『進花』の力
「――そこまでじゃ」
凛と通る声に、ぴたりと蔦がその動きを止める。
エリィが薄く瞼を開くと、見る見るうちに鼻先まで迫っていた蔦は朽ち果て、床へと崩れていった。辺りをうねっていた蔦も皆同じように動きを止め、その場から砂のように崩れ落ちていく。
脅威が去ったことを確認したエリィはその両手をおろし、部屋の中央の椅子に座る、この状況を生み出したであろう張本人を睨みつけた。
「戻ったかえ、我が使い――。我が愛息子エリィ」
巨大な壷や窯、壁に並ぶ魔導書やお面、床に散乱する細かな文字がびっしりと書き記された紙切れ。花や干からびたカエルなどが入ったガラス瓶が並ぶ長テーブル。
その前に置かれた背もたれ付きの椅子に、一人の女性が腰かけていた。
エリィの姿を確認するためにほんの少し振り返ったその横顔は、彼女の類稀なる見目の良さを十分に見せ付けてくる。つややかな銀の髪と細見の体。タイトなドレスが更にその妖艶さを際立たせていた。
魔女。
彼女を目にした者の脳内には、そんな言葉が浮かぶだろう。
しかし女性はその美しさを微塵も感じさせないような大きな動きで、先ほどまで蔦をつかんでいた腕を天井へと高く伸ばして伸びをする。椅子の背もたれに体重を預け、髪を揺らしながらエリィの顔を上下逆さまに見ていた。
「戻ったかえじゃねーよ! 相変わらず意味の分かんねーことしやがって!」
深い朱の瞳が、苛立ちを隠さないエリィの姿を準える。
「意味が解らない、などということはないぞ。もしこの魔法が成功すれば、この蔦は妾の腕のように自在に動き、妾の良き助手となってくれるはずだったのじゃ」
細く白くしなやかな腕を妖艶に動かしながら、彼女は唇を尖らせる。
「先日の作戦の際に使ってみた蔦の『応用ばーじょん』なんじゃぞ。この屋敷の警備はもちろんのこと、料理だって作ってくれたやも知れぬのじゃぞ~!」
不満そうな様子の主人へと、エリィは心からのため息をつく。
「あんた、あの作戦を『実験台』にしてたのか……」
悪びれた様子もなく銀の髪を揺らす魔女から、視線を足元の朽ち果てた残骸へと向けた。
「それで? 魔法は失敗して凶悪な害悪植物の完成ってか。流石は大魔女ジェシカ、やることがちげーよな」
魔女は――ジェシカは、そんなエリィの言葉にむっと頬を膨らませた。
「そぉんな言い方ないじゃろう。お前の負担を少しでも減らしてやろうという妾の優しい親心なんじゃぞ……って、そうじゃ、妾をばばあなどと呼ぶのはやめておくれと何度も言っておるというに。妾は寂しいぞい」
エリィは足元に散らばる蔦の残骸を忌々しそうに踏みつけながら、彼女の元へと進んでいく。
不満そうに彼を見上げるジェシカの顔の上へ、先ほどの部屋で回収したドライフラワーを振りかけた。
「わっ、なんじゃなんじゃ!」
「忘れモンだよ、オカアサマ」
長い睫毛を瞬かせて、ジェシカは目の前に降り注いだドライフラワーを手に取る。その正体に気付くと、はっと目を見開いて体を起こした。
「これじゃ~! これが足りなかったのじゃな。とっくに混ぜたものと思っていたわ。よし、気を取り直してもう一度……」
「やめてくれ、今度こそ死人が出る!」
早速テーブルの上に残された器具に手を出そうとしたジェシカを、エリィが力づくに止める。
再度不満そうに見上げてくる母親代わりの魔女へ、エリィは今度こそ一番の目的だったものを差し出した。
「ほら、頼まれてた薬草。こんだけあれば足りんだろ?」
バスケットを受け取り、ジェシカは中を覗く。
「おお、そうじゃったそうじゃった。悪かったのう、突然のことで。なにせ急ぎと言うのでな」
「ゲルダんとこか?」
ジェシカが銀の髪を揺らして頷いた。
「どうもここ数日の間、患者の数が増えているのだそうじゃ。数が足りぬと言うから、さっさと作って届けねばならぬ」
興味の無さ気な返事を返したエリィの後ろから、第三者の声が聞こえた。
「僕も何か……、やる?」
ジェシカが今度こそ体ごと振り返る。そこに居たのは、桃色の髪を持った青年だ。ジェシカの表情がぱっと明るくなる。
「おお、ヨル。流石は我が使い魔よ、気が利くのう。それならばこの薬草をすり潰してはくれんかえ?」
「わかった……」
垂れた目の下には濃い隈がしっかりと浮かび上がり、長い前髪は彼の左目を完全に覆い隠してしまっている。随分と悪い顔色は、まるで土の色だ。
「お前、相変わらず人型になると病人みたいな顔してるよな」
機嫌が悪いようにも、なにかに困っているようにも見えるわけではない。が、むしろ何も考えていないそのぽかんとした表情が、更に彼の生気を感じさせない。
しかしヨルは当たり前だとでも言いたげに、ほんの少しだけ肩をすくめて答えた。
「まあ、正確には、僕死んでるし……」
ヨルは特に気に障った様子もなくジェシカへと近づきすり鉢を受け取る。彼は不思議な存在だった。記憶の無い頃から共に居るエリィでさえ、ヨルという存在の正体は掴めない。
「相変わらず謎の生物だよなあ、お前。てかよ、俺と一緒にいるときも、その恰好の方がいざって時動きやすくねえ?」
顎に手を当て覗き込むエリィに、ヨルはわざとらしくため息を吐く。
「一人じゃ人の姿は難しいって、何度も言ってると思うんだけど……。前回の作戦のときも? エリィが時間かけるから、危険から君を守るために僕も無理して人型になったし? なによりエリィがもっと強い魔法使いになってさえくれれば……、僕はいくらでも、その力を借りて人の姿になるんだけどなあ~?」
「うっ、ぐぐぐ……」
ヨルはジェシカの魔力を借りることで、こうして屋敷の内部にいる間はいつまでも疲労することなく人型を保てているのだという。
つまりエリィがジェシカと同じだけの魔力を提供出来さえすれば、ヨルが言ったようにいつでも彼の傍で人型を保つことが可能なのだ。
とはいえ負担が大きいことに変わりはないのか、ヨルの口調は鼠姿の時のそれよりも幾分か気だるげに聞こえる。
「まあ……期待は、してないけど。エリィは、魔法使いじゃなくて……、『魔女の使い』だから」
痛いところを突かれてしまったエリィは、ぐっと言葉を詰まらせた。
「う、うるせーな! 俺はすぐに魔法使いなんかじゃねー、ジェシカも超える大魔王になって、ジェシカを俺の『使い』にしてやるんだ! わかったかこのゾンビ野郎!」
「へえぇぇぇぇぇ。……じゃあ、楽しみにしてる。『お花大魔王』のエリィ」
ふふ、と笑い声を漏らしたヨルのシャツを、不愉快そうなエリィがむんず掴んだ。
「あぅ」
「いい態度じゃねーか。良いぜ、教えてやるよ……。花だろーがなんだろーが、魔王に逆らったら痛い目を見るってなぁ!」
エリィがその手に力を込めると、ヨルは慌てた様子でその手を握る。しかしヨルの抵抗も空しく、エリィの手からはらはらと幾つもの花弁が零れ始めた。
「ジェシカぁ、エリィがいじめる……!」
ヨルの手がその形を崩し、持っていたすり鉢が音を立てて床に落ちる。エリィよりも二十センチ程は背の高いヨルの体が、みるみるうちに縮まっていく。
溢れた薄紫の花弁がエリィの足元に散乱すると、鼠姿に戻ったヨルがその花弁の上にぽとりと落ちた。
「キュウ……」
体内の魔力を奪われ目を回したヨルが花弁と戯れる。そんな子鼠の様子を、エリィは魔王よろしく鼻を鳴らして見下ろした。
「『進花』の力……。随分とうまく扱えるようになったのう」
舞い上がった花弁を一枚手に取ったジェシカが、その様子を見て呟いた。長い爪の間から顔を覗かせるその薄紫は、エリィがこの十七年間で唯一手に入れた「魔法」の形だ。
しかしエリィは不満そうにジェシカへと視線を向けると、両手を腰に当ててその不満をぶつけていく。
「こんなの魔法じゃねー! なんの訳にもたたねーし、なによりかっこよくねーじゃんかよ! 俺はもっとこう、ビカビカしてギラギラして、最強にカッコいい魔法が使いたいんだ!」
「そう言われてものう……」
ジェシカが指先に挟んだ一片の花弁を、紅の乗った唇に当てた。
「『魔力を花へと変える力』……。妾には真似出来ぬものじゃ、もっと胸を張れば良いに」
「こんな魔法、真似なんてする必要ねーからだろ」
エリィは生まれて間もない頃、この魔女ジェシカに拾われた。彼にとってジェシカは母親であり、主人であり、魔法の師だ。
彼女の教えを元にいくつもの魔法に挑戦したが、そんな生活の中で彼が身に着けた魔法は、実用性を全く感じられない『進花』と名付けられたこの力だけであった。
「素直に言葉を受け取れるような子に、育てたつもりだったのじゃがのう……」
憤慨するエリィの様子に口角を上げ、ジェシカがその花弁を彼の頭上に乗せる。そしてその足元の子鼠とすり鉢を拾い上げると、すり鉢に子鼠を入れ、エリィへと差し出した。
反射的にそのすり鉢を受け取ったエリィが、不思議そうにジェシカを見上げる。
「折角手伝いを名乗り出てくれたというに。我が使い魔を使い物にならなくした責任は、きっちり取ってもらうぞ」
丸くした瞳を何度も瞬かせるエリィに、ジェシカは先ほど彼から受け取った薬草を指差して言った。
「は、はぁ~~~~?!」
ようやくその言葉を理解したエリィが心からの不満を吐き出す。しかし彼がどうこうと言うよりも先に、ジェシカはその部屋から出て行ってしまった。
再び半開きのまま放置された部屋の扉をしばらく見つめていたエリィが、やがて落胆にも似たため息をすり鉢の中へと加える。
俯いたエリィの頭の上から、ジェシカが乗せた花弁が落ちる。それははらはらと静かに、すり鉢の上で寝息を立てる子鼠の腹の上に腰を下ろした。
「くそ……。今すぐ起きろってのっ」
寝息と共に上下する小さな腹と花弁を、エリィはすりこぎ棒の先で優しくこね回した。