幻鈴
斎藤は警備員としてとあるビルに勤めていた。50になろうかという彼の肉体は年々衰えを訴え始めており、酔った暴漢や空き巣に襲われれば勝ち目はないと彼自身も自覚していた。といっても彼には特殊な技能があるわけでもなく、働き口が無かったためこの職についていたのであった。
初勤務から半年経った現在まで、幸運なことに彼の勤務中に事件が起こることはなかった。しかしその平和は破られることになる。
七月某日、呼吸も煩わしくなる暑い夜に異変は起きた。
この日斎藤は幻聴に悩まされていた。四六時中耳元で鈴の音が聴こえるのだ。今まで耳に不調をきたしたことは無かったが、いよいよここにもガタがきたのかと憂鬱になっていた。
ストレスと寝不足で意識が朦朧としてきた午前二時頃、突如エレベーターが稼働した。電源は切っていたはずだ。しかしスピーカーからは稼働音と到着を知らせるベルの音が確かに聞こえていた。
斎藤がエレベーターの稼働を認識した直後、監視カメラの一部に不具合が起こり始める。
普段はエレベーター前を映している画面がのっぺりとした黒色に染まっている。故障を疑ったが音は変わらず聞こえていることから、その線は無いと斎藤は判断した。
そうすると何が起こっているのか。突如稼働したエレベーター、何も映さなくなった監視カメラは一体どうなっているのか。
現場を確認しなくてはならない。仮に朝まで放っていたとすれば職務怠慢もいいところだ。空き巣等が侵入していたのであればさらにひどいことになる。しかし凶器を持っていたらどうする?
その時、斎藤はある違和感を覚えた。勿論この現象は異常だ。その上で何かがおかしいと感じている。
視覚だろうか、しかし画面は黒くて何の判別もつかない。違和感を感じる対象すら見えないだろう。
では、聴覚はどうだ。エレベーターが動いているであろう低い稼働音、そして目的の階に到着したことを知らせるベルが鳴っていることが聞き取れた。そこで斎藤は何かが引っかかった。何かが気になる、斎藤はこの異常の中ですら認識できる違和感を考える。
またベルが鳴った。斎藤はモニターから目を離し振り向いた。ここからは見えないが、エレベーターが降りてきたのだろう、スピーカーと同時に直接斎藤の耳に高く澄み渡る音が聞こえてきた。
そして、少し遅れてスピーカーからもベルが聞こえてきた。
斎藤は固まった。何故聞こえる。エレベーターはこの階に来ているのに。そうだ、何故ベルが鳴り続けている。何故ビルの階数を遥かに越えてベルが鳴り続けている?
汗が吹き出る。体が強張っているのがわかる。おさまっていた幻聴の鈴の音が再び鳴り出す。先ほどまでとは違う緊張感、違う恐怖が斎藤を支配する。今、このビルにいるのは本当に空き巣だろうか、暴漢だろうか、人間だろうか。
頭の中で3つの音が鳴り響いている。ベルの音、幻聴、そして自らの心臓の音。それらは思考を邪魔し、精神力を削り取っていく。
絶対に目を動かせない、動かした先に何かが現れるような気がしたからだ。斎藤は叫びだしたくなる自分を必死に押さえつけた。気付かれたらおしまいだと自分に言い聞かせなんとか正気を保った。
そうだ、警察に通報しよう。そこにいるのが人間ならそれで解決するし、そうじゃなかったとしても1人ではなくなる。
そう考え、硬直した体を無理矢理動かそうとした。緊急用の通報ボタンを押すためには振り向かなければならない。しかし、体は動かない。理屈ではあり得ないとわかっていても、本能が目を逸らすことを拒否する。
数分後、もしくは数時間たったかもしれない葛藤のあと、斎藤は意を決して振り向いた。
それは錯覚だったかもしれない。極限状態の脳が生み出した幻だったかもしれない。しかし斎藤は見てしまった。認識してしまった。
複数あるモニターに全て同じ部屋が映し出されている。そこは本来監視カメラの無いエレベーターホール。数秒前までそちらを向いていた斎藤は、エレベーターホールに明かりが点いていないことを認識していた。なのにモニターの中のホールは明かりが点いており、そこにいるものを照らし出している。
ボロボロの僧衣を着た何物かが立っている。艶の無い黒髪が顔を隠していて年はわからない。手に持っているのは……鈴りんだ。
""それ""を見た斎藤は、自らの意識が急激に薄れてくのがわかった。自分が立っているのかもわからなくなっていくなかで、音を聞いた。数年前、実家に帰省した時聞いた音。不慮の事故で亡くなった上司の通夜で聞いた音。高く響き渡る鈴の音……。
あれほどうるさかった心臓の音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
※※※
今日もテレビではニュースをやっている。どこぞの企業がなにかしたとか、芸能人の誰かが結婚しただとか、俺には関係のないそんなニュース。それらを聞き流しながら朝食を手をつけていた時、聞き覚えのある語句がテレビから聞こえた。意識をテレビに向けると、俺の住む町について何か伝えていた。
連続不審死。
年齢も性別もバラバラの人達が次々と心臓発作を起こして亡くなっており、遺体を調べても別段異常はなく専門家が首を捻っているらしい。亡くなった人たちの唯一の共通点が、この町の中でもある程度同じ地域に住んでいることだそうだ。医学の権威だとかいう男性が新種のウイルス等と考察しているが、それらしきものもまだ見つかっていないようだ。
ニュースが終わり、タレントらしき人物が食レポを始めた辺りで俺は再びテレビへの興味を失った。
一方で頭は不審死について考えていた。件の地域は俺の家からだいぶ離れた所だ。確か都市計画だかなにかで新築のマンションやビルが入り交じっていた地区だったと思う。別段変わったものができたとは聞いてないが……。
十数人が同時に心臓発作で亡くなったのも気になる。まるで少し前に流行った漫画のようだ。誰かが意図的に人を殺せる方法を手に入れたのだろうか。
浮かんでは消える思考をもてあそんでいると、うるさい声が耳に入ってきた。
「うるさいな」
声の主を見るとなにやら怒っているようだった。
「あんたがさっさと準備しないからでしょ! 早くしないと遅刻するよ!」
言われて時計を見ると、もう登校しないといけない時間になっていた。
「あー……」
「あー……じゃないでしょ、少しは焦りなさいよ! 」
怒っている声の主……俺の妹はもう制服をきていつでも出発できる状態だ。
とりあえず食器を片付けるため、台所に向かう。
親父とお袋は仕事の関係で週に2,3回しか帰ってこない。なので家事全般は妹と俺で分担しているのだが、生来のなまけ癖が直らない俺は妹にどやされてばかりいる。最近では妙な責任感がついてしまったようで、家事以外にも早く寝ろだの野菜を食えだのうるさく言ってくるようになった。小さなお袋のようだ。
「おい、妹よ」
「なに? 早く準備してほしいんだけど」
「今日はもういい気がする」
「なにが? 」
「学校」
「……はー」
こいつ、俺の言葉を聞いて露骨に溜め息を吐きやがった。
「一回しか言わないからよく聞けよ糞兄貴」
「なんちゅう口の聞き方をするんだ妹よ、俺はそんな子に育てた覚えは……」
「なめたこと言ってると殺すぞ」
「……はい」
ジト目で凄まれると非常に怖い。妹相手にここまで威圧されるとは、我ながら情けない。
「今日はイライラしてんの、だからつべこべ言わず行動しなさい」
「いつもイライラしてると思っていたんだがそうでもないのか」
「……」
無言で尻を蹴りあげられた。
食器を片付け、めんどくさいなぁと思いながら登校の支度をしていると妹が何かを思い出したように話しかけてきた。
「そうだ、あんたスマホ直せない? 」
「なんだ、壊したのか? 」
「昨日から通知音が鳴っても何も来てないことがあるんだけど」
「うーん……そういうのは設定がおかしいとかじゃなくて不具合じゃないか?」
「そうなのかなぁ……あ! ほらまた」
そう言って妹はスマホを見せてくる。確かに何も通知は来てない。しかしそれ以前に疑問が浮かんだ。
「今通知音鳴ってたか? 」
「はぁ? 耳までとろくなってるの? 」
そこまでいうかこいつ。あのやかましい鈴の音を聞き逃すことが普通あるか? まあ本当に気付かないことも多いから強くは言えないが。
「もういいや、帰りにショップ行ってみる」
「おう、いってらっしゃい」
「お前も学校に行くんだよ殺すぞ」
怒鳴られたり蹴られながら微笑ましい朝の団らんを楽しんだあと、なんとか俺は登校に成功した。
その日の午後、妹は死んだ。
心臓発作だった。
その日俺は復讐を誓った。妹を殺した顔も声も知らない奴を、実在するかもわからない犯人を殺すと。




