彼の意思、彼女の意思
薄い手のひらと長い指が、彼の両頬を包み込んでいた。
決して離すまいとするように。
「なぜ、そう思う?」
静寂の中に、彼女の言葉だけが響き渡る。
彼女の両手から、視線から。エリィは逃げることが出来ない。
視線を動かすその一瞬さえ絡み取られ、動きを封じられているようだった。
「教えてくれと言ったな。指示をくれと、そう言ったな?」
まるで、魔法にでもかけられたかのように。
「ならば今ここで妾が、この数日の間にお前の身に起きた全てを忘れ、全てを投げ出し、外部との関わりの一切を絶てと言ったら? お前は、妾の言葉に従うのか?」
エリィの瞳が揺らいだ。
今の彼には、首を縦に振ることも、横に振ることも叶わない。
「少しでも、お前の中に『意思』があるのならば。……恐れるな、エリィ。誰の選択が間違っているかなど、やってみなければ誰にも分からぬ。『間違っている』と思いながら動く者など、この世にはおらぬからじゃ」
鼓動が跳ねる。
体中の血液が、沸騰したように熱い。
「怖かろう。じゃが、それが『選択』よ。そして、お前が信じて選んだ先に、どんな結果が在ろうとも――。それは決して『間違い』などではないのじゃよ」
宝石のような紅の瞳が、真っ直ぐにエリィの瞳の奥を刺す。
「そして選ぶという決断を下したお前と、その先に待つ結果へ……。文句を言う権利を持った人間など、お前自身を抜いた誰一人として存在せぬ」
そうだ。
今あるこの状況に、文句をつけ、過去を否定し、間違ったのだと不安を抱く存在は。
他の誰でもなく、エリィ自身だ。
「お前は、選択を終えここに居る。そしてその先も――。お前は、既に選んでいるはずじゃ」
思い浮かんだのは、鮮やかな空色だった。
彼の心を掴んで離さない。真っ直ぐで強い、空色の瞳。
ジェシカの声が、言葉が、彼に思い出させていく。
少女と出会った、あの日の選択を。
「さあ、妾に教えてはくれぬか? ――お前は、『どうしたい』のじゃ」
体中から力が抜けていくのを感じる。
溜め込んでいた涙が、一筋だけ耐え切れずにエリィの瞳から零れていった。
「俺、は……」
意思はある。『どうしたいのか』なんて、もう決まっている。
それでもエリィが言葉を返せないのは、ただひとつの不安があったからだ。
ニーナはまだ、自分が動くことを許してくれるだろうか。
彼女はまだ、エリィの依頼主であってくれているのだろうか。
こんなにも、頼りない自分を。
まだ、信じてくれるだろうか。
ジェシカが、ゆっくりとエリィから顔を離す。
自分の両手の中で眉を寄せ、零れた涙を拭うことも出来ずにこちらを見上げる少年が、揺れる瞳で彼女を見上げていた。
「…………っ」
エリィの瞳に、一筋の白が映りこんだ。
はらりと、離れて行くジェシカの手を追う様に、エリィの上着から落ちていく一枚のリボン。襟にでも引っかかっていたのか、随分としわだらけだ。
反射的に空中で握りしめたそれを見て、エリィは今度こそ息を飲んだ。
それは、彼女が長い髪を結っていた白のリボンだ。
「…………!」
それは、アルケイデアの風習だった。
離れている間も、その人を信じているという証。
月明りに照らされたニーナのリボンが、エリィの手の中で存在を主張した。
どうしたいのか、自分は――。
深く、息を吐く。顔を上げたエリィは、真っ直ぐに紅の瞳を見上げた。
「俺、動きたい」
ジェシカの口角がほんの少し上がる。
エリィの瞳に、強い意思が見えた。
「こんな俺に、出来ることなんてないかもしれねーけど。……それでも、こんなところで、ただ成り行きを見てることなんて――。俺には、出来ねぇよ」
試していないことも、調べていないこともたくさんある。
やれる限りのことをしよう。
例えそれが、どんな結果に繋がったとしても。
「まだ、間に合うかな」
「まだ何も、始まってなどおらぬ。……間に合わぬ訳がなかろうて」
ジェシカはそう呟いて、エリィの赤い髪を優しく撫でた。
「己を信じろ、エリィ。決意を固めたのであれば、あとはお前の信じるままに、行動に移すだけじゃ」
まだ終わっていない。エリィは感覚を無くしていた指先を動かした。
意識を取り戻したようにその手で両目を擦ると、どこか鬱陶しそうな様子を見せるように顔を横に振り、ジェシカの手を払った。ジェシカはどこか嬉しそうにその手を離す。
最早、知らぬ存ぜぬでは居られない。もちろん、そのつもりも無い。
このまま、引き下がるわけにはいかない。
しかし何よりも先に、エリィにはやらなければいけないことがあった。
「その、ありがとうな、ジェシカ。俺、まずはヨルに謝らねーと……!」
握りしめたリボンもそのままに、探してくると部屋を飛び出していったエリィの背を、ジェシカがふっと笑って見送った。
「四足で歩いていた赤ん坊が、立派になったものよ」
やがてジェシカは、その視線をベッドの下へと向ける。じっと見つめていると、数十秒の静寂の後、どこか居心地の悪そうな表情の子鼠が顔を出した。
「なんじゃ、居るのならばさっさと顔を見せてやれば良かろうに」
「……ジェシカが帰ってくるなんて思わなかったから、完全にタイミングを逃しちゃったんだよ。勝手に居なくなっちゃったと思えば、突然現れちゃってさ」
ひらりとベッドの上に飛び乗ったヨルが、呆れたような声で言った。
ジェシカはその場から動かない。
「あやつになにか言われたようじゃの。なに、そんな傷心した表情をするでない。少し遅めの反抗期というやつよ。愛い奴じゃのう」
「わかってるよ。エリィがあんなこと、本気で言うはずがない。ちょっと虫の居所が、悪かっただけだ」
強がった様子のヨルに、ジェシカはふっと目を細めた。
そんな魔女をヨルは睨みつけるように見つめ、しかしその不満はため息と共に吐き出した。
「……『アレクシス』のことがあるから、エリィの傍から居なくなったの?」
扉の向こうに気配がないことを確認しながら、ヨルはそう告げた。
ジェシカもまたエリィが消えた扉の向こうを眺めながら、ただ答える。
「――妾は、傍観すると決めておる。この世界の未来は、妾のような老いぼれではなくこの世界の人間が決めるべきじゃ」
月明りに映える、銀の髪。見上げた先の輝きに目を細め、ヨルはその鼻先を動かした。
「でも、そんなの今更……」
「わかっておるよ」
ジェシカの紅の瞳が、じわりと揺れた。
「じゃけどな、ヨル。我が使い魔よ。……これは、妾の勝手な我儘なのじゃ。五十年も昔から、決めておったことなのじゃよ。……今更と笑わんでおくれ」
一対の紅が揺れていた。
燃えるように。泣く様に。
謝罪を呟くように。
愛を語るように。
ヨルは再び鼻先を動かして、一度閉口した。
「……そう。それなら、これ以上はやめておくよ。僕もまた、君に何かを意見する権利はない。君が動きたいように動けばいい。……でも、あんまりエリィをいじめないであげて」
「なに、必要な教育よ」
ジェシカが鼻で笑い、視線を扉の向こうへと向ける。
「運命が動く時とは、人が動く時のこと。……じきに始まるじゃろう」
窓も空いていないと言うのに、ジェシカの銀の髪が揺らめいたように錯覚を覚える。ヨルもまたその視線を、目の前の魔女から姿の見えない相棒へと向けた。
「二度目の『救済』が、のう」
動き出す。そんな漠然とした感覚に、子鼠は小さく身を震わせた。




