ミエーレとアルケイデア
シンハーの馬車に同乗した二人の一匹は、ミエーレ王国の首都カトまで、凡そ半日もかからず移動した。
城の門を潜ると、エリィは国の賓客として迎え入れられた。何度か体験済みではあるが、「魔女の使い」としてのもてなしを受ける度に、ジェシカという魔女の偉大さのようなものを感じざるを得ない。
確かに彼女の魔法は強大だ。一度会話を交わせば、その偉大さに対する尊敬の念を打ち消される程の変わり者ではあるが。
「道中お疲れ様でございました。応接間へご案内致します」
「いや、対応は全部俺がやるんで。大丈夫っス」
名乗りを上げた使用人を下がらせ、シンハーが自らエリィとニーナを案内する。豪華絢爛な廊下をシンハーに先導されるままに進み、休む間も無く巨大な応接間へと通された。白を基調とした城の内部は、床と壁の全てが大理石で出来ている。
ジェシカの屋敷のものとは比べ物にならないほどに豪華で手入れの行き届いたシャンデリア、深い緑の重厚感のあるカーテンと、カトを一望できる曇り一つ無い巨大な窓。何処からともなく香る甘い香りは、庭に咲く薔薇だろうか。
ここへ来るまでにすれ違った何人もの使用人の女性さえも、エリィが今来ている衣類よりも随分と立派な服を着ていた。
シンハーに促されるまま、エリィはソファに座る。ニーナにも声をかけたが、彼女はあくまでも「同行人」であると主張し、従者のようにエリィの脇に立った。
「気にしなくていいんだぞ、同行人ってのはその場限りの表現で……」
「いえ、いいの。この方が、なんだか落ち着くから」
にこりと笑ったニーナに、エリィはそれ以上何も言わない。
見知った者の他には誰も居ないというのに、ソファに浅く腰掛けたエリィの背中が無意識のうちに伸びた。
やがてシンハーが王子を呼びに行くと言って部屋を出ると、城に足を踏み入れてからため込んでいた緊張をようやく吐き出す様に息を吐く。
「緊張しているの?」
どこか驚いたようにそう問いかけてきたニーナに、エリィが薄目を開けて答える。
「いくらなんでも、城を自由に出入り出来るような立場じゃねーんだよ。慣れてねぇの。変に動いて、このソファとか傷つけちまったら俺弁償出来ねーし……」
ニーナが断ったことで空席となっていた場所で、ソファの弾力に酔いしれるように、ヨルが鼠の姿のままごろごろと身を揺らしている。鍛え上げた精神力から来る行動か、それともただ何も考えていないのか。エリィは冷ややかな目でそんなヨルを睨みつける。
そんな二人の様子に、ニーナが小さく笑みを零した。
「お前、そわそわしねーの?」
「えっ?」
「こんなとこ、居るだけで息が詰まらねぇ?」
エリィが伸ばした背筋もそのままに、首を曲げてニーナを見上げている。
「そ、そうかしら。別に普通じゃない?」
「いや王宮だぞ、普通じゃねーだろ。……ははぁ。さてはお前、金持ちだな?」
じっと見つめてくるエリィに、ニーナは苦笑を浮かべてはぐらかす。
ジェシカの名声と活躍のおかげでエリィが生活に困ることはないが、贅沢が出来る身分とは言い難い。いや、確かにエリィたち一家にはそれなりの貯蓄がある。
しかしその家主はあくまでもジェシカ。自由気ままに散財することも可能ではあろうが、エリィはその後のジェシカが恐ろしいのだ。
「あのねエリィ。アンジエーラ族っていうのは、アルケイデア国内では相当高い身分にあるんだ。アルケイデアの王族とその側近や権力者たちはみんなアンジエーラ。そうじゃなくても、アンジエーラ族に生まれた人間は高い地位を約束されてる。彼女も例外じゃないんだよ」
困惑気味に視線を泳がしていたニーナを救うように言葉を発したのは、ソファの上に腰を下ろしたヨルだった。
「そうなのか?」
「どんな身分だったにしろ、アンジエーラ族にとってアルケイデアの王宮は職場で、家みたいなものってこと。そうでしょ?」
意外な助け舟に軽く放心していたニーナが、再び向けられたエリィの純粋な瞳に頷く。
「え、ええ。まあ、そうね」
「ふーん。……なあ、折角こんな時間も取れたし、俺にアルケイデアの話を聞かせてくれよ」
驚いた様子のニーナへと、エリィが体を逸らして視線を向ける。柔らかなソファの背もたれに、エリィの後頭部が埋まった。
「なんかしばらく待ちそうだろ? 俺、あんまりアルケイデアのこと知らなくてさ」
ニーナは少し困ったように眉を寄せたが、しかしすぐに答えられる範囲なら、と承諾した。確かに扉の外に人の気配はない。廊下を歩いている間も周囲の部屋から声が聞こえることはなかった。
大きな声で話さなければ、自分たちの会話が外に漏れ出ることもないだろう。
「私も街中を歩くことがないから、城下の詳しい話は出来ないけれど」
「そうなのか? 買い出しとかはどうしてるんだよ」
「城に居れば、誰かしらが用意してくれていたわ」
そんなもんか、とエリィは一人納得して足を揺らす。
「それで? アルケイデアってどういう国なんだ?」
どういう国とはまた粗掴みな質問だ。ニーナは少し考えてから、言葉を選ぶように答えていく。
「私たちの御先祖であるアンジエーラ族が建国した国よ。国民にはヒトもザデアスも居るわ。でも、圧倒的にヒトの方が多いわね。……そうだ、ゲルダはザデアスよね? なんていう種族なの?」
「ドラグニア族だぜ。ミエーレだと多い方だけど、アルケイデアには居ねーの?」
ニーナが本では見て知っていたが、と頷いた。
「基本的な生活リズムは、恐らくこの国の人たちと変わらないと思うわ。あと、この国には騎士団が居るけれど、私の国にあるのは『守護団』っていうの。まあ名前が違うだけなのだけれど」
それからニーナは基本的なアルケイデアの生活について説明していく。十日以上も離れている故郷を思い出す度に、ニーナの表情はどこか柔らくなっていった。
全く同じ習慣もあれば、エリィが聞いたこともない風習もある。
その一つ一つを、エリィは興味深そうに聞いていく。
「そうね、あとは……。アルケイデアの人はね、大切な人と別れるとき、その身の回りの何かを一つ、相手に託す風習があるのよ」
「身の回りの何か? なんでだ?」
ニーナは胸元に手を当てて答えた。
「離れている間も、その人を信じているという証よ。そして、離れている間にその人に危険が及ばないように、なんて思いも込められているの。もしもその身に何かがあれば、自分の代わりにその人を守るようにと」
ミエーレでも似たようなことをする者は居るだろうが、決して風習化しているわけではない。
エリィは興味深そうに唸り声をあげた。
「近い国なのに、やっぱり色々と違うもんだな」
「当然よ。私たちの先祖は五十年前に袂を分かって以来、全く違う二つの世界を築き上げたんだもの」
ミエーレとアルケイデア。二つの国は、デーヴァ族とアンジエーラ族という二つの種族が、争いに勝ち残ったことで生まれた。
しかし正しくは。
争いの終結は二者の勝利によるものではなく、五十年前の天変地異によるものであった。
それは世界の危機に立ち会った人々が「争っている場合ではない」と強者の者に集った、大きな歴史の転換点。言い換えれば、その出来事が無ければ、人々は今も争いの中に身を投じていただろうということだ。
「天変地異のおかげで、今の平和がある。でもそんな天変地異が、今は小さな異常現象として人々の恐怖の対象になっている……。なんだか皮肉ね」
ニーナは失笑する。
「この五十年の間、二つの国は互いに手を取り合うことなく成長を続けてきた。きっとこれからも、アルケイデアとミエーレが共に歩むことはないわ。だって、争いの決着はまだついていないんだもの」
互いに干渉せず、ただ黙々と、二つの種族は国という集合体を成長させていた。
争いはまだ終わっていないのだということを、平和に生きる人々へ思い出させないように。
「なんでだろうな?」
思いもよらない問いかけが続き、再びニーナは言葉を止める。
それこそ、理由は数え切れない程あるだろう。ただ一言で表せられるような小さなものから、当時を生きた一人ひとりの心情を聞き、全てを文章にしてようやく形を成すような莫大なものまで。
「なんで、一緒に頑張れねーんだろうな」
それは五十年前の天変地異が起こるまで、長きにわたって続いていたザデアス内での抗争と、ヒトとザデアスの間に生まれていた圧倒的な力の差。そんな現実の中で生命の危機に直面した、権力者たちの「選択」に直結している。
彼らは手を取り合うよりも、互いに干渉しないことを選択した。
こうするしかなかったのだと、『選択』を迫られた誰もが言うだろう。
「…………」
しかし彼にとってそんな過去の話などどうでもいいのだと、ニーナは直感した。
「――俺たち、こんなに似てるのにな」
考えたこともなかった。
ふと、耳鳴りがした。ニーナは自身の意識が、今は遠くの一室に引きずられるように感じた。
幼い少女が、スカートの端を握りしめて泣いていた。大人が、少女を叱咤していた。
彼らとは違うのだ。そんな言葉を、何度も聞かされた。
静かで冷たい、奥の、奥の離れで。
「って、そんなこと今更俺が言っても仕方ねーか」
はっと意識を取り戻したニーナが、エリィの赤い髪を見て胸を撫でおろす。ここはミエーレの首都にある城の一部屋で、自分は今エリィと共に居る。
動悸を抑えながら、細く息を吐いた。
先ほど見た景色は、感覚は、ただの幻だ。
指遊びを繰り返していたエリィが、再び首を動かした。
「そう言えばちょっと前に聞いた話だけど、今って次の国王が決まらなくてヤバいんだろ? もう大丈夫なのか?」
彼に他意はない。ただの時間つぶしの続きだった。
「ニーナ?」
彼女の、強張った表情を見るまでは。