第三位王位継承者
実に数十日ぶりのアルケイデアの空は、生憎の雨模様だった。
窓の外側は雨水に絶えず打たれ、幾何学模様を生み出しては消えていく。
歪む景色の正体は、見慣れたアルケイデアの街並みだ。まだ昼過ぎだというのに、厚い雲に覆われた聖都は夜のような静けさで、心地よい雨音がニーナの耳をくすぐった。
しかしそんな雨音も、耳障りな囁き声にかき消されてどこかへと消えてしまう。
ああ、なんて呼吸し辛いのだろうと。ニーナは伏せた視線の先に自身の両手を捉えて考えた。視界に映り込む、純白のレースの手袋。
「おい、もっと胸張れよ」
前を歩くハイドラの声に、ニーナは答えなかった。普段と変わらない、マスクにパーカー姿のハイドラの姿を見て眉を潜めた使用人が、その後ろに続くニーナを目にしてひそひそと言葉を交わしている。緑を基調としたワンピースドレスに身を包んだニーナは、その視線が大の苦手だった。
珍しい物を見るような、そんな体中にまとわりつく視線。
聞こえる。また城下に下っていたのか。またあのような格好をして。そんなハイドラへの呆れ声に混ざる、自分への興味と疑念と少しの悪意。
ステラリリア。そんな名前。
「着いたぞ」
はっとニーナが顔を上げる。大きな扉の前で立ち止まったハイドラが、呆れたように彼女を見下ろしていた。
「いい加減一人でも歩けるようになれよ。この城は、『お前の家』でもあるんだぜ」
「……ごめんなさい。ありがとうございます、ハイドラ様」
そんな返事に、ハイドラは大きなため息を吐く。
「じゃ。俺今、あいつの顔見たくねーから」
ひらひらと手を振ったハイドラの背が遠退いていく。ニーナは眼前の扉に向かい、一度深呼吸をした。
心を決めると、ほんの少し震える手で扉を数回叩いた。
扉の向こうから聞こえた返事に肩を揺らす。失礼致しますという言葉と共に、ニーナはその重い扉を開けていく。
中は最低限の上等な家具が絶妙なバランスで設置され、その中心のキングサイズのベッドの上に、部屋の主である青年が腰を下ろしていた。
色素の薄い肌と、ニーナと同じ青い髪。その造形は似ても似つかないはずなのに、どこかエリィという少年の面影を思い出す。
「久しぶり――、ステラリリア」
にこりと笑って見せた青年に、ニーナはスカートをほんの少し持ち上げて深々と頭を下げる。
「……お久しぶりです、ダリアラ様。ステラリリア・アルケイデア・アンジエーラ、只今帰還致しました」
彼女の耳に掛かっていた髪が、さらりと重力に従って落ちていく。
「堅苦しいのは止そう。こちらへおいで、ステラリリア……いや、ニーナ」
アンジエーラ王国第一王子、ダリアラ・アルケイデア・アンジエーラ。
ニーナは頭を上げると、寝台のすぐ傍に置かれた椅子に腰掛けた。当然、剣は携帯していない。
俯いたままのニーナを見つめ、ダリアラは優しい瞳を浮かべて首を傾げる。
「申し訳ありません、ダリアラ様。『アレクシス』を、見つけることが出来ず」
ニーナは、震える声でそう告げた。
結局目的を果すことが出来ず手ぶらで帰還するに至ったルカは、萎縮するように体を硬直させている。しかし、ダリアラは優しく首を振った。
「構わない。考えてみれば、私はお前にとても危険なことをさせてしまった。ただ一人の、大切な妹だと言うのに」
ベッドの上から手を伸ばし、ダリアラがニーナの頭を優しく撫でた。
* * *
「ステラリリア様が?」
「ええ、数日前から御姿の見えなかったハイドラ様とご一緒に……」
外廊下に立つ二人の侍女が、ひそひそと話を続けていた。
「本当に不思議なお方。一体どういうお立場なのかしら」
「さあ? 天使様の考えることなんて、私たちにはわかりはしないわよ」
「何の話してんだよ」
「ひゃっ!」
ズボンのポケットに両手を突っ込んだハイドラが、不愉快そうに声を上げた。
「も、申し訳ございません……!」
「ただいま給仕に戻らせていただきますっ!」
委縮した二人はそそくさとその場から逃げ去っていく。
ハイドラは舌打ちを漏らすと、視線を廊下の先へと戻した。
「ウッゼェ……。どいつもこいつも、好き勝手言いやがって」
苛立ちのままに悪態をつき、ハイドラはすぐ傍の柱を足の裏で蹴飛ばした。
ステラリリア・アルケイデア・アンジエーラは、言わばアルケイデア王家というシステムの最後の砦だった。万一ダリアラ、ハイドラ両者が何かしらの理由で王座を継げなくなってしまった時、その血筋を絶やさないために生み出されたもう一人の王位継承者。
(あいつは、捨て子だった)
ハイドラを産んですぐに体調を崩し床に就いたアルケイデア女王は、その五年後新たな子を産むことなく他界した。
同年。とあるアンジエーラ族の男が、城の隅に捨てられた一人のアンジエーラを見つけた。その幼女は一歳にも満たない乳児で、親は今もわかっていない。その体を唯一守っていたタオルの端に、ただ一言『ニーナ』と記されていた。
(ステラリリアが拾われたあの日、俺はまだ五つのガキだった。新しい妹が出来たと、笑顔の仮面を張り付けた一人のジジイが言ってきたんだ)
彼女は存在を隠されながら、城の奥にある離れの宮で一人育てられた。
表向きは特に身分の高いアンジエーラの少女として。そして裏では、第三位王位継承者『ステラリリア・アルケイデア・アンジエーラ』として。
新たな女王を迎え入れることを頑なに拒んだ前王と、たった二人の後継者。
アンジエーラの者たちは、たった二人しか居ない後継者を失う未来を恐れていたのだ。
母親の病弱体質が遺伝するかもしれない。不満が目立つ国民が革命を起こし、殺されるかもしれない。
(もし俺たちが死んでも、王家を断絶させないように……。ステラリリアは使われたんだ)
数年後、ハイドラは興味本位で離宮を訪れた。
妹を名乗る他人の娘。一度も目にしたことがないとはいえ、それが自分にとって初めての年下の家族であることに間違いは無いはずだ。
そんな素直な喜びと少しの緊張を気恥ずかしさから押し隠し。自分に向けて無礼な態度を取れば、すぐにでも罰を与えてやるのも面白いだろう、などと考えながら。
そこで見た少女の姿を、言葉を。彼は今も覚えている。
五つになった程の小さなそれは、色とりどりの宝石やシルクに囲まれ、繊細なレースに身を包んでいた。
無言でその姿を見つめたハイドラの前で、それは従者のように膝を折った。
「お初にお目にかかります、ハイドラ様」
その声に、その言葉に、その仕草に。
まだ幼かったハイドラの背筋が凍った。
彼女はあくまでも使われるかもわからない控えでしかないのだとわかった。
最低限の王族としての作法と、万が一の時のための護身術、そして「王族」に対する対応の仕方。そんなことを教え込まれた、一人の従者だった。
家族など、そこには居なかった。
王族に成りきることも許されず、使用人に許された自由も無い。
その素性は城の中ではひた隠しにされ、万が一のことが無い限り、彼女が生み出された本当の目的が達成されることはない。
それは、この事実に関与した全ての人間が――『ステラリリア』本人でさえも――望んでいる、最高の結末だった。
彼女は、姫などではない。王族などではない。妹などではない。
まだ幼かったハイドラは、床に髪が触れる程に下げたステラリリアの後頭部を見て、そう感じた。
回想が途切れた。あまりの衝撃に、自室までの帰り道での記憶が残っていないのだ。
「結局王族だって、アンジエーラの駒でしかねーってことかよ」
ハイドラの小さな呟きが、柱の陰に吸われていく。