迎え
やがて三人は、ニーナの言う集落の跡地に到着する。雨風が凌げそうな場所は少ないが、幸い天候は晴れだ。壊れた噴水の傍に並ぶベンチに腰掛けたエリィが、ぐだりと体の力を抜いた。
「三十分休んだら動き始めるよ、エリィ」
「わーった」
力ないエリィの答えに苦笑を漏らして、ゲルダがすぐ傍でストレッチを始めた。そんなゲルダを横目で見ながら、エリィは体力でも付けようかと考える。
「エリィ」
顔を上げたエリィの横に、ニーナが腰を下ろした。フードから解放された彼女の髪が、夜風に揺れて美しい。
「疲れたわよね。国境までもう少しだから、ここから先は私一人でも……」
「なーに言ってんだよ」
体を起こし、両手を足に乗せたエリィが、遠慮がちに声をかけるニーナへと反抗する。
「何度も言わせんなって。ここまで来て『じゃあな』なんて言わねーよ。俺も、あいつもな」
ニーナがエリィの視線の先を見る。腕を伸ばし、背を伸ばしたゲルダが、二人の視線に気づいて不思議そうに手を振った。
「……ねえ、エリィ」
「ん?」
「どうして、私を信じてくれたの?」
ゲルダに手を振り返したエリィが、その手を下ろしてニーナを見た。
「私はアンジエーラ族で、この国の敵。そんな人間が、突然一緒に兵器を探して欲しいなんて言ってきたら、私はまず相手を疑うわ」
「なんで?」
想定外の答えに、ニーナは目を丸くする。
「なんでって……。フランソワ王子が言っていたように、私がその兵器を見つけても、壊さず悪用したかもしれない。もしくは魔女や王子を暗殺するために、あなたを利用しようとしていたかもしれない……。そうは考えなかったの?」
そう言われて初めて気づいたという様に、エリィは目を丸くした。
「お前、そんなこと考えてたのか?」
「もちろん考えてなんていないわ! アルケイデア王家に、アンジエーラという種族の名に誓って……」
「なら、そんなこと考えても仕方ねーじゃん」
ニーナの言葉が途切れる。月明りに彼の笑顔が浮かんだ。
「お前は信頼出来る、大丈夫だって思ったから一緒に居るんだ。それに」
彼は、ただまっすぐな気持ちでそう言っている。
「お前の目を見たら、なんだか助けてやりたいって思ったんだよ」
ニーナの空色の瞳が揺れた。
「……なぁに、それ」
頬をほんのりと赤く染めたニーナの様子に、エリィがはっと視線を逸らす。
どこか居心地が悪そうに視線を泳がせながら「だって」や「ほら」などと歯切れの悪い言葉を漏らした。
「と、とにかく! 俺はお前を疑うことなんてねーし、お前も変なこと考えんなよ!」
立ち上がったエリィが、そそくさとゲルダの元に近寄っていく。
「なあに、エリィ。顔が赤いよ?」
「うるせぇ! いいから筋トレすんぞ!」
「え! 一緒にやってくれるの? いいよ何からする?!」
「なんでそんなに嬉しそうなんだよ……」
まるでプロレスのような動きを始めたゲルダと、そんな彼女に振り回されて目を回すエリィ。ニーナはベンチに腰かけたまま、そんな二人の様子を傍観した。
自分は、なぜ彼を信じたのだったか。
いや、最初は「使えるものは使う」という感覚でしかなかったはずだ。自分の身に危険が迫れば、どんな手を使ってでも対抗し、彼らを切り捨てたただろう。
しかしあの日の夜、子鼠からの警告を受けた、あの夜。
ニーナは、自分が彼らにとっても「危険な存在」であることに気付いた。
自分と関わらなければ、エリィは世界を壊す兵器などに関わることも、知ることさえもなかったはずなのだ。
それでも彼は、知らない振りをしなかった。
(だから、私も彼を信じた……?)
素性を何も明かさないニーナという存在を、ただ信じてくれたから。
(いいえ、最初はもっと、単純な理由だった)
ニーナは視線の先で不可思議なポーズをとるエリィを見つめた。
(似ていたからよ。ダリアラ様に)
教会で初めてあの少年の顔を見た時、ニーナは驚きで言葉を失った。年も体格も、髪の色も違う。しかし、どこか似ていたのだ。
彼女が絶対的な忠誠を誓う主――、ダリアラ・アルケイデア・アンジエーラに。
(今は全く別の人間だと分かる。顔も、性格も違う。でも、あの瞬間だけは、確かにそう見えた)
それは纏っていた雰囲気が似ていたのか、それとも顔つきがそう見えてしまっただけなのか。エリィという人間を知ってしまった今の彼女には、もうわからないことだった。
「単純な人間だったのよね、私は」
ふっと息を漏らしたニーナが、空を見上げる。ほんの少し姿を見せた雲が、天空に吹く風に押されていた。
そろそろ動き始めようと腰を上げた瞬間、ニーナは漏らしかけた言葉を飲み込むように息を飲んだ。
咄嗟にエリィとゲルダをその細い体で隠す様に立ち上がり、振り返る。
「――――っ」
「探したぞ」
人工的な漆黒の髪の隙間から、染まり切らなかった青の髪が疎らに覗いている。
男が顔の下半分を隠す黒いマスクを外した。三白眼を持つたれ目の瞳が、月夜に爛々と輝いた。
「どう、して」
この場所に居るはずのない男が、そこに居た。
「ハイドラ、様……」
ハイドラ・アルケイデア・アンジエーラ。それはアルケイデア王国、第二王子。
* * *
舗装された道が途絶え、緑の天井に日の光を遮られた地面は、止んだばかりの雨で今もまだ泥濘状態だ。進むヨルの両手足は既に泥で汚れていた。
エリィと別れてから、どれ程歩いただろう。ジェシカの屋敷の前を通り過ぎ歩くそこは、何の変哲もない森の中だった。普段エリィと来る方角とは、また異なる場所だ。
鳥の鳴き声一つしない空間で、四本の短い足が泥を跳ねる音だけが響いていた。
既に日は沈み、辺りの寒さに拍車がかかる。
心拍数が上がる。呼吸が静まる。
やがて、足を止めた。
背後からひやりと、細くなめらかな両手がヨルの頬を挟んだ。
顔を上げる。艶やかな桃色の髪が、子鼠の顔を月から隠していく。
「――――」
額に感じた唇の感覚に、ヨルの心臓が跳ねる。それは彼の体に熱を与え、その姿を人へと変貌させた。
熱を受け入れるように閉ざしていた瞳を開く。
座り込んだ彼の顔を挟み、無理やりに顎を上げさせていたその冷たい両手が、ヨルの髪を梳かす様に離れて行く。
彼と同じ桃色の髪を持った少女の顔が、天を仰いでいたヨルの視界いっぱいに広がっていた。
自分の意図に関わらず人型を得たヨルは、その流れ込んだ力の感覚にほんの一瞬だけ息を詰まらせる。冷や汗が彼の頬を伝っていった。
「久しぶり、ペルドゥオーティ」
それは、いつぶりに聞いた名前だろう。
「……ピアンタ」
少女の名を呼ぶ。ピアンタが純粋な喜びで口角を上げた。
だらりと下げていた泥にまみれた両手を、誰かが握りしめた。
ヨルが顔を正面に向けると、ピアンタとよく似た顔を持つ少年が視界に映る。困り眉の彼はピアンタと同じ笑顔で、ヨルの両手を自身の両手で包み込んでいた。
「会いたかった」
「スッピナ……」
ヨルの声に答えるように、今にも泣きだしそうな少年スッピナは何度も頷いて見せる。
彼の両手が、ヨルの手に付着していた泥で汚れていた。