始まり
「報告します。依然、あちらに動きはありません」
日が沈み、辺りは闇に包まれていく。
「引き続き警戒に当たれ」
短く指示をしたシンハーへ、緊張の面持ちのままに報告役が頷いた。走り去ったその姿を見届けたシンハーは、すぐ隣で白馬に跨り、首を回す主人へと視線を投げかける。
「計画通りだ。あちらさんの軍も、今は暗闇に身を潜めてる。まだ国境は超えてねぇ」
いつもと変わらぬ笑みを浮かべ、フランソワが白馬の首を撫でた。
「そう。そうだろうね。うんうん」
満足げに頷いているフランソワに、シンハーが半ば呆れた顔を見せる。
「まさか本当に、あの子供の言った通りになるとはな」
「おや、誰かな? 僕の大切な友を疑う不届き者は」
「お前だろ!」
まるで愛犬と戯れるかのようにくつくつと笑い声を漏らすフランソワは、この状況にそぐわない態度でシンハーとの会話を続ける。
荒野の中、数百の兵士が二列になって横に並んでいた。馬から下げられた明かりこそ消えているが、報告役の持つランプはわざとらしい程に暗闇で爛々と輝いている。
「百歩譲ってアルケイデアの王子に手紙が届いたとして、まさか指示に従うなんてね。流石は大魔女ジェシカの使いと言ったところか。一体、どんな魔法をかけていたのかな?」
フランソワは数日前の少年との会話を思い出すように呟いて、白馬のたてがみを指先で弄ぶ。呆れ顔のままに、シンハーがため息交じりに答えた。
「本当に、上手くいくんだろうな?」
「そうだね、正直分からない。まあ、もし失敗したら……。シンハー、騎士団長という職の剥奪か、本気の腹踊りかを選ばせてあげるよ」
「どうせ腹踊りを選んだって、不敬罪で職権剥奪どころか死刑だろうが」
「良くわかっているじゃないか!」
呆れて言葉も出ないと言った様子のシンハーに、フランソワは声を漏らして笑う。
「なに、大丈夫さ。もし君がとんでもない事件を起こして全てを失っても、僕がキチンと世話をしてあげる。一日二食に散歩の時間をつけよう。君は、僕の親友だからね」
「そもそもなんで責任が全部、俺に圧し掛かってんだよ……」
二人の他愛もない会話を聞きながら、近くで待機する騎士が生唾を飲んだ。この状況下で能天気な話題を続けていられる彼らの肝の座り具合に、感心すら覚えているのだろう。
「それに、僕がなんの勝機も無く兄上に不利益なことをするはずが無いだろう。今はあの少年に従うことが最善だと、僕が判断した。君が動く理由はそれで十分だ」
あまりにも自分勝手な物言いだが、シンハーにはそんな彼の言葉が何よりも信頼出来る。
彼が兄、現ミエーレ国王絶対主義者であることは、彼に仕える全ての人間が周知していることだ。
「全ては兄上のため。それが民のためにもなるのだからね」
雑草を踏みしめる音がして、二人の会話が途切れる。訪れた夜の静寂の中でフランソワが口角を上げ、鋭い牙を覗かせた。
* * *
同刻、アルケイデア軍本陣。
「ミエーレ軍に動きなし、か」
普段の姿とは打って変わり正装姿のハイドラが、下ろした前髪を邪魔そうにかき上げて答えた。
周囲の空気は緊張感に満ち、加えて不安や不信感さえも募らせているのがハイドラにもわかった。彼が期日をずらした理由を知らない守護団員たちは、この状況に困惑と不満、そしてハイドラに対する多大な不信感を抱いている。
もっと早くに動き出せば、ミエーレがこちらの思惑に気付くことはなかったのではないか。こうしてミエーレ軍が待ち構えていることなどなかったのではないかと。
結局、彼を支持するアンジエーラの長老たちの思惑が働き、ハイドラの当初の予定よりも随分と大人数での進軍になってしまっていた。
それでも彼の意思を知らず、ただ「進軍」するという事実を受け取った上位兵士たちの中には、彼やアンジエーラの長老たちの言葉に従わず進軍を拒否する者もいた。それは全体のほんの二割程度だったが、ハイドラは彼らを強制的に引き連れるようなことはしなかった。
とはいえ、拒否した者の位が守護団内でも高いからこそ成し得たことであり、事実この進軍に参加せざるを得ない立場の兵士たちの中には、この進軍に否定的な感情を抱く兵士は多々存在していることだろう。
不平不満、現場指揮者への不信感。現場の空気は、良好とは言い難い。
「…………」
今朝はまだミエーレに動きは無かった。確実に、こちらの行動を知っている動きだ。
ハイドラの表情は渋かった。自分の決断は間違っていたのかと、手綱を掴む手に力が籠る。
あの手紙はミエーレ国の策略だったのだろうか。あの少年は、国のために動いたのか。
(互いに動きを止めてから、数刻が過ぎてる。……そろそろ、こちらも覚悟を決める時だろうな)
少しでも信じた自分が、愚かだったのだろうか。そんな彼の心に、人々は気付かない。
手紙の存在を知るのは彼とニーナだけだ。そしてそのニーナは今、アルケイデアの城に居る。
今の彼に、自分の決断の正誤を尋ねられる相手は居ない。
彼が進軍を命じれば、すぐさま前衛部隊が動き出す。いくつか砲弾も用意していた。先制して砲弾を放ち、相手の動きをけん制することも出来る。
しかしそれをすれば、もう後には戻れない。
(……なにを今更)
ハイドラが舌打ちをした。
最初から予定していたことだ。ほんの少しの希望が、途絶えただけのこと。最初の予定を、予定通りこなせば良い話なのだ。
ニーナはこの未来を「戦争」と表現したが、ハイドラはよもやそこまでの大事にするつもりはなかった。目的はミエーレに勝つことではない。無論、屈服させることでもない。
自身の力を。アンジエーラの武力を、国民に示すことさえできれば、それでいいのだから。
正面衝突など、求めてはいなかった。
少しずつ、自分の思い描いていた未来と異なる道を歩む事実に、ハイドラは僅かに頭痛を覚えた。
「報告します!」
ハイドラの前に駆け付けた一人の兵が、既に彼の元に来ていた伝達役を押しのけ膝をつく。ただならぬ空気にハイドラが眉を寄せた。
彼の許可を待たず、新しく駆け付けた伝達役が顔を上げる。
「ミエーレ軍、動き始めました!」
「!」
騒めいた。最早、猶予はない。
「――わかった。こちらも動くぞ」
ハイドラが、次々と周囲の兵へと指示を飛ばす。
覚悟を決めろ。
馬の上で背を伸ばし、ハイドラが息を吸い上げた。
「これより、我が軍はミエーレに向け、進軍を始め――」
彼の言葉を遮ったのは、彼の後ろに並ぶ数人の兵士たちの騒めきだった。
「……どうした?」
眉を寄せたハイドラが振り返ると、兵士の一人が謝罪もなしに声を荒げる。
「上を……! 雲をご覧ください、ハイドラ殿下!!」
周囲の兵士がつられるように空を見上げる。ハイドラもまた、その言葉に従い天を仰ぐ。
「あれは……」
一切なかった風が、兵士たちの髪を巻き上げた。
木々の葉がもぎ取られ、空へと吸い上げられていく。
晴れていたはずの空に。分厚い雲がかかっている。それは竜巻のように渦を巻き、吸い上げられた葉を飲み込んでいく。
耳を刺すような雷鳴が轟き、周囲を明るく照らしては消える。
まるで空に、ぽっかりと一つの穴があいたような。キャンパスに描かれたような現実味の無い光景に、ハイドラの唇が薄く開く。
体の芯から震えるような危機感に、背筋が凍った。
ニーナと再会したあの日、ミエーレで感じたものの比ではない。
生命の危機さえ感じるような、この感覚は。
「異常、現象……!!」
そんなハイドラの声に答えるように、彼らの立つ地面が音を立てて揺れた。