埃タワー
これは、埃が積もることに意味を見出した人間の物語。
埃というものがある。誇りではない、埃だ。ゴミの埃である。
テープの替えを寝かせたままにしていたのだが、私はある日、その剥き出しの樹脂の上に埃が積もっているのを発見した。
その時私は宇宙に関心があって、宇宙の泡構造なんてのをたまたま見ていたものだから、その埃の積もり方が泡に見えたのだ。
その日から私はそこだけ掃除せず、わざと積もらせる変態な日々を送っていた。気づけば数年が経っており、埃タワーとして私は愛着をもって接していた。決して触れてはいない。
しかし、別れは突然というが、それは私とて例外ではなかった。
あろう事か私の埃タワーは呆気なく家族に掃除されてしまったのだ。突然、私は埃を失ったのである。数年に渡る私の密かな楽しみが消えてしまったのだ。その時の虚無感が、こうして私に筆を執らせたのである。
埃タワーに思いを馳せていた時にふと思っていたのだ。あの埃タワーはミルフィーユのように綺麗な層をもっていた。一見無秩序に見えるが、一定の法則に従っているようで、秩序良く積み重なっていた。だから埃にも意思があるのだなんて考えた。また、埃宇宙なんてのも考えたりもした。
私の結論として埃は我々人間、すなわち住人の生活の記録なのである。
着ていた服や読んでいた本。歩いて風を起こし、繊維を撒き散らして積もらせる。まさに生活の自然の証そのものであるのだ。埃は常に傍にあり、我々を記録している。
私はいつの間にか日常の中に壮大な私宇宙を取り込んでいたように感じたのだ。当たり前のようだが、それを再発見した時の喜びは、私の埃タワー崩落の悲しみを多少軽減したのだ。
そう考えると埃も誇りも大して変わらないようにも思えてきてしまうのだ。埃とて単なるゴミでは済まされない存在なのである。そうなると、私がある種の誇りを失ったというのも合点がいった。
永遠に未完の埃タワー、次はどんな形で会えるのだろうか。新しいテープの替えを置いて、私は日常へ帰っていくのである。
おすすめするかはともかく、挑戦してみると案外面白いものです。植物みたいに毎日手入れする必要はありません。注意すべきは、掃除の時と風です。それだけ。