本能
「く……っ!」
耳を裂くような衝撃音と共に、強い風圧がニーナの淡く青い髪を巻き上げた。
明らかに自分の方が優位な立場にあるというのに、ニーナを押し上げてくるのは圧倒的な力だ。彼女が剣の柄を握る手の皮が剥けてしまいそうな程の。
それはきっと、彼がダリアラとして生きた年月で、彼が抱え続けて来た宿命という圧力の全てなのだろう。
彼が自室で時折見せた、寂し気な表情の成れの果て。行き場のない感情の、成れの果てだ。
ダリアラであり、生まれながらにアレクシスであった彼は、誰にも想像できないほどの迷いを経験し、そして迷うことを辞めた瞬間があったに違いない。
ハイドラにも、ニーナにも気付かれぬうちに。
「っあ!」
やがて押し負けたニーナの体が弾き飛ばされ、地面に叩きつけられると同時に砂埃を巻き上げる。体中を駆け巡る痛みに耐えながら、ニーナは数回吐き出す様な咳を繰り返した。
しかし呼吸を整える暇はない。一瞬で影に覆われた頭上に目を向け、ニーナの体が強張った。
ダリアラの背後で、満月を携えた空の色が定まらない。この足の重みは緊張や疲弊によるものではなく、巨大化していく空間の歪みがそうさせているのだろうとわかった。呼吸がなかなか落ち着かないのも、空気が徐々に薄くなっているから。この世界の終焉は、もう目前に迫っているのだ。
ダリアラを中心に無数の山吹色が矛となり、ニーナの命を狙う。
見上げた先にいるのは、これまで何度も恐怖を植え付けられ、絶望を嫌というほど感じさせられたアレクシスとしての姿の兄。
しかしその存在に、この時不思議とニーナの恐怖心が煽られることはなかった。
「ダリアラ様……」
ゆっくりと上半身を起こして、ニーナは真っ直ぐにダリアラの瞳を見上げた。
これまで気付けなかった兄の孤独から、今度こそ目を背けてはならない。
ただそれだけが、ニーナの思考を繋ぎ止めていた。
「……」
永遠にも感じられたその一瞬の間、ニーナはここ数年で最も長く、最も凝然として、兄の表情を眺めていた。呼吸すら忘れて、不躾なほどに。
ニーナの意識が、研ぎ澄まされていく。
もう一人の兄によく似た顔立ちに、笑みはない。
「……ろ」
ニーナは気付いていた。
「やめ、ろ」
自分がここへ戻ってきてから、彼はずっと苦しそうだった。
「見るな」
ダリアラはずっと、泣きそうな顔をしていた。
「そんな目で、俺を見るな!!」
遠くで自分の名を叫ぶ少年の声が聞こえた。そんなエリィの声をかき消すかのように、無数の矛先がニーナを狙い、ダリアラの声に答えて空を切り飛翔する。
重い体は、座り込んだ足は、ほんの少しも動きそうにない。迫りくる無数の危機を前に、ニーナはただダリアラから目を逸らさずに居た。
彼女の近くをかすめた矛が髪を切り落とし、腕や太もも、頬の皮膚を切る。重量を感じる音と共に、矛先が地面に届き砂埃を舞う。
それでも、ニーナの意識が途切れることは無かった。
「…………」
猛攻が終わり、痛みに顔を歪めていたのはダリアラだった。
見えない痛みが、彼の表情をそうさせていた。
彼が飛ばした全ての矛はニーナの急所を捉えることなく地面へと突き刺さり、山吹色の粒子へと変化し消えていく。
幼子のように意味のない言葉を吐き捨てながら、ダリアラが額を抑えた。
「もう終わりにしましょう! ダリアラ兄様!」
そんなニーナの言葉に意識を奪われ、背後から迫った脅威への反応がほんの少し遅れてしまった。ダリアラは振り向きざまに翼を広げ空中へと逃亡を図るが、ヨルはそれを許さない。
「っぐ!」
むしろ翼を広げたばかりに、ヨルの鎌は嬉々として巨大化した的を捉えた。切り落とされた漆黒の翼から、黒や紫に近い色をした血液が溢れ出る。
落下中に体制を立て直したダリアラだったが、彼の靴裏が地表に触れた瞬間、その細く長い脚をニーナの回し蹴りが掬った。ぐらりと体制を崩したダリアラは、それでも反撃の手を休めずに再び山吹色を集めていく。
その時、ニーナの視線が、遂にダリアラから外された。
彼女の視線を追いかけ振り向いた先で、少年と目が合った。
「お前――」
山吹色の花弁はダリアラの思い描く形を成すよりも先に、そこに居た少年の手によって消え失せてしまった。
いや、正しくは還っていったのだろうか。
本来の主人の元へ。
「エリィ!!」
彼を信じた誰もが、この瞬間に居合わせた誰もが、その名を呼んだ。
エリィは衝動のまま、ダリアラへと手を伸ばした。
身体中から溢れ出る熱の正体を、エリィは昔から知っていたような気がした。
自身がエリィとして生まれ落ちるよりも、ずっと昔から。
意識を保て。飲み込まれるな、このうだるような熱さに。
力を籠めろ。身を任せるな、この心地よい浮遊感に。
二人のアレクシスの指先が触れ合い、しかしダリアラの手が何かを掴むことはない。
エリィの細い指は彼の手のひらをかすめ、その手首を握りしめた。
「変われ! アレクシス――――!!」
エリィがダリアラの腕を引く。
彼の力に答えるように山吹色が吹き荒れ、やがて薄紫へとその色を変えていく。




