アルケイデアの兄弟
廊下を歩くハイドラを目にし、使用人がその場を離れて行く。既に慣れた光景だ。特に最近では二人の王子を巡る後継者争いが始まり、使用人たちの彼に対する態度の悪さは顕著になっていた。
目に付く問題を抱えた第二王子よりも、人前に出ずともその性格に問題を持たない第一王子の方が、多くの使用人たちからすればまだ希望が持てるということだろう。
当の本人たちはお互いに席を譲り合っている程だと言うのに、とハイドラは舌打ちを漏らした。
既に明日の出陣については城中に通達されている。
例え自分に忠義心が無くとも、王子の命には従わなければならないとは、なんとも可哀そうなことだ。ニーナの居る離れからの帰り道、ハイドラは自分の思惑通りに動いているはずの状況を感じ取り、更に不快そうに眉間に皺を寄せていた。
それにしても、この日は特に人が少ないような気がする。作戦前夜なのだから、もう少し慌ただしく動く使用人たちが居てもおかしくはないはずなのだが。
「……なんだ?」
周囲へ視線を向けたハイドラが、階段に足を掛けた。
「――私が、人払いをした」
「!」
手すりに乗せた手のひらが震えた。顔を上げ、階段の踊り場に立つ声の主を見る。
上等な部屋着に身を包み、長い髪を耳にかけて。彼はそこに立っていた。
「ダリアラにーちゃん……」
驚きのままにその名を口にすると、彼を見下ろしながらダリアラがふっと口角を上げる。
数日ぶりの兄との再会に、ハイドラは驚きと困惑、そして同時に、不思議な畏怖を感じていた。
「なんだか久しいな、ハイドラ。わざと私を避けていたのか?」
「……ステラリリラに、用でもあったのかよ」
ハイドラは階段にかけた足をおろし、両手を握りしめる。ここはダリアラの部屋からそう近い場所ではない。かといって、ハイドラの部屋の近くでもない。とすれば、彼の目的はニーナの居る離れだろうか。
探るようなハイドラの視線を受けたダリアラは、ふっと笑みを浮かべ、呆れたように首を振った。
「質問を質問で返しているようでは、王としての器が問われるぞ」
ダリアラが肩を竦め、一歩、また一歩と階段を下る。
「私は、お前と話をしたかっただけだよ、ハイドラ。明日はいよいよミエーレへ向かうのだろう? お前の決断に敬意を示し、激励しようと思っただけだ」
「なら、俺の部屋に来りゃいい話だろ。待ち伏せたァ趣味が悪いぜ」
「部屋を訪れたところで、お前は扉を開けてはくれないだろう?」
優し気な声が、すぐ傍に迫った。ハイドラの立つ床に足を付け、ダリアラは弟から数歩離れた場所で立ち止まる。首を動かし、ハイドラは真っ直ぐにダリアラと視線を合わせた。
「なあにーちゃん。……アンジエーラってのは、そんなに凄いことなのか?」
周囲に人が居ないことを再度確認して、ハイドラは口を開く。最も、この場に誰か他の人間が居たところで、彼は遠慮などしなかっただろうが。
「どんだけその人間が王に相応しくても、アンジエーラじゃねーってだけで王には成れねぇのか?」
静まり返った廊下に、彼の声が響く。感傷的なハイドラの声に、ダリアラは表情を変えない。
「それが、この国の決まりだ」
ダリアラの回答に、ハイドラが歯を噛み締めた。
「本当にそれで良いのかよ! 俺なんかよりにーちゃんの方が、よっぽど立派な王サマに成れるのに!」
廊下を照らす照明が、彼の声に答えるように揺れていた。
「なのに! ……あんたが、アンジエーラじゃないってだけで!」
「ハイドラ」
「俺はやっぱり認められねェ! おんなじ親父の息子なのに、あんたばっかり嘘ついて、傷ついて……っ!」
「――ハイドラ」
二度、名を呼ばれた。
目の前に迫った長い髪が舞う。彼を包み込んだ温もりが、ハイドラの言葉を奪い去る。
「病弱体質であるという嘘偽りは、私が自分の意思で始めたことだ。人々の前に立つ回数を減らすために。私が、アンジエーラではないと知られないためにね」
背中と後頭部に感じる兄の両手が、やけに冷たいのはなぜだろう。
「私は何もしていない。傷なんてついていないさ。……私の我儘で、お前に様々なことを押し付けてしまっていることは百も承知だ。こんな兄を、どうか許して欲しい」
納得がいかないとばかりに、だらりと下げた両手を握りしめる。
「……ウゼェ。嘘ばっかりで、楽しいかよ……」
ぐっとその肩を押し返し、ハイドラは数歩下がる。ダリアラからの返事はない。
顔を上げた先に、変わらない兄の微笑みがあった。
なぜ、そんな顔をしていられる? なぜ、こんなにも違う?
自分と、この男とで。なにが。
ハイドラの頭に、カッと血が上った。
「だから! アンジエーラは嫌いなんだよ! あんたのこともだクソ野郎が!!」
黒く染めた髪を握りしめ、引きちぎるかのように掻きむしる。
そしてハイドラは盛大な悪態を吐き、低いヒールの靴を高々と鳴らしながら階段を駆け上っていった。
残されたダリアラが、やれやれと言った様子で首を振る。
「ダリアラ、様……?」
そんな彼の背後から、遠慮気味に一人の侍女が声をかける。
あまり見ない顔だ。新人だろうと振り返ったダリアラは思った。恐らく彼の人払いを耳にしていないのか、先ほどのハイドラの大声に驚いてここまで足を運んできたのだろう。
その様子を見るに、彼の言葉の詳細までは聞こえていないようだが。
「すまない。久々の兄弟の会話だったからな。ハイドラも、少し感傷的になってしまっていたのだろう。……フ、可愛いものだと受け入れてやって欲しい」
瞳を伏せたダリアラの姿は、まさに絵画に納められた天使のようだ。侍女はそっと息を飲む。
「私も自室へ帰らせてもらう。道をあけて貰えるか?」
「あ……っ! 申し訳ございません、大変失礼を致しました……!」
慌てて一歩下がり、侍女がスカートを軽く持ち上げ首を垂れる。その様子にダリアラが再び口角を上げ、ゆったりと廊下を進んで行った。
やがて顔を上げた侍女の頬が、ほんのりと赤く染まっている。
離れて行くその背中が、彼女へ何かを告げることはない。