夢の島に希望無く、届かぬ光を希う
子供の頃、正義の味方になりたかった。この街の理不尽さから母を救えるように。
そんなことを思い出したのは、惚れた女の胸に顔を埋めているからだろうか。
「手、使えばいいのに」
女――なじみの娼婦であるミモザ――が、俺の腕を優しく撫でながらそんなことを言う。
「初めて女を抱いたときにな」
俺は彼女の豊満な胸から身を起こし、空の缶詰を右手で握る。
「興奮しすぎて、女の腰を砕いた」
ぐしゃり、とアルミ缶を潰すような気軽さで、スチール製の缶は俺の手の中で小さく畳まれた。
そんなことに動じることなく彼女はグレーの瞳で俺を見つめる。
「別に今じゃ大丈夫なんでしょう? あなたなら、何かあっても責任とってくれるでしょうし。何なら、私はあなたのものになってもいい」
体を起こしながら彼女は俺の唇に軽く口づけをする。
確かに今はよっぽどのことがなければ、力は入りすぎない。
それでも彼女を傷つけることは避けたかった。
「責任は取れるし、金も払える。お前のところの雇い主にも顔は効く。だからといって、お前の上客に睨まれたくはないな」
俺は密造煙草を取り出して火を点ける。手巻きのせいか、微妙に荒いが味はよい。何よりも安いのが好ましい。日本産は毎年の値上がりで欧州並みの値段になっている。
ベッドから立ち上がり窓に広がる夜景を見つめる。相変わらずカジノホテルは眩しい。湾を隔てて煌々とした明かりを灯す日本の夜は近くて……あまりに遠い。
「あなたを睨むような人は上客じゃないわよ」
煙草を吸いだした俺を見て、彼女は冷蔵庫から日本製のビールを取り、横に並ぶ。肩にかかる柔らかな重みが愛おしい。
「元上司から女を囲え、子供を作れと言われちゃいるが」
母から教わった生年月日が正しければもう30過ぎだ。身を固めるのも、役割というものだろうか。
「いいじゃない。私、子供欲しかったの」
彼女は俺の好意に気付いているし、彼女も俺のことを憎からず思っている。自惚れじゃなければ。
だが、お互いにそれをはっきりとした形にはしない、そんな関係だった。
普通の住人同士であれば、明確な男と女、恋人もしくは夫婦になれただろう。
俺の立場が、彼女の立場がそうはさせてくれない。
それに、今の関係も心地よかったのだ。面倒がない、都合がいい。なんていうのは、男の一方的なエゴに過ぎるか。
そんなことを考えながら、言い訳を探す。
「バランスが悪いんだ。今は、まだ」
俺は曖昧な笑みを浮かべて、誤魔化した。
嘘は言っていない。
「そういえばさ。うちの若い子が拾いものしたんだ」
部屋に戻って戯れた後。シャワーを浴びた彼女が、そう切り出した。
体にタオルすら巻かずにやってくるのは勝手知ったると言うべきなのか。恥じらいがないのか。
ほのかに香るシャンプーの匂いと上気した肌は、男の欲求を再度刺激する。
「どこで? なにを?」
「地下で。女の子を」
カジノ法と難民関連法、いや、今は建前的には移民か。そういったものの功罪全てを押し込めたこの島。
東京都、新夢ノ島特別行政区に希望を見出す不法入国者は少なくない。その多くは、水上警察の哨戒艇や巡視艇に捕縛される。
「運がいいのか、悪いのか」
少なくとも、若いギャングどもや薬屋たちに保護されるよりははるかにマシだ。前者であれば性的玩具。後者であれば薬漬け。
それでも、この島の地下街に迷い込むのは幸運ではないと俺は思っている。
「見た目もいいし、若いし、うちの見習いにでもしようかと考えていたんだけど」
彼女のようなマッサージ屋であれば、それなりに大事にされる。商品価値がある限り。
言葉を区切って、彼女が口をへの字に曲げた何とも言えない顔をする。
ミモザがこの顔をするときは、面倒なことを持ち込むときだと俺は知っている。
「その子、日本語がネイティブ、英語少々。自称日本人で有効な身分証明書なし。ちなみに綺麗な黒目黒髪。どう思う?」
既に、厄介ごとの役は4翻くらい出来ていた。
「……身なりは?」
覚悟を決めて俺は話に踏み込む。
「仕立ての良いセーラー服」
この島に学校は無い。すなわち。
「モノホンの日本人じゃねぇか」
俺は天を仰ぐ。見えるのは黄ばんだ天井。
麻雀なら満貫並みのトラブルだな、とか考えながら。
「ちなみに、下の部屋まで連れてきてるの」
俺の反応にクスクスと笑いながら、彼女はさらに追い打ちをかける。いつの間にかバスローブを纏っている。
「俺が関わるの前提かよ」
地下街から地上に出るには許可証が要る。正しくは許可証もしくは金、だが。
カジノホテルで客商売をする彼女や、地上に住んでいる俺はフリーパスに近い。そうでない場合は地上と地下の往来は難しい。
これは、何も知らない観光客が地下街という魔窟に迷い込むのを防ぐためでもあるし、不都合を隠したがる国の政策の一環でもあるらしい。
普通の日本人が入り込むなんてまず無いことなんだが……。
「何の後ろ盾もない日本人少女を地下に置いておくより、あなたの近くのが100倍くらい安全でしょ? 元『地下街の人食いワニさん』?」
「3倍くらいだろ。あと、それは恥ずかしいから、やめろ」
昔、組織の鉄砲玉をしていた頃の逸話を彼女は知っていたらしい。
「冗談よ。連れてきた理由はもう1個あるのよね」
そう言って、彼女はベッドの片隅に転がしていたハンドバッグから1枚の名刺を取り出す。
「……役満だな」
そこに書かれていた名前を見て、俺は顔をしかめる。長らく燻っていた行き場のない怒りが心に灯る。
少なくとも俺には関わる動機が出来てしまった。
「その顔よその顔。あの子もそんな感じで顔をしかめるの、そっくり。もしかして、と思ってあの子の所持品確認しちゃった」
「俺は女顔じゃないぞ」
むしろ、人相は悪い。地上よりも地下街のほうが似合う、マフィアらしい強面の顔。
「そういう意味じゃないわよ。わかってるくせに」
彼女は俺の鼻頭をツンツンと突く。爪が刺さって微妙に痛い。
「わかってるから誤魔化したかったんだよ」
顔を背けて彼女の爪から逃げ出した。
「じゃ、呼んでくるわね」
「俺にシャワーを浴びる時間をくれ」
性の匂いが染みついた体で来客の相手はしたくない。
「どうせ、部屋の匂いでバレるわよ。煙草の匂いもね」
……今から換気しても手遅れなんだろうか。
「姫木椿です」
ミモザに連れられて来た少女は10代半ばくらいに見えた。日本人は童顔なので、もしかしたらもう少し上かもしれない。
セーラー服を着崩すことなく、かっちりと身にまとっている姿は、彼女なりの防護壁みたいなものだろうか。
この街ではそれは、悪意を引き寄せる誘蛾灯にしかならない。
「ハオと呼んでくれ」
俺は名乗りながら、彼女を辛子色のソファに促す。
「私はミモザね」
ミモザは俺にわざとらしくウィンクして、俺の隣に座った。
「あの――!」
少女は意を決するようにして口を開こうとした。
「で、用件を聞く前に質問だ。この街についてどれくらい知っている?」
俺はそれを遮って訊ねる。
「え? 東京湾に浮かぶカジノホテルを中心にした人工島、ですよね。あんなに外国人の方がいらっしゃるとは思わなかったのですが」
地下街のことだろう。あそこは人種と宗教の坩堝。
あらゆるものが入り混じり、サラダボウルどころか、蠱毒の様相すらある。
まぁ、どうしてもアジア系が最大勢力にはなるのだが。
「表向きはそうだな」
彼女の言葉は教科書通りというか、おそらく一般公開された情報はその程度ということなんだろう。
「……?」
まだ、危険な目にあっていないせいか、日本人らしい平和ボケした表情をしている。それが何だか無性に腹が立って、舌打ちをする。
俺の左手に柔らかく温かな感触。
チラリとみると、ミモザが手を置いていた。落ち着いてと目が訴えていた。
「現代に蘇った九龍。綺麗なファヴェーラ。分からなければスキッド・ロウでもいい。カジノホテルとこの地上街はともかく、地下街はそう皮肉る場所だ」
俺は小さく息を吐いて説明する。
地下街の秩序はそれぞれのコミュニティの中にしかない。地上はそれなりの治安は維持されている。カジノホテルの滞在者が訪問可能だからだ。
地上街を誰かがホーチミンのブイビエン通りみたいだ、と言っていたのを思い出す。
「要するに、地下はスラムよ。法的庇護が得られないとでも思えばいいわ」
いまいち理解できていない椿に対して、ミモザが俺の言葉を補足する。
「身分証がなけりゃ、例え日本人でも本国との往来は厳しく規制される、というのも付け加えておく。さて、何を望む?」
俺は返答が分かり切っている質問を投げかけた。
「……日本に帰りたいです」
俺たちの言葉を受けてもまだ希望を捨てていないらしい。
「そうか。椿、個人番号を俺たちに言えるか?」
「必要なことであれば」
それなりの覚悟はあるらしい。
俺は彼女の番号をパソコンに打ち込み、とあるデータベースに第3国経由で接続し確認する。
そこに答えがあった。彼女の望みはこのままでは叶わないだろう。
夢ノ島には夢なんてない。そこにあるのは残酷な現実だけだ。
『姫木椿。享年16歳。死亡届け受理、戸籍抹消済み』
「さて。君は新しい戸籍を他人から奪う、その覚悟はあるか?」




