王子ハイドラ
「お前、こいつに何の用だよ」
片手を広げニーナを後ろへと追いやるエリィと、その前に立ちふさがったゲルダ。いつでも動けるようにと、その体は臨戦態勢を取っている。
ハイドラはそんな二人の姿に鼻で笑った。
「なんだ。こいつのボディーガードか?」
「ニーナは俺の顧客だ。手は出させねぇぞ」
そう言ったエリィの言葉に、ハイドラが整えた細い眉を寄せる。
「ニーナ? ……へえ、ここではそう呼ばせてたのか」
ぐっと唇を握りしめたニーナが、エリィの視界の隅に映った。ダリアラの口角が上がる。
「じゃあ、俺から守ってみろよ。その顧客の『ニーナ』とやらをな!」
「――!」
突風と同時に受けた衝撃に、ゲルダの体がはじけ飛ぶ。声も出ず、その細い体が宙を舞った。
「ゲルダ!」
エリィとニーナの声が響く。
体の変化を終える前に受けた衝撃は、ゲルダの両手の感覚を一瞬にして奪い去った。
「う……!」
どうにか両足の裏で地面を滑ると、その間にゲルダの体は硬化を始めた。
薄く浮き出ていた鱗はその形を明瞭にしていき、両手の先の牙が伸びていく。ぐいと体を逸らすと、次に彼女の背中から巨大なしっぽが生えた。
本気を出さなければ殺される。ゲルダの本能がそう告げていた。
顔を上げた瞬間、再び目の前に迫る男の姿に息を止める。
ゲルダは咄嗟に両手を顔の前に掲げた。が、尚も痺れが取れない両手では、いくら形を変えたところで、衝撃をまともに受け流すことは不可能だ。
「ッあ!」
再び弾き飛ばされた体は民家だったのであろう壁に激突し、その壁は音を立てて崩れていく。
巻き上がった土煙の中から、地面を蹴ったゲルダがハイドラへと飛び掛かる。しかしハイドラはそんなゲルダの動きを読んでいたようにその身をひねると、手にしていたサーベルの柄で彼女の腹部を強打した。
やはり最初の一撃が効いていたのだろう。ゲルダは思い切り体を折ると、息と共に唾液を漏らし、その場に崩れ落ちた。
「こんなもんかァ?」
「ゲルダ……!」
駆け出したエリィがゲルダの体を抱き上げる。体中に傷こそあるが、呼吸はある。意識を手放しているだけだ。
「お前! 何すんだ!」
「何って、最初に戦う意思を見せて来たのはお前らだろ? 俺はあいつを迎えに来ただけなんだけど」
はあ、と面倒そうにハイドラがため息を吐く。
「迎えに来た……?」
「そ。俺はそこの『ニーナ』を迎えに来た。ミエーレに居られたら、俺が困るからな」
話が掴めず、エリィが眉を寄せる。
抱き上げたゲルダの体を庇う様に身を屈め、得体の知れない男を睨むように見上げた。
「どうもまあ、お前は戦える力量じゃねーみてェだし。俺も弱い物虐めって嫌いなんだよ。これ以上なんかするつもりねーから。……おい、帰んぞ」
立ちすくんでいたニーナがびくりと肩を震わせる。周囲の状況など気にも留めない様子で、ハイドラは足を進めていく。
そんなハイドラを追うことも、エリィとゲルダの傍に駆け寄ることも出来ずに。
ニーナはただ、その場に立ち尽くしていた。
一向に自分の後に続かないニーナに足を止め、ハイドラが舌打ちを漏らす。
「おい、聞いてんのか」
「待てよ」
その声に、ニーナの肩が揺れた。ハイドラが面倒そうに視線をそちらへと向ける。
ゲルダをそっと地面に寝かせ、自身の上着をかけ。エリィは立ち上がった。
「せめて説明していってくれ。頭の弱い俺にも、良くわかるように頼むぜ」
わかっていた。彼らが顔を合わせれば、こうなってしまうということは。
それでも咄嗟の判断が出来なかった自分のミスだと、ニーナは拳を握りしめた。
ここは、自分が話を通さなければいけない。どうにかしてハイドラを止め、エリィの怒りを鎮め、これ以上騒動が大きくならないうちに。
「エリ――」
ニーナの前髪が揺れた。なにかが、目の前を通り過ぎていく。
前触れの無い攻撃を、エリィは倒れ込むようにかわした。当然その動きを読んでいたハイドラはすぐさま身を切り返し、足元で手をつくエリィへと鞘から抜いたサーベルを突き立てる。
呼吸を忘れ、エリィがその剣の動きを見ることなく身を捩った。
刃が逃げ送れたエリィの腕の皮膚を浅く切り裂き、赤い飛沫が舞う。よろけた拍子に腹部を蹴り飛ばされ、エリィは空気を吐き出しながら乾いた声を漏らした。
襲いかかる痛みに顔を歪めたエリィだったが、痛がっている暇は無い。
顔を上げたエリィは、蹴られた衝撃に身を任せるように早足で数歩後退すると、周囲の様子を瞬時に確認した。
攻撃から逃げる際の障害物となるものは少ないが、その分身を隠す場所も盾となるものも少ない。
ハイドラの剣先が、月明りに淡く反射して煌いた。
確実にエリィの顔面を、正しくはその瞳を狙うその突きは、動きがわかる分避けやすい。しかしそれ以上に、一突きで確実に戦力を削ろうとしている、そんなハイドラの戦略に戦慄を覚えた。
胴体よりも明らかに小さな的を、何の迷いも無く狙う彼の太刀筋は間違いなくニーナ以上だ。
当然無駄な動きなど無く、いつかはエリィの体力に限界が来る。焦りの中で集中をほんの少しでも手放すと、すぐさま体のどこかに鋭い痛みが走った。
瞳を狙う剣はその引き様、エリィを弄ぶように軌道を変えて彼の体の至る所を狙い、空を滑る。
確実に近づいてくるハイドラから逃れるように後退を続けたエリィは、やがて空中を探るように動かしていた手の先がなにかに当たったことを感じ取った。
ぐっと体を沈ませると、掴んだベンチの手摺を重心に、ぐるりと体を回転させその後ろへと回りこむ。
ほんの一瞬ハイドラの視界から逃れたエリィは地面を蹴り、ハイドラに背を向け駆け出した。
「おいおい……」
予想外の動きに、ほんの少しハイドラの目が見開く。しかしそれも一瞬だった。
一対一の戦闘の中で、距離を取るためとはいえ敵に背を向けるなど笑い話にもならない。もしも自分が飛び道具を忍ばせていたらどうするつもりなのかと、ハイドラは呆れた様子でため息をついた。
十分な距離を取ったエリィが振り返り、肩で息をする。頬に出来た切り傷から、絶えず鮮血が滴った。
それを忌々しそうに手で拭ったエリィへ、呆れ顔のハイドラが声をかけた。
「あの女のほうが、よっぽど歯ごたえあったぜ。ただ逃げ回ってるだけじゃあ、脳の無ェ猿と変わらねぇ」
「生憎、逃げ足には、自信があるもんで……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐエリィが、普段のジェシカとの日常を思い返してぼやくように答えた。
「俺は、お前と戦うつもりなんてねーんだ。……説明しろって、言ってんだろ」
くるくると手の中でサーベルを回し、ハイドラはエリィを見つめている。
「口より先に手が出ちまうのは、俺の悪い癖だな。でもなあ、お前ももうちっと、疑うことを覚えた方が良いぜ」
「どういう、ことだよ……?」
呼吸こそ荒れているが、エリィはしっかりと目の前の男の姿を捉えている。彼が地面を蹴り、再び攻撃を仕掛けてくれば、相応の対応は出来る自信はあった。
怪訝そうな表情を浮かべたエリィを、ハイドラは鼻で笑う。
「そういうとこだぜ!」
彼はその場から一歩たりとも動いていない。
ただ、サーベルを持っていないもう片方の手が、真っ直ぐにエリィへと向けられていた。
「!」
エリィが気付いた時には、その玉は既に発砲されていた。
彼の手の中にあった、拳銃から。