最後の慈悲
ダリアラは一度剣を降ろし、軽蔑を含んだ瞳でニーナを見下ろした。
「それ程までに大切か? あの人間が」
ダリアラの記憶の中にある彼女の瞳には、尊敬と小さな畏怖、そして慈しみが含まれていたはずだ。
そんな妹の姿は、今、この場のどこにも無い。
「神に成り損なった人間に、一体何の価値がある?」
山吹色の剣が、ニーナを挑発するようにはらはらと花弁を散らしている。何の抵抗もなく、ただ崩れかけた床へと落ちて、赤と黒に染まっていく。
「お前が庇い、信じ、慈しみを向けるだけの価値が、あの男の何処にある?!」
びりびりとニーナの皮膚が痺れた。今のダリアラに抱く感情は、恐ろしさだ。ジェシカの屋敷で、ヨルに感じたものとよく似ている。得体の知れないものを前に、体が竦む感覚。
それでも立ちすくみ、膝を折り、首を垂れては駄目だと、ニーナは自らの意思を奮い立たせた。
怒りのままに、ニーナは兄の姿を見つめ続けた。
自分が選ぶと、決めたのだ。
たとえ兄を、独りにしたとしても。
「……不愉快だ」
無言を貫き通したニーナへと、ダリアラは短く言葉を吐き捨てた。ニーナの腕を掴み、彼女の体を引き寄せる。
「おい!」
その一瞬の間に、彼女の体を繋ぎとめる力など、ハイドラには残されていない。それでも咄嗟に伸ばした腕が、これまでに作った傷の存在を主張し激痛を訴えた。
痛みにしわを寄せたハイドラの眉間を、ダリアラの低いヒールが蹴り飛ばす。
「ぐ……ッ!」
「ハイドラ様!」
顎を掴まれ、ハイドラへと無理やり向けられたニーナの視線が、強制的にダリアラの瞳へと吸い込まれる。
今お前の前に居るのは誰だ、と。その瞳が問いかけている。
恐ろしいほどに美しく、深い金色が、ニーナから声を奪い去った。
「お前は何か、勘違いをしているようだな」
彼の周りを、山吹色の花弁が舞っている。夜空を彩る、星々の様に。
「魔法とは、神の力。愚かにも人間に近づきすぎた神が、人間へ与えた武力に過ぎない」
芯から体が凍り付くような殺意だった。顎を掴んでいた彼の片手が離れ、何かを呼び寄せるような動きを繰り返す。
花弁となっていた山吹色が、その動きに答えるように、彼の手の内で再び剣の形を生成していく。
鋭利な刃物は、たった一突きでニーナの命を奪い去るだろう。
主観的にも、客観的にも、そんな一寸先の未来は簡単に想像することが出来た。
丸腰の自分は、この力を前に、圧倒的に無力だ。
ニーナへと見せつける様に、山吹色の剣を降り上げる。ダリアラの声に答え、彼の肌に浮かぶ幾何学模様の輝きが増していく。
殺される。
そうわかっているというのに、ニーナの体は抵抗を躊躇った。
(……この違和感は、何?)
例え希望的観測なのだとしても、この違和感に目を背けることが出来ない。
「私が教えてあげよう、ニーナ」
この数日の間に、何度も何度も経験した殺意だ。今更、勘違いなどあってなるものか。
そう頭では理解しているというのに、どうしても、心の底から恐怖に身を捩ることが出来ない。
「これが、神の力の――。お前の言う魔法の、あるべき姿だ」
有無を言わさぬ圧力に、ニーナの体が竦んだ。
ニーナの瞳が絶望に歪む。だというのに、残された違和感は、執拗に彼女の意識を飲み込んでいく。
違和感の正体をつかみ取ろうと見上げた先のダリアラが、微笑んでいた。
「……!」
「――ふざけるな!!」
ダリアラの腕からニーナの体を無理やりにはぎ取ろうと、ハイドラが腕を伸ばした。
その瞬間を、ダリアラは待っていた。
「まさか……!」
ニーナはようやく、違和感の全てを察した。
「駄目、ハイドラ様!」
ダリアラは、ハイドラから引き離すように、ニーナの体を投げ捨てる。
永遠のような刹那に、ニーナの体が冷えていく。伸ばした手が、ハイドラの指先をかすめ、遠くへと離れていく。
ハイドラと絡めた視線が、山吹色の一太刀で絶たれた。
ハイドラの意識が、真白に染まった。音のない世界に、突然放り込まれたかのように。
どこか遠くで、なにかが落下する音が聞こえた。その鈍い音が、ハイドラの意識を現実へと引き戻す。
状況を理解して、真実を理解して。
押し寄せる荒波のように、彼を痛みが襲う。
「――――!」
言葉にならない悶絶。ハイドラの膝が崩れ落ちた。
右手で痛みの元凶を弄る。
二の腕、肘、手首、そして指先。
あるはずの腕が、無い。
「嫌あぁぁぁぁぁッ!!」
背後から聞こえてきた悲鳴が、確認したばかりの現実を、更に肯定したようだった。
痛みに視界が霞んでいく。もうなにも、考えることが出来ない。
「ステラ、リリア」
自分の声すら、聞こえない。
「逃、げ――」
ハイドラの体が傾いて、血に染まった地面に倒れ込む。
「ハイドラ様ぁッ!!」
震える足が駆ける。それでもニーナの体が、朱色に染まりゆくハイドラの元にたどり着くことは無かった。
「これで解っただろう」
再び拘束された体が、ダリアラの手を拒んでいる。
「嫌、離して!」
「期待など無駄だ。この状況を見て、まだわからないのか?」
怖い。視界が赤に染まる、この現実が怖い。
「いい加減、現実を見なさい。ニーナ」
強い力で、引き離されていく。動かない、ハイドラの体から。
「神に愛されなかったこの世界で、調和を失ったこの世界で。力無き人間は、誰もが惨めに混沌へ堕ち、誰もが等しく朽ちてゆく」
「離して、ダリアラ様……!」
一歩、また一歩と、ニーナの脚が後退する。ダリアラに導かれるまま、連れられるまま。
「故に神は、最後の救済を与えるのだ」
ぐいと腕を引かれ、遂にダリアラの脚が止まった。
高所を吹き荒れる強風が、冷えたニーナの体から更に体温を奪う。対面したダリアラに、ニーナは言葉を見つけることが出来なかった。
ただ一つだけわかったことは、今度こそ、彼の瞳に先のような違和感はないという事実。
「あ――――」
これが、本当の終わりなのだと。
ニーナは圧倒的な力を前に、ただ事実を受け入れることしか、許されなかった。
「世界の終焉を、天の上から見ているといい。――これは最後の慈悲だよ。ただ一人の愛しき妹」
床の感覚が消えた。
ダリアラの姿が視界から外れ、彼女の瞳が捉えたのは、黒ずんだ空。
床の縁から、自分は押し飛ばされたのだ。
そう理解した時には、瞬きをする気力さえニーナの体から零れ落ちて、曇天へと消え去っていた。




