そして、花が咲く
「そろそろ、迎えに行かなければ」
再びマリーが瞳を上げたとき、エリィは周囲に咲き誇っていたはずの純白の花々が、いつの間にかオレンジに変化していたことに気付いた。
凛と咲き誇るその色は、この数日の間に何度も目にした山吹色によく似ていた。
マリーの視線が二人の進んでいた先へ向けられる。エリィがその後を追うと、開かれ続けていた道の終わりが見えた。
そこでは、枯れ果てた巨木の幹に寄りかかるように、道の終点で一人の青年が腰を下ろしていた。
「ダリアラ」
エリィがその名を呼ぶが、彼の体は少しも動かない。マリーは心配ないと言いたげにエリィへと目配せをして、真っ直ぐにその青年の元へ歩みを進めていく。
やがて足を止めると、マリーはゆっくりとダリアラの前にしゃがみ込んだ。
閉ざされた瞳を撫でるように手を添え、その頬を撫でる。ダリアラは何も答えずに、ただその接触に身を任せていた。
「ありがとう。マリーの意思を、継いでくれて」
眠っているのか、それともただ目を閉ざしているだけなのか。マリーの背に隠れた彼の姿を、エリィの視線が捕らえることは出来ない。
エリィは何も言わずに、ゆっくりと二人の元へ近づいた。マリーもまた、彼の行動に少しの戸惑いを見せることはない。
ダリアラの頬に添えていた自身の手を、彼の手のひらへと移していく。
「消滅の時を待つだけのこの世界に、進化は必要とされません。それでもあなたは、その力を持っている」
マリーはエリィへと語りかけた。
ダリアラの手を取り、もう片方の手のひらをエリィへと差し出す。再び立ち上がったマリーへと、エリィは静かに頷いた。
差し出された細く白い手のひらに自身の手を乗せ、ぐっと握りしめる。自分とまったく同じ体温を持つその手は、答えるようにエリィの手を握り返した。
「終わらせよう、ダリアラ」
マリーの体を経由して、ダリアラの鼓動が聞こえるようだった。あまりに弱々しく、エリィの脳裏に病弱な少年の姿を想像させる。
それはあまりに孤独で、冷たく、悲しい記憶だ。
「――世界が終わるまで、この戦いは終わらない」
その声にはっと顔を上げると、ダリアラがニーナと同じ色の瞳でエリィを見つめていた。
「目的を果たすその日まで、この世界がアレクシスという呪いから解放されることはない。……私たちのように」
エリィは、初めて彼と対峙した日を思い出した。
その日、彼はエリィに問いかけた。「物語が終わったら、次に何がしたい?」と。
「……なら、俺が止めてやる」
ダリアラの瞳が揺らいだ。
「あんたが、どんな想いでこれまでの人生を過ごしてきたのかなんて、俺にはわかんねー。でも、あんたなりに、この繰り返しを終わらせようって、ずっと頑張ってくれてたんだよな」
正直これほど時間が経っても、エリィは自分自身を「兵器」だと完全に自覚することが出来ずにいた。ただの魔女の使いとして生きて来た自分が、生まれたときからその自覚を持っていたダリアラの前で、アレクシスとしての覚悟など口が裂けても言えるわけもないとわかっていた。
「俺の知らないところで、一人ぼっちで、ずっと戦い続けてくれたんだ。家族に……ハイドラやニーナに、刃を向けてでも」
それでもエリィは、その痛みを知らなければならないと思った。
「だからこれからは、俺がその役割を引き継ぐよ」
これまで知らずにいた日々を償うために。
「……この呪いを相手に、お前ひとりで戦えるとは思えないが」
しばらく黙ってエリィの様子を見つめていたダリアラが、わざとらしく鼻で笑ってみせる。しかしエリィは一層強い意思を持って首を横に振ってみせた。
「何言ってんだ。もう俺たちは戦わない」
エリィの口角が上がると、彼の周囲にふわりと薄紫が舞った。
「守るんだよ。俺たちは、世界を救済する兵器なんだろ?」
三人の兄弟が共にランチを取るにはうってつけの、朗らかな気候だった。彼らがただの人間として生まれ、共に育ち、たまに揃ってランチを囲む。存在しない現実を、ダリアラは容易く想像することが出来た。
その景色の中で笑う二人は、何時しかエリィとマリーから、本物の兄妹へと変わっていた。
「…………」
ダリアラの肌から剥がれ落ちるかのように、柔らかなオレンジの花弁が舞い上がっていく。それはゆっくりと色彩を薄紫へ変えながら、ダリアラが寄りかかっていた枯れ木へと集まっていった。
「まずは、あんたからだ。ダリアラ」
エリィは両膝を付いて、マリーの手を両手で握った。
まるで教会の中心で、神に祈りを捧げる聖職者のように。
薄紫色の花弁が枯れ木の枝に触れると、徐々に命を取り戻すかのように枝が若返っていく。花弁は艶を取り戻した枝に留まり、やがて薄紫の葉となった。その葉が幾重にも茂り陽だまりの元にそよぐと、徐々に枝の至る所につぼみが芽吹いた。
ダリアラは霞んでいく視界の先に、美しい生命の息吹を見つめていた。
二人の家族の姿を、思い描きながら。
「俺の進花の力で、あんたをこの呪いから救ってやる!」
エリィの言葉に答えるように、ダリアラの体から一気にオレンジ色が吹き出し、すぐに薄紫がその場を埋め尽くす。その柔らかな衝撃に思わず目を開いたエリィが見た先にあったのは、つぼみを一斉に開き、無数の薄紫の間から山吹色の大輪を咲かせた美しい巨木だった。
まるで現実離れした美しい光景が、桃源郷という言葉をエリィに思い起こさせる。
この世界に遺された神の力を、無害の花へと昇華する。それが、自身が持って生まれた『進花』の力なのだと、今度こそ理解した。
マリーもまた、エリィと同じ様に暫くその景色に魅入っていた。しかしこれまで痛いほど握られていたはずの手からエリィの感覚が消えたとき、マリーは目の前の絶景から再び彼へと意識を戻す。
振り返った先で、エリィはゆっくりと深呼吸を繰り返していた。これほど強大な力を使ったのだ。その疲労感は想像に難くない。
そしてそれは、彼がこの空間で為すべきことを終えた合図でもある。
マリーはどこか名残惜しそうに眉を寄せ、エリィの赤い髪をサラリと撫でた。
「ずっと、見守っています。どうか、後悔のない旅路を進んでください」
聖母のようなマリーの声が、エリィの頭上から落ちてくる。
エリィは彼を見上げてその姿を見収めた後、再び視線を瞳の高さへと戻した。マリーと手を繋いだまま、言葉も無いまま。ただエリィの視線に答えるように、ダリアラはゆっくりと顔を下ろした。
幼子のように揺らぐ双眼が、静かに別れを告げたようだった。
後は頼むと、エリィの背を押す様に。