忠告
屋敷に戻ったエリィは早速自室へと足を運び、ヨルの様子を見る。
子鼠は朝と同じように、エリィのベッドの枕元で丸くなって、寝息を立てていた。
困惑しながらも、流石に明日には目を覚ますと思うと言ったエリィに頷き、ニーナは借りている客間へと戻った。
* * *
夜が更ける。
何度目かの寝返りを打ち、ニーナは閉ざしていた瞳を開く。
不安と焦燥からだろうか。眠気らしいものは一向に彼女の元には訪れない。
起き上がったニーナは靴を履き、ふらりと窓に近づいた。カーテンを開けると、雲の上からおぼろげな月明りが彼女に降り注ぐ。
同じ空だ、とニーナは思った。
アルケイデアと、同じ空。
「何しに来たの」
「っ!」
突然投げかけられた声に、ニーナは肩を震わせた。その背から彼女の細い体を囲う様に、純白の翼が姿を現す。
振り返ったニーナが、小さな訪問者を視界に捉えて息を飲む。
エリィの元で眠っていたはずの、子鼠だ。
「あ……」
扉は閉まっている。一体どこから入ってきたというのだろう。あまりの衝撃にニーナが言葉を発せずにいると、ヨルは鋭い眼光で彼女を刺し貫いた。
「アンジエーラ族。『天使』を自称する愚かなザデアス……。その力もコントロール出来ていないような君が、今更彼に何の用?」
ニーナは自身の翼を隠すように抱きかかえると、一度息を吐いてその翼を仕舞う。
答える必要は無い。そんな言葉を用意したにも関わらず、ニーナの口から溢れた言葉は全く異なるものだった。
「……探し物を、しているの」
「それは何かな。わざわざ敵国の魔女を、その使いを頼らなければ、見つからないようなもの?」
間髪入れず問いかけを続けるヨルの言葉に、ニーナは本能が震えるのを感じた。
この存在は何だ。目の前に居るというのに。たった今、自分自身と対話をしているというのに。
ずっと遠くに、自分たちには手の届かない場所に居るような――。
「『アレクシス』よ」
ヨルの瞳が、暗闇の中で揺れた。
「世界を破壊する兵器『アレクシス』。私は、それを壊さないといけない」
「どうして、君がそんなことをする必要が?」
言えない。そう答えようとして、ニーナは喉の奥まで出した言葉を、飲み込んだ。
なんなのだ、この感覚は。
否応にも膝をつき頭を垂れ、その全てに従ってしまいたくなるような。
この小さな存在から感じる、圧倒的な威風は。
「……壊して欲しいと、言われたからよ」
「誰に」
「私の、大切な人」
この少女は、世界を守るために探しているのではない。世界を守ろうなどという、そんな大それた目的を、彼女のようなただの少女が抱くはずもない。
そんな確信があったからこそ、ヨルはここへ来たのだ。
「そう。納得したよ」
そしてその確信が証明されたことで、再びヨルは問いを投げつける。
「君は、『アレクシス』をどこまで知っているのかな」
無回答は許さない。既にニーナは、この子鼠の支配下にあった。
生唾を飲み込んで、ニーナは答えていく。
「世界を、壊せるだけの兵器だということ。五十年前の天変地異に、深く関わりを持っていること」
「それだけ?」
「……それだけよ」
虚言は無意味だと理解していたからこそ、ニーナにはこれ以上彼へと伝える事柄はなかった。
「そう」
ヨルが小さく頷いた。逸らされた視線に、ニーナは心の中でほっと息をつく。張り詰めていた緊張の糸を、ほんの一瞬緩める様に。
「『ソレ』の話をどこから仕入れたのかは知らないけど、どうやら君自身は、『ソレ』自体に興味があるわけじゃないみたいだね」
その一瞬が、彼女の自由を奪った。
「ぁ、」
喉奥から漏れ出るか細い声は、言葉にも、悲鳴にも成らずにニーナの口から逃げていく。
体内の力を全て奪われていくような感覚に襲われた。両の足から力が抜け、膝をつく。掴まれた腕が引かれ、ニーナは顔を上げた。
埃が舞う。窓から差し込む月明りに反射して、幻想的だった。
そんな幻想の中心に居たのは、子鼠ではない。
そこに在ったのは、桃色の髪を持った一人の青年だ。
いや、人の形を成した――、自分とは異なる「何か」だ。
「―――――――――ッ」
目の前に迫る丹精な顔に、目を、意識を、奪われる。
「例え『ソレ』が……、何であったと、しても。その『大切な人』のために、本当に君は……『ソレ』を、壊すことが出来るのかな」
どこか力ないその声が、血の気を感じさせない蒼白の唇から溢れ出す。
その問いかけを、ニーナは理解することが出来なかった。
口を開く。言葉は出ない。
「君が、中途半端な気持ちで『ソレ』に臨むなら……。君も、僕たちも、ただその身を危険に、晒すだけだ」
さらに近づいたその真っ白な顔が、整いすぎて恐ろしい。
「もし……。君のせいで、エリィに危険が迫ったら」
冷ややかな吐息が、瞳が、声が、ニーナの呼吸を奪っていく。
「僕はエリィを守るために――。君を、殺すよ」
呪いのように。その一言が、彼女の脳髄にまで染み込んで、着色する。
手を離され、ニーナはその場にへたり込んだ。
ふらりと立ち上がった青年は、すぐにその姿を小さな愛らしい子鼠のそれへと戻していく。
困惑、遺憾、萎縮。そして、畏怖。
止まらない感情の渦に、涙さえ浮かばない。
「『アレクシス』は、君が思っている以上に厄介で、複雑な存在だよ。君の大切な人が、どういう意図でそんなお願いを君にしたのかは知らないけど……。一度、よく考えないといけない時が来る」
ただ自身を見つめてくるニーナへと、ヨルは振り返らずに言葉を続けた。
「本当に君は、言われたままに動いて良いのかどうかをね」
そう言い残して、ヨルは部屋のどこかへと消えていった。物音はない。恐らくこの屋敷には、彼専用の小さな通路がいくつも存在しているのだろう。
一人窓際に残されたニーナは、ようやく呼吸の仕方を思い出したように思い切り息を吸い込んだ。
何度か荒い呼吸を繰り返し、体内の隅々まで欠乏していた酸素を送り届けていく。
ようやく彼女の心に追いつくように、その体は小刻みに震え始めた。
「本当に、動いて良いのか、どうか……」
肩を抱き、再び広げた翼で自身の体を包み込む。冷え切った体を、徐々に温めていく。
「当然よ……。だって、私はあの人のおかげで……」
膝を抱えたニーナが、自分に言い聞かせるように呟く。
あの人は、『アレクシス』が何かを知っているのだろうか。
だとしたら、どうして教えてはくれなかったのだろう。
(いいえ。詳しい話なんて、私が知る必要はない。私はただ、あの人の望みを叶えるだけ、そうでしょ……?)
止まらない疑問と不安、それを振り払おうとする理性に目が回る。
「全ては、ダリアラ様のためだもの――」
ニーナは長い睫毛を伏せ、やがて瞳を閉じた。




