きく揺れた。
「っ、これは……!」
木々が騒ぐ。青々と茂った葉が、揺れに耐え切れず地面に落ちていく。
一度、経験していた。しかしだからこそ、前回のそれとは規模が大きく異なっていると分かる。
それでもニーナは何かに縋るように足を進め、やがて森を抜けた。足の傷がじくじくと痛む。一歩踏み出す度に、傷口から鮮血が流れていく。
この先に、雨風に打たれ痛み切った木製の柵がある。それは意味を為さないようで、その見た目以上の役割を果たす巨大な壁だ。
国境として五十年前にアルケイデアが立てた、馬であれば軽々と越えられるような小さな壁。
視界いっぱいに飛び込んだ荒野に、アルケイデア軍の姿は見えない。
「そんな……」
始まる。始まってしまう。
途方もない感情に、ニーナが膝をつく。
どうして。どうして。
握りしめた手紙を、額へと押し付ける。
もう、手は届かないのか。
そんなはずはない。なにか策があるに決まっている。
あの日と同じ笑顔で、こちらへ手を差し伸べてくれるに決まっている。
「どこに居るの……」
待たせてごめんと、笑ってくれる。
「エリィ――――……!!」
絶望にも似た感情の中で、ただ、彼の名前を叫ぶ。