魔女の使いのとある日常
五十年ほど前に発生した詳細不明の「天変地異」を境に、世界では各地で様々な異常現象が発生していた。小さなものでは地鳴りや小規模干ばつ。大きい物では街一つを水面下に沈める程の局地的豪雨や直下型地震による大規模な液状化。
そんな中、たった一人でその異常現象を抑えて回る一人の女の名が、徐々に国内外へと知れ渡っていった。
その女の名はジェシカ。魔女と呼ばれる人々の「救世主」である。
* * *
ミエーレ王国、ノブルの街。人々の会話は今も尚、数日前に起こった魔女と騎士団による大規模合同作戦の話題で持ち切りであった。
「なんたってあの魔女さんと騎士団の初めての合同作戦なんだもんねえ。そりゃ話題にもなるさね」
「そんな大した話じゃねーだろ。ジェシカが一人でやるか、誰かと一緒にやるかの違いだ。結果は変わらねーよ」
片手にトマト、もう片手にはバスケットを持ったエリィが、眉を潜めてそう言った。しかし彼の話し相手であった八百屋の店主が、そうでもないと言いたげに眉を寄せる。
「騎士団がわざわざ魔女さんに協力を仰いだのは初めてのことさ。今までのように、黙っていられるレベルの異常じゃなかったってことだろう?」
店主が紙袋に彩り豊かな野菜を詰め込んでいく。
「ジェシカの力だけじゃ安心できなかったってことかよ」
少し心外そうに頬を膨らませたエリィが、手にしていたトマトを差し出した。
「これもくれ」
「毎度。……私たちにゃわからないけどねえ。実際その場に居合わせたあんたはどう思ったんだい? やっぱり、今までのとは一味違ったかね」
「さあ、どうだったかな」
バスケットから取り出した麻袋を開け、エリィは幾枚かの硬貨を手に取り店主へ手渡す。空いた手で野菜が詰まった紙袋を受け取った。
「俺はジェシカの言う通りに動いただけだ。別に普段と変わらなかった気もするけどな」
「……そうかい、なら安心だ。異常現象の頻度は確実に増えてることくらい、私たち一般市民にもわかる。隣の国じゃ王が死んだなんて話も聞いたし、なんだか落ち着かなくてねえ」
ため息交じりに言う店主へ、エリィが肩を竦めた。
「ま、ジェシカが居る限り異常現象については安心しろよ。俺も出来る限りのことはするからさ」
「頼もしいね。まったく、なんであんたの名前が知れ渡っていないのか、私には不思議で仕方ない
よ。あんただって立派な労働者だっていうのにねえ」
エリィは苦笑した。
「なーに、安心しろって。すぐに世界中の全員が俺の名前を知ることになるからよ!」
次の客が出店に顔を出した。エリィは短い別れの挨拶を告げると、紙袋を抱いて店主に背を向ける。
「今回も大活躍だったんだってね。魔女さんによろしくね!」
店主はその背へと、そんな言葉を投げかけた。
* * *
道へ出たエリィの背を、強い風が押す。バスケットから顔を出した子鼠が、軽々とエリィの肩の上に登った。
「優しいねエリィ。『普段と変わらなかった』だなんて、いつからそんな嘘を付けるようになったの」
ヨルの言葉に、エリィが眉を寄せた。
普段通りの余裕があったと言えば嘘になる。確実に、普段ジェシカと共に対処している異常現象と比べて規模は大きなものになっていたことは間違いないだろう。
「本当のこと言って、俺に得があるかよ。てかいい加減、俺を子ども扱いすんのやめろよな」
「えー。いつまで経っても、エリィはお子様だからなぁ……っぷ」
強い風がヨルの小さな体を煽る。ヨルがぎゅっとエリィの服にしがみ付いた。
「エリィ、僕落ちちゃう」
「うるせー。なんならわざわざ風の強そうな道を、散歩しがてら帰ったっていいんだぞ」
「折角摘んできた薬草、雨でぐちゃぐちゃになってもいいの?」
鼻先を動かしたヨルの様子を見て、エリィが視線を上に向ける。空は厚い雲で覆われていた。
エリィはわざとらしくため息を吐いて、肩の上のヨルを乗せなおす。
「そりゃ困る。……急ぐか」
足を速めたエリィの肩に、ヨルが再びしがみ付いた。敏感な子鼠の鼻を、風に乗った水の香りが擽っている。
* * *
「ババア! 頼まれたもん採ってきたぞ!」
古びた屋敷の正面玄関に位置する巨大な扉を押し開き、エリィが声を上げる。その足元を潜り抜けるように、ヨルが肩から滑り降りて屋敷の中へと入っていった。
エントランスの天井からは巨大なシャンデリアが下がり、紅の炎が風もないのに揺れている。中央から吹き抜けの二階へと続く階段には、数段飛ばしで薄汚れた麻布の袋や青く変色した木の枝などが散乱し、手すりにはすでに家主の居なくなった蜘蛛の巣が張っていた。
返事はない。
エリィは後ろ手に扉を閉めると、ため息を吐きながら屋敷の奥へと進んでいく。
階段の下に設置された扉を開ける。狭く薄暗い廊下を進むと、半開きの扉が見えた。
「ったく、今日はどこに居るんだ……っての!」
力任せにその扉を開くが、室内は既にもぬけの殻だ。よく見ると朝は無かったはずの魔導書が床に散乱し、ドライフラワーのかけらが部屋から続く先の通路へと道標のように落ちていた。
エリィは呆れ顔を浮かべ、ひとまず紙袋を近場の古びた椅子に置いた。ぶつぶつと小言を言いながら、散乱している書物を拾い集めて木製のテーブルの上に重ねる。次に色とりどりのドライフラワーを拾い集めると、バスケットを持たない手で握りしめ、奥の通路へと足を進めた。
行き止まりの扉はやはり半開きで、その先から何かを煮込むような音と、本の頁をめくる音が聞こえてくる。
エリィはその開きかけの扉に足を掛け、蹴り飛ばすように開けた。
「おい、帰ったぞ――」
普段は無い巨大な影に覆われ、エリィは眉をひそめて顔を上げる。
「んぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
エリィの声は言葉にならない悲鳴へと変わった。
室内では幾つもの太い蔦が伸び、その一つ一つが独りでに動いていた。うねうねと蠢く蔦はエリィの存在に気付いたのか、一目散に彼へとその先を延ばしてくる。
まるで、侵入者を拒むように。
「いや待て待て待て待て、待てって! なんだよこれ!」
尋常ではない速さで彼に近づく蔦の先は、まるで鋭利な剣先だ。このままでは脳天を刺し貫かれてしまう。
「勘弁してくれよ……!!」
帰宅後に突然襲い掛かってきた猛威を前に、エリィは両腕を顔の前に構えてぐっとその目を閉ざすのだった。