優美な悪魔
衝撃を受けるエリィにどこか慈愛の籠った視線を向けていたフランソワが、一呼吸おいて話を続けた。
「……さて、再び話が脱線してしまったね。次期アルケイデア王の権威を国民に示す、手っ取り早い方法。僕たちはそれを、武力だと考えている」
「だからアルケイデアは、ミエーレに攻め入ろうとしていると言うのですか」
眉を寄せたニーナの言葉に、フランソワははっきりと頷いて見せた。
「もっともらしい理由がある上、簡単に行動を起こすことが出来る。とはいえアルケイデアの国民は圧倒的にザデアスの比率が少ない。我が国の戦力との差は歴然だろうね」
「それがわかっているのならば、なぜそんなことをお考えに?」
ヒトとザデアスの間には、圧倒的な戦力差が生じる。当然、生まれつき特殊な力を持つザデアスの方が、あらゆる戦場に置いて優位に立つことが可能だからだ。
ミエーレとアルケイデア。この二国が戦力で衝突した時、先に膝をつくのがアルケイデアであることは明白だった。だからこそ、アルケイデアは王の権威の象徴を「武力」ではなく「神性」に置いたのだ。
今更、アルケイデアにそんなことが可能なはずはない。ニーナは確信を持ちながらも、薄く笑みを浮かべるフランソワを前に、言葉にならない不安を感じていた。
「ヒトとザデアス。そんな力の差なんて目に付かないくらいの、もっと絶対的な力が……、この世界にはあったはずだ」
ひらりとヨルのしっぽが揺れた。そんな小さな変化に、エリィは気付かない。
「絶対的な力?」
「そう。今から数百年前まで、この世界は『神』によって支配されていたのを知っているだろう?」
なるほど、とエリィは思った。神と言う存在は徐々にこの世界から姿を消していたが、確かにその存在は有ったのだと聞いている。それはフランソワが言ったように、ヒトやザデアスとは比べ物にならないほどの、絶対的な力だったはずだ。
「神がなんだってんだよ」
「その神の力を、もしアルケイデアが持っているとしたら?」
「は……?」
それは、あまりにも飛躍した仮説のように感じられた。
神はもう居ないはずだ。理由こそ知らないが、この世界の支配権は既に神から人々へと移っている。
「いや、持っていなかったとしても、今後手に入る算段が付いているのだとしたら?」
「ど、どういうことだよ」
確かにもしもアルケイデアが神の力を手に入れていたら。どのような形であれ、ミエーレの勝利は絶対的なものではなくなってしまうだろう。
「僕は一つ、面白い話を知っているんだ」
ねえ、とようやく視線を向けられたシンハーが、どこか納得が行かない表情を浮かべながらも頷く。まるで幼子が内緒話をするような、そんな二人の様子にエリィは疑問符を浮かべた。
しかしエリィの問いかけを聞く間もなく、フランソワは続けて言葉を放つ。
「さて、ここで僕からの質問に答えてもらいたいな」
今までは答えてばかりだったからねとフランソワが立ち上がると、その視線を再びエリィからニーナへと移す。その漆黒の瞳に、ニーナが息を飲んだ。
「ずっと思っていたんだけれど」
一歩。
ほんの少し、フランソワがその体を動かした。
一瞬だった。
「そのフードは、少し不敬なんじゃないかな?」
「ッ!」
言葉も出ない間に、その漆黒はニーナの眼前へと迫っていた。
長い爪と剛腕な腕、一対の角がこめかみから伸び、その背からはコウモリのような赤紫の翼。
その手のひらが、ニーナの細い首を片手で掴み、持ち上げる。
つま先立ちになった自身を守るように、反射的に彼女の背から純白の翼が姿を現した。衝撃で彼女のフードが取れ、長い空色の髪が舞った。
「ニーナ!」
エリィは立ち上がるが、フランソワの空いたもう片方の手がその動きを制止する。
「駄目だよ。僕は今、この子とお話をしているんだ」
まるで悪魔のようなその姿からは、想像もつかない程に優美な声がした。その不一致に、言葉にならない恐怖がエリィを襲う。
デーヴァ族の、本来の姿だ。
「やっぱりね。アンジエーラの女の子が、この国に何の用かな」
三白眼に見つめられ、ニーナが息を飲む。腰の剣に手を当てると、フランソワが嘲笑した。
「そんな玩具で、僕に抵抗しようっていうの? この状況を理解出来ていないようだね。……君が剣を抜くよりも先に、僕の爪が君の首を切り裂くことだって出来るんだよ」
あまりの緊張に、ニーナは頭痛に似た感覚を覚えた。貧血が起こる前兆だと分かった。
「バレないとでも思っていたのなら、僕は随分と舐められたものだ」
ニーナの顔から、血色が消えていく。
怖い。震えが止まらない。
「どれ程の自信があってここに来たのかと思えば――」
込み上げてくる涙が歯痒い。
動けない自分が、苛立たしい。
「なぁんだ。……『天使』も、案外大したことはないね」
ニーナが奥歯を噛み締める。
喉奥に湧き上がっていた感情が、瞬間的に彼女の体内へと戻って行く。感情に支配される。
辛うじて地面についていた足の先に、力が籠った。
乱れた髪の間から、涙ぐむニーナの瞳が鈍く輝き揺れた。
フランソワの瞳の奥が、冷ややかに笑った。
「――おい、離せよ」
握りしめた柄を引き抜こうとした瞬間、ニーナはそんな声に動きを止める。激しい耳鳴りのような感情の波が、一斉に彼女の中から引いていく。
フランソワが、横目でエリィの姿を捉えた。
立ち上がったまま両手を握りしめ、恐怖に耐える少年の姿があった。
「話がしてーなら、まずはその手を放せ。こいつは、お前に聞きたいことがあって来ただけだ」
フランソワの視線が、ニーナへと戻る。
彼女の手は剣の柄に添えられたままだが、その剣を引き抜く気配はない。
「…………なるほど」
フランソワはそう呟くと、ニーナの首を持ち上げていた手を下げた。
「カハッ」
不足していた酸素を急激に取り込んだニーナが、荒い呼吸を繰り返しながらその場に膝をつく。赤くなった首元を抑え、自らの翼に囲われる。
フランソワが首を鳴らすと、その体は禍々しい悪魔のそれから人間のそれへと姿を戻していった。
「ニーナ、大丈夫か!」
フランソワが離れて行くと、入れ替わるようにエリィがニーナの傍へと駆け寄った。
長い髪でその表情は見えないが、肩に手を置いたエリィへと、ニーナは大丈夫だと伝えるように何度も頷いて見せた。
「突然ごめんね。ちょっと癇癪を起しちゃったみたいだ」
ソファに腰かけたフランソワが、さわやかな笑みを浮かべてそう言った。エリィがニーナを守るように立つ。
しかし立ち上がって呼吸を正したニーナがその肩に触れると、エリィをソファに座るよう促した。
「ありがとう。私はもう、大丈夫だから」
尚も心配そうな視線を向けてくるエリィに再び頷いて、ニーナは大きく深呼吸をする。彼女の背から生えていた翼が、その呼吸に答えるように消えていった。
エリィがソファに座ると、その肩の上にヨルが飛び乗った。
「少々手荒な真似をしてしまったけれど。君が僕にとっての脅威じゃないってことは、これでわかったよ」
同じようにソファに腰を下ろしたフランソワがエリィへ笑顔を向けながら、まだ顔色の優れないニーナへと言葉を投げかける。
「……さて、君は僕に聞きたいことがあるみたいだけど。先に僕の質問に、答えてもらうことは出来るかな?」
ニーナは生唾を飲み込んだ。
「私が、アンジエーラが……、ここに居る理由」
フランソワがそうだと頷いた。
ここで回答を拒めば、この対話は終了する。拒否権などないのだと察した。
「探し物をしているの」
「何を?」
「それは……」
黙り込んでしまったニーナに、フランソワが目を細める。足を組み、ソファのひじ掛けに肘をついた。細く長い指が、彼の頬をなぞる。
さらりと、彼の顔の前に漆黒の髪が垂れた。
「『アレクシス』を、探しに来たんだろう?」
「!」
ニーナも、エリィも、あまりの衝撃に言葉を失った。そんな二人の様子を見れば、彼の問いかけが事実であることは歴然だ。
小動物を愛でるように、フランソワが眉を寄せて笑っていた。