魔女ありて
少年が地を蹴り駆けていた。
深い森の中、時刻は深夜零時を回った頃だろう。見通しは最悪だった。
少年は軽い身のこなしで、地表まで顔を出す大樹の根を飛び越える。少年の後を、短い両手足を動かして小さな子鼠が追いかけた。
視界を遮る赤い髪をかき上げ、少年が眉を寄せて進行方向を凝視する。
数メートル駆けたところで異変に気付いた彼は、ぐっと地面を踏み込み、身をかわした。
すんでのところで避けたその場所に、大木が音を立てて倒れていく。
「ひ~!」
足は止めずに情けない悲鳴を上げながら、少年は手にしていたバスケットに右手を突っ込む。大木を伝って走ると、近くの木々の陰に数人の人影が見えた。
同じデザインの鎧を身にまとった騎士が二人。役目を果した彼らは、少年に声をかけることもなくこの場から立ち去っていく。彼等も悠々としては居られないのだ。
少年は駆け出した騎士達に言葉を投げかけることもなく、たった今彼等に切り倒された大樹の切り株に近づいていく。
そしてバスケットの中からいくつもの粒を掴み取り、切り株へとその粒をばら撒いた。
「ぃよし!」
少年は騎士達が駆けて行った方角と正反対の方向へと体を向け、再び駆け出した。
子鼠が足を止めずにその切り株の様子を横目で見遣る。粒、いやその「種」は、既に発芽を始めていた。
体勢を崩しつつも、少年は荒れた呼吸をそのままにまだ暗い森の中を駆けて行く。
地面が揺れていた。地表から熱を感じた。
額に浮かんだ汗が、少年の焦燥感を逆撫でる。
* * *
「全ての目標、伐採完了しました!」
森のすぐ傍で待機を続けていた騎士団に動きがあった。
最後に森から戻った二人の騎士から報告を受け、騎士団長シンハーは頷いて振り返る。
「――あとは、あんたの『使い』を待つだけですよ」
シンハーのすぐ後ろで両手を組んだその女は、真っ赤な紅を引いた唇の端を吊り上げた。
* * *
「アレが最後か!」
数十秒と経たずに、少年は最後の目的地を視界に捉えた。
先ほど見た物と同じように切り倒された樹木が、周囲の小さな木々をなぎ倒している。この辺りで一番の大樹だった。
「エリィ、急いで」
少年の後を追っていた子鼠が、少年の後ろから声を張る。
「時間がない」
「わかってんだよそんなこと!」
エリィと呼ばれた少年が、舌打ち交じりに答えた。大樹の幹を辿って、その切り株を発見する。再びバスケットに手を突っ込んだエリィが切り株に駆け寄った途端、突然の地響きが彼を襲う。
「おあっ」
体勢を大きく崩したエリィは、頭を切り株に強打してしまった。
「いってぇ!!」
鈍い音を立てて額を強打したエリィが起き上がり、涙目で額を押さえる。その衝撃で彼の手の中から飛び出した種が、見事切り株に着生した。
駆けつけた子鼠がその様子を見て頷く。
「よし、早く帰ろう」
心配する素振りの無い子鼠を忌々しそうに睨みつけながら、エリィはその後を追う。尚も揺れる地面に、エリィの足がだんだんと遅くなっていく。
「げ……っ」
注意こそしていたものの、足元に突然現れた小さな障害物にエリィは足を取られてしまった。
尻餅をついたエリィの足元の地盤が、更に大きく崩れていく。
「やべ……!」
地響きはやがて地鳴りとなり、地殻が大きく揺れていく。地表が割れ、平面だった場所に段差が生まれる。
地の下にあったはずの根が、次から次へと顔を出す。
「エリィ!」
地面にしがみついた子鼠が、その名を呼んだ。
瞬間、辺りを眩い輝きが埋め尽くしていく。
「――――っ!」
エリィは強張る体をそのままに、ぐっとその瞳を閉ざした。
* * *
揺れに耐えるように膝をついた騎士達の後ろで、ハイヒールを履いたその女が立っていた。組んだ腕もそのままに、まるで彼女が立っているその場所だけ、異変など何も起きていないかのように。
「いいんスか、あんたの『使い』さん、まだ帰ってきてないでしょ」
眉を寄せたシンハーに、しかし女は表情一つ変えずに言葉を返す。
「構わぬよ。ヤツは出来る子じゃからのう」
組んでいた腕を解き、ゆっくりと広げていく。まるで目の前に存在する全てを、抱き止めるように。
その様子を冷や汗交じりに見つめていたシンハーが、呆れたように呟く。
「聞いてる通りの自由っぷりだな、この『魔女』さんは……」
彼女の銀の長髪が揺れた。指先の長い爪まで妖艶なその様は、正に。
「総員、衝撃に備えろ!」
魔女と呼ぶに、相応しい。
「舌を噛みたくなければ口を閉ざしておけ!」
シンハーが声を上げる。
女が一度瞳を伏せ、やがて天を仰いだ。
周囲の空気が、気配が、彼女に魅せられる。
動き出す。
「さあ。始めよう、明日の日の出を守るべく」
いくつもの光線が、森の中から溢れた。それは先ほどまでエリィが種を撒いていた切り株から、一斉に空へと伸びた光だ。
発芽を始めていた種が一斉に急成長を始める。巨大な蔦が伸びる。天まで昇る。絡まりあい、一つのドームを作っていく。
蔦のドームはやがて圧縮され、その『空間』を押しつぶしていく。
はち切れんばかりの圧力に対抗するように、女が伸ばしていた手を曲げる。両の手のひらで、自らの胸の前の空間を押しつぶしていく。
その動きとシンクロするように、目の前の巨大なドームも更なる収縮を始めた。
騎士達が歯を食いしばり、目の前で起こっている出来事に目を奪われる。眩しいのに、眩しくはない。そんな不思議な輝きが、蔦のドームを包み込んでいた。
女の両手が、少しずつ距離を詰めていく。
やがて、細い指先が絡まった。
「!」
シンハーが衝撃に目を閉ざす。十数人の騎士達も同様に、今まで食い入るように見つめていたドームから視線をそらした。
体の芯を握り締められるような圧迫感に、一瞬騎士達の呼吸が止まった。
今度こそ、目も向けて入られないほどの強力な輝きが生まれる。ほんの一瞬だけ、時間を昼に戻したかのように。
蔦が朽ちていく。光が収まっていく。
気付けば、立っていられなかったほどの揺れが収まっていた。
騎士達が目を開く。そこは、普段と何も変わらない夜であった。
呆気に取られていたシンハーが、はっと我を取り戻し振り返る。既に女は、彼等に背を向けていた。
「後処理はお主らの仕事じゃよ」
シンハーがなにか声をかけるよりも先に、女が口を開く。
ほんの少し振り向いた女の横顔は、月明かりの下で妖艶に微笑む。
* * *
荒れ果てた森のほんの一部分に、花が咲いていた。
いや、正しくは、いくつもの花弁が落ちていた。
「終わったか……」
そんな花弁の絨毯の上で安堵のため息をついたエリィが、自分の上に覆いかぶさるように倒れ込んだ、一人の青年の背を叩く。
「おーい、終わったぞ」
桃色の髪がエリィの顔をくすぐった。困り果てたように頭を掻いたエリィが、ぐっと力を込めてその青年の体を押しのける。
「う……」
眉間に皺をよせた青年が、苦しそうに声を漏らした。その髪色は、先ほどまでエリィの傍を駆けていた子鼠と同じ色だ。
エリィはため息交じりに周囲の様子を確認した。
「はあ、また派手にやったな……」
荒れ果てた地であることは間違いないが、先ほどまでの絶望感は感じられない。崩れかけていた地面は最低限の平面を保ち、木々の殆どがその地面にしっかりと根を下ろしている。
「なあ、起きろってヨル。人型のお前を、俺は運べねーぞ」
桃色の髪を持った青年、ヨルが再びうめき声を漏らすと、その体はぽんと子鼠に形を変える。
すっかり目を回してしまったらしいヨルを片手で抱き上げて、エリィが「よっこらせ」と声に出しながら立ち上がった。
「ったく。ヨルはともかく、俺は不死身じゃねーんだぞ……」
すぐ傍に落ちていたバスケットを手に取り、その中にヨルを入れる。
「は~ぁあ! 今日も『お使い』完了ですよっと!」
ズボンについていた花弁を払い落とし、エリィは周囲の障害物を避けつつ、道なき道を進んでいった。