誰かの指示
右足が痛む。共に屋敷に居ながら丸一日あの子鼠の姿を見ないのは、初めての経験だった。
窓辺に立ち数日ぶりにカーテンを開けた。その向こうに浮かぶ月が、随分とその姿を細くしていることに気付いた。雲の動きが速い。
数日掃除をしていないからか、久方ぶりに開いたカーテンから埃が舞う。
ほんの少しの月明りだと言うのに、室内に舞った埃に反射し幻想的だ。
何をしているんだろう、とエリィは思った。
一体自分は、何がしたかったのだろう。
エリィは三日月に指を伸ばし、その月をつまむように手を動かす。はらりと、花びらが生まれた。
「…………?」
指の間から、彼の意思に反するようにはらはらと幾枚もの花びらが落ちていく。驚いたエリィが数回瞬きをすると、その視界の焦点が指先から窓へと移り息を飲んだ。
「!」
振り返ったエリィが、その場に立つ女と顔を合わせる。
「なんじゃ、随分と冴えぬ顔をしておるのう」
銀の長髪に妖艶なドレス。
夜闇に映える、紅の唇。
「粗方予想通りよ。わざわざ戻った甲斐があったわ」
「ジェシカ……」
実に半月ぶりの予想もしなかった再会に、エリィは言葉を失った。
目を細めたジェシカはエリィから数歩離れた位置に立ち、変わらない紅の瞳で彼を見つめていた。
「あんた、今までどこに」
困惑のあまり声を震わせるエリィに、ジェシカがくつくつと笑う。
「なに、野暮用じゃよ。またすぐに、ここを発たねばならんのじゃがな。その前に一度、我が愛息子の顔を見ていこうと思うたのよ」
まるで幻のようなその姿は、しかし確実に床に足を付けていた。
「それで? 一体お前は何で悩んでおるのか、この偉大なる母に申してみるがよいぞ」
あまりに突然の出来事に、エリィの思考はまとまるどころか困惑の一途を辿っていく。
そんなエリィの体に出来た傷を見て、ジェシカはふむと腕を組んだ。
「盾の居ぬ間に襲われたか」
ジェシカはちらりと部屋の様子を窺うと、そこに普段ならば居るはずの小さな影が見当たらないことに気付いた。
「なんじゃ。お前も、遂に独り立ちかえ?」
昔から、彼女はなんでもお見通しだ。彼女の姿が見えない間も、どこかでずっと、自分の様子を見ていたのではないかとさえ思う程に。
いきなり消えたかと思えばいきなり姿を現し、更にはあまりにも普段通りの主の様子に、エリィは呆れさえも覚えない。
今更、彼女の行動に対して困惑することもないだろう。ジェシカがどこに行っていたかなど、自分が知ったところで何の得もない。どうせ、自分の理解など及ばないのだから。
エリィは小さく首を振った。
「そんなこと、出来てねーよ」
まるで普段の調子を取り戻す様に、エリィはわざとらしく両手を動かした。
「ったく、自由気ままな大魔女め。あんたの居ない間に、客が一人、アルケイデアから来たんだぞ。しかもアンジエーラの! ったく、折角ここまで連れて来たってのに、あんな置手紙なんて残しやがって!」
謝罪の色など一向も見せないジェシカに、エリィは更に言葉を重ねていく。
「だから俺が! あいつの依頼を……、請け負ったんだぜ。あんたの、代わりに」
自分の不満を幾つぶつけたところで、この魔女相手には無意味だと言うことを知っている。
彼女の銀の髪が、幻想的な空間の中で一つの核となっていた。
まるで彼女を中心に輝きが舞うかのように。
この場所が、彼女のための空間となるように。
「…………っ」
美しい風景だった。
こんなにも荒れる自身の感情が、あまりに馬鹿馬鹿しく思える程に。
揺れるエリィの瞳に、表情を変えないままその場に立つジェシカの姿が映り込む。
まるで一つの絵画のようだ。
エリィが力んだ力を抜いた。だらりと下がった両手の先が、空中の埃に触れた。
「あいつが俺に、依頼してくれたんだ」
知り合いが、エリィに声をかけることはよくある。
しかしそれもゲルダのような親密な相手ばかりで、一度はジェシカを通すか、正式な報酬を受け取るようなものではなかった。
「……俺にとって、初めての依頼主になった」
あの瞬間の高揚を、エリィは今も良く覚えている。
「だから、絶対解決してやるって、思ってたのに。……結局俺は、何も出来なかった」
もう二度と、会えないかもしれない。
そんな不安が、エリィの心をきつく締めあげていた。
助けるつもりで手を差し伸べ、結局なにも成果は得られなかった。それどころか、彼女に心配ばかりかけさせてしまった。
『アレクシス』は見つからず、最後までアルケイデアへ送り届けることも出来ず。
切りかかって来たハイドラにまで、助けられて。
「なんも出来なくて。そんな自分にイライラして。そんで、ヨルにまであたっちまって」
失望しただろう。
魔女の使いの、こんな姿を見た彼女は。
「ハイドラの言う通りだ。俺は、何も出来ねぇ」
恥ずかしい。情けない。
悔しい。
いくつもの感情が入り混じり、エリィの足は震えていた。
「俺は、魔女の使いってだけで、魔法使いじゃねーんだよなって。……そんなことばっかり、考えちまう」
指先が徐々に冷えていくのを感じた。
縋るように。エリィは伏せていた瞳を上げる。
五十年前、アンジエーラに縋った人々は、こんな感情を抱いていたのだろうか。
共に来いと。そう言った彼らについて行くことが、やっとだったのだろうか。
それが、彼らにとっての安心だったのだろうか。
「…………なあジェシカ。俺、これからどうすればいい?」
歪んだ視界の先で、銀の髪が揺れていた。
「俺、わかんねーんだ。ヨルも居ない、ニーナだって……居ない」
エリィが自分の体を抱きしめる。
「だから、ジェシカ。教えてくれ。……指示をくれよ。いつもみたいに、これをしろをあれをしろって」
いつも通り、彼女の使いとして動きたい。
文句を言いながらも、相棒のヨルに守られながら、彼女の指示に従って。
ジェシカは小さく首を振った。
「それは、お前が決めることじゃ」
肩が震えた。エリィの顔から血の気が引いていく。
それは、今までに感じたことのない不安だ。
「……怖ぇよ」
ぐるぐると思考が巡る。記憶が蘇る。
ノブルで別れようとしたヨルに、強がらずともに来て欲しいと頼めば良かったのだろうか。それともニーナを国境まで送るなどと言い出さなければ?
いや、最初から自分の判断だけで彼女の依頼を請け負わなければ、あんな出来事は起こらなかったはずだ。
「もし、間違ってたらどうすればいい? それで、みんなに迷惑かけちまったら? またあの時みたいに、ゲルダや、今度はニーナにまで、危険な目に合わせちまったら?」
自分はどこかで、選択を間違えてしまったのだろうか。
「頼むよ、ジェシカ」
同じことを繰り返すくらいなら。
同じ思いをするくらいなら。
「怖い。自分が選んだ結果を、想像するのが怖いんだよ……!」
誰かの指示に従って動いた方が、よっぽど気が楽だ――。
「――――っ」
エリィの顔が、冷ややかな手に包まれた。
力任せに顔を上げられ、涙ぐんだエリィの顔へとジェシカの顔が迫る。
額がぶつかるほどに近づいたジェシカの瞳に飲まれるように、エリィはただ目の前の魔女を見つめていた。