忠誠と信頼
ニーナは、この城を離れてから今までの出来事の全てをダリアラへと話した。
ミエーレ国へ向かったこと、魔女の使いを名乗る少年と共に『アレクシス』を探したこと。そして、ハイドラを止めるためにここへ戻ってきたことを。
「ハイドラ様のご意向は、お伺いしました。王族に対する、民達の不信感についても」
動じないダリアラの様子から、彼もまたその噂を知っているのだとわかる。
肩の下まで伸びるダリアラの髪が、照明を反射し美しく輝いていた。
「私が、必ず『アレクシス』を破壊します。でも今は、アルケイデアとミエーレの戦争を止める方が先決だと判断しました。……申し訳ございません」
膝の上で握りしめた拳が、ジワリと汗をかく。
「良いんだ。私がお前に『アレクシス』を壊すよう頼んだ理由は、覚えているのだろう?」
尚も頭の上で心地よく動くダリアラの手の温もりに目を細めながら、ニーナが頷いた。
「……ダリアラ様。魔女の使いである彼は、アルケイデア付近で起こるという異常現象を止めてくれると言ってくれました。だから、私もその手伝いをしたいのです。きっとそれが、ハイドラ様を止める最善策。……不躾がましくはございますが、なにかご意見を頂けないでしょうか」
目を閉じ、頭を下げたニーナは、普段のように優しく暖かな言葉を待っていた。
ダリアラは、ただ笑顔で答える。
「そんなことを、お前がする必要は無いよ」
ニーナが瞑っていた瞳を開く。視界が歪むのを感じた。
動揺のままに顔を上げる。そこには普段と何ら変わらない、優し気な兄の姿があった。
「お前は私の傍で、この城の中で。普段通りの生活に戻りなさい。『アレクシス』のことも、もう忘れて貰って構わない。……私の勝手で振り回してしまって、申し訳なく思う」
呼吸が止まった。
どうして。そんな言葉さえも紡げない。
明らかに困惑した様子のニーナから、ダリアラは手を引いて首を傾げた。
「なぜ、そんな顔をする? 私は、お前に言ったはずだ。『アレクシス』を壊すのは、ハイドラに次の王になってもらうためだと」
口の中が、徐々に乾いていく。
「ようやくハイドラが、自分の意思で王になろうと頑張ってくれているんだ。私たちに、それを邪魔する権利などない。そうだろう?」
違う。そんな話をしたいんじゃない。
ほんの小さく首を振ろうとして、ニーナは自身の首が固く動かないことに気付いた。
「ニーナ。私の可愛い妹。……そんなミエーレの少年の言葉を、お前は本気で信じているのか?」
ただ、目の前の青年の姿を見つめるので精一杯だ。
「その魔女本人が居るのならともかく、そんな少年一人になにが出来る? そんな危険なことに、お前が関わる必要はない。……私はね、お前が心配なんだよ」
ニーナは、ダリアラの薄い胸の温もりを感じた。彼女を抱きしめる両手は、細く冷たかった。耳の傍で、彼の鼓動が聞こえる。ずっと、大好きだった音だ。
「ここに居なさい、ニーナ。私の傍で、共にハイドラの雄姿を見届け……。そして、新たな王の誕生を祝おう」
この音以外を、ニーナは知らない。
唯一、自分に温もりをくれた彼だけが、ニーナの全てだった。
言えない。これ以上は、何も。
「…………」
それでも、頷くことが出来ないのはなぜだろう。
ただ一度、首を縦に振ればいいだけなのに。
「さあ、もう夜だ。湯浴みは済ませたか? 今日の大浴場には薔薇が浮いていた、きっとお前も気に入るだろう」
すっとその身をニーナから離したダリアラが、再び彼女の長い髪を撫で、小さな耳にかけた。
「……もう行くんだ。おやすみ、私の大切なニーナ」
話を切り上げるように、ダリアラが細く白い手を動かしてニーナへと部屋を出るように促す。
ニーナは搾り出すように「おやすみなさいませ」と答え、音も無く部屋を後にした。
* * *
長い廊下に人影はない。
容姿端麗、頭脳明快。十年も遡らない程の過去にその体調を崩しさえしなければ、彼は誰もが認める立派な王となっていたことだろう。
彼が部屋に籠るようになってから、ダリアラの周りを固めていた有権者たちは突然興味を失ったかのようにその傍から離れて行った。
当時十歳程度だったニーナは、一人ベッドの上に腰かけ憂いを帯びた瞳で窓の外を眺める、ダリアラの姿を見た。
(私だけはこの先もずっと、ダリアラ様のお傍に居る。あの時、そう決めたの)
誰も近寄らない、離宮と名のついた監獄で。王族としての教養を叩きこまれ、少しでも嫌な顔をすれば怒鳴られる日々。
そんなニーナのところへ、彼だけは、毎日のように顔を出しては話し相手を買って出てくれた。
自分を妹と呼びながらも、本来の名前で呼んでくれる。そんな兄との短い時間が、幼いニーナにとって最高の幸せだった。
彼が部屋に籠るようになってからは、ニーナが彼の部屋へと足を運ぶようになった。
当然、城内を歩けば周囲からの好機の目、疑惑の目を感じずにいることなど不可能だ。
それでも、彼女はダリアラの元へ通うことをやめなかった。
彼が自分へ、そうしてくれたように。
ニーナは立ち止まり、窓の外を見遣る。雨足は早まるばかりで、美しい景色を目にすることは叶わない。
たった一日前の記憶が、もう随分と昔の出来事のように思い返されるのはなぜだろう。
歯を見せて笑う顔と、その後でどこか気恥ずかしそうに視線を逸らす姿。
「お前は信頼出来る、大丈夫だって思ったから一緒に居るんだ。それにお前の目を見たら、なんだか助けてやりたいって思ったんだよ」
そんな言葉を、鮮明に覚えている。
整理しきれない感情に眉を寄せ、しかしニーナの視線は雨水に歪む外の世界を捉えて離さなかった。
このずっと先に、エリィは居る。
気づいてくれただろうか。自分から送った、別れ際のメッセージに。
「私、は」
溢れる罪悪感と湧き上がる衝動に、ニーナの体が震えた。
信じているに決まっている。あれ程無条件に自分を信じると言ってくれた少年の言葉を、信じられない訳がない。
「ダリアラ様が、全てなの……」
堪え切れない感情が、ニーナの瞳から一筋零れ落ちていく。
心に立てた忠誠と信念が、ダリアラの言葉を否定しようとする自分を押し留めた。そしてその選択を、ニーナの意識が非難している。
動きたい、エリィのために。
留まっていたい、ダリアラのために。
動けない。
「あなたを、信じてる……。信じている、はず、なのに……」
顔を覆った両手の隙間から溢れた涙が、ニーナが座り込んだ絨毯に落ちて模様を描いた。
押し潰すように漏れた小さな嗚咽が、窓に当たる雨音にかき消されていく。




