形式上の兄
数日の間止んでは降りを続けていた雨が、すっかりと止んでいた。雨雲は東の空へと消え、快晴となった空が心地良い。
バルコニーから見える街の中心には巨大な広場があり、近くを流れる川から引いた水で作られた水路がその広場を囲んでいる。石造りの小さな橋がいくつも架けられているが、幼い少年少女達はその橋を渡ることなく、水場を飛び越えることに躍起になっていた。そんな子供達の様子を微笑ましそうに見守る老婆や、その傍に寄り沿う若い男女。中には腹に子を宿した女性も居る。
五十年前、アンジエーラ族と共に生きることを選んだ、アルケイデアの国民たち。
そんな人々の様子を見つめながら、ドレスを身にまとったニーナがバルコニーの手摺に体重を預けていた。
この離れの塔からでなければ、見ることの出来ない景色だ。彼女が『ステラリリア』として育てられた、この牢獄でなければ、見られない景色。
すっかり花を落とした街路樹が青々とその身に葉を茂らせ、暖かな南風に揺れている。
「結局、異常現象は起こらず仕舞いか」
びくりと体を震わせたニーナが振り返る。マスクを顎の下へとずらしたハイドラが、ニーナの顔を見ることなくその隣へと足を進ませた。
「…………」
言葉を返すことが出来ず、ニーナはただ俯く。そんな妹の姿にハイドラはちらりと視線を向けると、ポケットに入れていた両手を持ち上げ、バルコニーの手すりに肘をついた。
二人の間に、会話は生まれない。
朗らかな風が彼の黒髪を揺らし、ハイドラが鬱陶しそうに眉間に皺を寄せる。
「……明日の夕方。俺はこの国の守護団を連れて、ミエーレに向かう」
ニーナの鼓動が跳ねた。
当初耳に入れていた予定よりも、随分遅い進行具合ではある。
それでも、心のどこかで覚悟していた未来が、遂に眼前に迫ってしまった。いつ訪れるのだろうという不安と、このまま無かったことになればいいのにというほんの少しの希望が、彼女の中から一瞬にして消え失せていく。
ちらりと彼女へ視線を向けたハイドラが、返事は期待できないと悟りため息を吐く。その視線をバルコニーの先へ向けると、ハイドラは視界に映り込んだ国を見下ろして呟いた。
「俺はな、俺の先祖が……アンジエーラが、嫌いなんだ」
ニーナの下ろした髪がたなびいていた。視界を塞いだ髪を耳にかけると、ハイドラの横顔がより鮮明に彼女の瞳に映り込んだ。
「五十年前のアンジエーラ族は、デーヴァ族に負ける寸前だった。そんな時起きた天変地異を利用して、アンジエーラは今の地位を手に入れた」
ニーナも良く知る話だ。個体数ではデーヴァ族を圧倒していたアンジエーラ族だったが、その一個体の戦力には圧倒的な差があった。そんな中でアンジエーラがこの大陸における抗争で生き残ることが出来たのは、その知能と地形や天候をも利用した戦略によるものが大きい。
そしてなによりも、その姿によって以前から得ていた人々からの信仰があった。
「天使だなんだと囃し立てられてな。アンジエーラは、嘘しか吐いてねェのに」
この世界から姿を消した神が残した最後の使い。アンジエーラが『天使』と呼称されるようになったのは、偏に彼らが自称したからというだけではない。
「でもな。だからこそ俺は、アルケイデアの国民たちを守ってやりたいんだよ。あいつらを『アンジエーラ族の嘘に踊らされた人間』にはしたくねェ」
ハイドラの黒く染まった髪が、艶やかに輝いていた。ニーナはそれが、アンジエーラという自身に対する彼なりの反逆の印なのだと気づいた。
「だから……、嘘が本当になるってんなら、って。……俺もどっかで、期待しちまってんだろうな」
思いもよらない言葉に、ニーナの長い睫毛が揺れる。
「あんだけのこと言っといて、都合が良すぎるってのもわかってるよ」
こうして、明るい場所で真っ直ぐにこの兄の姿を見るのは初めてだ。彼がこの離れに足を運ぶことは稀で、顔を合わせたときも彼は一言二言の会話で切り上げて行ってしまう。ニーナの耳に届く彼に関する噂も、あまり良いものではなかった。
(正直、ダリアラ様がこの人を王にしたいと仰る理由が、私にはわからなかった。……けど)
それでも。こうして見る彼の黒髪が、どこか誇らしげに胸を張っている。
ニーナが何かを言うよりも先に、ハイドラがパーカーのポケットへと無造作に手を突っ込んで一枚の紙きれを取り出す。
「それは?」
正式な書状という訳ではなさそうだ。それは便箋にすら守られず、巻き癖を残した一枚の紙きれ。
「二日前。俺の部屋に置かれてたんだよ」
ハイドラが投げ捨てるようにニーナへとその紙を渡す。慌てて受け取ったニーナは、一つに折られた紙を開いて中身を確認した。
「これ……」
到底王子へと渡せるような紙質ではない。たまたま部屋に落ちていたと言わんばかりに黄ばんだ用紙に、癖のある文字が刻まれている。
「『新月の夜来られたし。魔女の使い』」
そこに在ったのは、たった味それだけの文章だ。
ハイドラが文面を見ることなく、そこに記されていた文を口にする。
それは隣国から届けられた手紙だった。ニーナの手が震え、紙の擦れる音がする。
「一体いつの間に、どうやって俺の元に届けたのかもわからねぇ。でもな、この国に『魔女の使い』を知ってる奴は俺たち以外にゃ居ねェはずだ。誰の目に留まることなく、俺の部屋に入り込むなんて芸当が出来る奴もな」
かすかに香る、薬草の匂い。
あの屋敷の香りだ。
「この手紙が、どういう意図で送られてきたのかは俺にもわからねぇ。もしかしたらミエーレの策略なのかもしんねぇし、ただあの餓鬼が時間を稼ぎたかっただけなのかもしんねぇけどな」
明日は、新月だ。
「ハイドラ、様」
ニーナの瞳が輝いた。
ようやく、彼の言っていた言葉の意味を理解する。
「彼を……エリィを、信じて?」
だからこそここまで、時間を稼いでいたのだろうか。予定を大幅に遅らせ、この手紙の指示するまま、新月の夜動くために。
見上げた先に見えた横顔は、どこか不貞腐れた少年のようだった。手の甲で口元を多い、何を見るわけもなく視線は宙を浮いている。
「勘違いすんなよ。結局、異常現象は起こってない。状況は何一つ変わっちゃいねぇんだ。……俺は明日の夜、ミエーレに攻め入る。その手紙の意図はわからず仕舞いだけどな」
風に揺れた手紙が、ニーナの手の中でなにかを言いたげに音を鳴らす。
ハイドラはわざわざこの手紙を彼女へ見せるために、ここまで足を運んできたのだろう。
あの少年もまた、動いているのだと――。
「…………」
この国の絶対主君の末息子で、自分が従うべき相手。形式上の兄。王子らしからぬ言動と、冷たい態度。
ダリアラのように、近しい距離間で会話を交わしたことはなかった。
だからこそ、固定観念は生まれてしまっていたのだろうか。
「……ありがとうございます、ハイドラ様」
瞳を合わせたハイドラが、ニーナの微笑みにカッと頬を赤らめる。
「べ、別に礼を言われたくて来たわけじゃねーし! そもそも俺がやろうとしてることは、なんも変わってねーんだからな! この先もお前の望む通りになるかは、あの餓鬼の行動次第で……って、んだよ、笑ってんじゃねーぞ!!」
そんなハイドラにもう一度笑みを浮かべ、ニーナは視線をバルコニーの先へと向けた。
こちらの視線に気づくことなく、人々は日々の営みを変わらずに続けている。
瞳に映った街の明かりが、手の届かないところで揺れている。
「?!」
唐突に頭を抑えつけられ、ニーナが肩を揺らす。驚くニーナの視線を上げないようにと、ハイドラの手に力が籠った。ニーナの頭に乗せられわしわしと動く彼の指の間から、ニーナの長い髪が飛び跳ねる。
「あ、あの……」
困惑するニーナ厚く逞しい手のひらが、後頭部から離れていった。
「大丈夫だ。……これ以上、お前を巻き込むような事はしねぇよ」
「え……?」
ハイドラは彼女を振り返ることなく、バルコニーを出て行ってしまう。
その場に残されたニーナはただ一人、手の中の手紙と後頭部に残った温もりと共に、閉ざされた扉を見つめていた。