臍の緒で首を絞めれたら
『……東京都XX区xxx3丁目の会社員宅で、帰省中であった長女の榎本舞(21)が、胎児と共に殺害された。
遺体の損傷は激しく、腹部を中心に十数カ所の刺し傷が見受けられた。XX署は重要参考人として長男の小野椎太(17)を捜索しているが、未だ所在は掴めていない……』
喫茶店ではハービー・ハンコックの「処女航海」が流れていた。ジャズも嗜む椎太なら気づいたかもしれないが、あいにく彼はいない。
芸術など無頓着な現実的問題を抱え込み、木製のテーブルに珈琲とカフェラテが並べられる。それを契機に、よそよそしい世間話は終わり、刑事は本題に入った。
「椎太くんの居場所に心当たりはないか?」
「いいえ。でも、どうして椎太を探してるんですか?」
園山恵理奈は嫌味なほど冷静だった。しなやかな姿勢で、したたかに刑事と向き合っている。口元にはシニカルな微笑を浮かべ、その唇は紅より桃色に近い。
年齢の割には大人びているようで、どことなくあどけなさも残る、ちぐはぐな少女だった。
「椎太くんは事件の鍵を握っているからね」
「刑事の勘ってやつですか?」
「勘だって、意外と馬鹿には出来ない」
「まあ、勘は」
面倒くさいな、と刑事は眉を顰める。珈琲を手元に寄せると、仄白い湯気が不気味に揺れた。
「姉思いの椎太が、あんな残虐なことするなんて考えられません」
「ああ。たしかに惨い殺害方法だった」
実際のところ、刑事は非人道的殺人など腐るほど知っていた。今さら「ひどい」などという素人じみた感想は浮かばない。
死体を見るだけで、愉快犯か怨恨によるものか察しがつく、そんなベテランもいるような世界だ。死ねば人間は人間でなくなり、証拠品の一つに成り下がる。
「犯人じゃないのなら、なぜ彼は逃亡しているんだろう?」
「知らないですよ」恵理奈は、ちり紙をゴミ箱に投げ捨てるような口調で言った。「人が何を考えているかなんて、分かりません」
刑事は静かに珈琲を啜った。酸味が強く、旨くはない。目の前の少女はというと、ちいさな如雨露で水を注ぐようにカフェラテを飲んでいる。甘ったるく、喉の乾きは潤わないだろう。彼女は忌々しそうに続けた。
「心理学にも精神医学にも必ず例外がありますし」
「詳しいんだね」
恵理奈は「まあ」と曖昧に答えて、それから「でも」と言い放った。
「科学なんてガラクタです。蝶が羽ばたけば雨が降るような突拍子もない世の中ですから」
原因のないような結果もあります。
何が起こるか、なんて分かりません。
何が起こっても、おかしくありません。
恵理奈は、なぜか真剣な眼差しで言った。
「刑事さんが不味そうに飲んでいるその珈琲も、数秒後には喋りだすかもしれません」一拍置いて、声も変えずに続ける。「飲まれたくない」
注意深く見つめてみれば、カップの黒々とした液体は妖しく、空間の裂け目を探すように揺れている。
命乞いを始める気配はない。汗が滲む切迫感など読み取れない。では諦観だろうか。あるいは、すでに抜け道を見つけているのか。
妖しく、空間の裂け目を探すように揺れている。
馬鹿らしい、と刑事は首を振った。飲み物に感情などない。そんなものを持っていたところで、どうにもならないのだから。
「今のはジョークなのかもしれないが、私にはさっぱりだ」
「すみません」
恵理奈は苦笑いして、ぎこちなく頭を下げた。掴みどころのない少女だな、と刑事は思う。あるいは、知人の死のショックで壊れてしまったのか。
刑事にとっては、どちらでも構わない。道徳や同情は不要、これは仕事なのだ。
「何が起こるか分からないのなら、椎太くんがあやまって殺してしまった可能性も十分あるわけだが」
「それなら、椎太も殺されたって可能性の方が高いんじゃないですかね」
非情なほど冷徹な返答に、刑事は心の中で驚いた。
「椎太くんとは親しい関係なんじゃないのか?」
「私がどんなに想った人でも、ナイフが刺されば死にますよ」
哀愁など漂わせずに、上品な微笑を浮かべたままで言った。それが刑事には狂気的に映る。やはり壊れているのか。それとも、まさか犯人なのか……?
刑事は黙って、相手を観察する。
彼女は妊婦のように優しく腹部をさすっていた。
「ところで、犯人が殺した数には、胎児だったミカちゃんも一人として含まれるんですか?」
――――
鍵のないドアをノックする。どことなく空虚な音が鳴る。取り損なった飛球が転がるような音が。
もう一度、彼はノックする。しかし、彼の耳は向こう側の反応を捉えられない。一階のテレビからバラエティの笑い声が微かに聞こえる。
「姉ちゃん」
感情を乗せた拳で叩く。今朝から応答がないまま、もう夜も深くなっている。
扉の先は荒廃した砂漠で、あるゆる生物は干乾び、音もなく砂塵に飲み込まれていく。そんな空想がよぎる。
あるいはドアノブは虚飾で、本質は単なる壁。無機的な隔たりに対して、思考は混沌に落ちている。
小野椎太は、変わり果てた姉――榎本舞のことが心配で仕方なかった。とはいえ、勝手に部屋に入る決心は、どうしてもつかなかった。
『一人になりたいって言ってるんだから、一人にさせてあげなさいよ』
そんな母の意見を思い出す。彼はそっと手を離し、引き下がる。一階から、母の笑い声が聞こえる。
丸一日なにも食べず部屋に篭っている娘を、心配に思わないのだろうか? 久々に帰ってきた娘なのだから、話したいことは山ほどあるんじゃないのか?
自分の部屋に戻っても、椎太は落ち着かない。じっとしていられない。思い切って、義理の兄――舞の夫である亮に電話をかけてみることした。
一度目のコールで、彼は応答する。
『俺は何もしてないからな』
それが亮の第一声だった。さらに『きっとマタニティーブルーってやつだろ』と付け加えた。なんだか言い訳のように聞こえなくもない。
「じゃあ、昨日の夜は姉と何を話してたんですか?」
『は? 舞が出てったのは昨日の朝だぞ』
「でも、電話してましたよね。ぼそぼそ喋り声が聞こえてて」
亮は少し黙って、そして『あいつ浮気してんのかもな』と呟いた。椎太は絶句する。
『俺の子供じゃないから、舞は深刻に悩んでる。なんなら病んじまってる。あり得ると思わないか?』
「そんなわけ、ないでしょう」
『まあな。ちゃんとした根拠はねーよ。一昨日こっそり舞のスマホを調べたときも、怪しい連絡先とかはなかった』
「ですよね」
『でも』
嫌な接続詞に、椎太は息を呑んだ。
スマートフォンを握る手に、汗が滲む。
『舞の検索履歴がな、ちょっと妙だったんだ』
言おうか言うまいか、思案する間。沈黙の幕が下ろされる。妊婦の子宮のように、じわじわと嫌な予感が膨らんだ。
椎太は我慢できずに「どういうふうにですか?」と尋ねた。亮は『ああ』と口を開いた。
『そうだな……。なんというか、「生きる意味」だとか、まあ、そういう鬱っぽいワードが――』
――最後まで聞かず、椎太はスマホを投げ捨てた。姉の部屋に駆け出さずにはいられなかった。
「姉ちゃん!」
鍵のないドアをノックするなんて、そんな余裕はなかった。勢い良くドアノブを捻り、思い切り押す。
真っ先に反応したのは嗅覚だった――血の匂い。
彼の視界は真っ暗になった。比喩ではない。その部屋は闇に包まれていた。廊下の光が、足元だけを頼りなく照らしている。
記憶を頼りに壁を叩くと、ちょうどスイッチに当たり、ライトがついてぱっと明るくなる。
椎太は眩む目を、精一杯に見開く。
舞は、静謐な絵画のように、朱色のベッドに腰掛けていた。顔は紅く、そして濡れていた。朧な瞳から、無感動に涙が流れている。閉めの甘い蛇口のように、ぽたぽた頬から滴っている。
椎太は駆け寄って、舞の肩を掴んだ。
「どうしたんだよ、姉ちゃん!」
真正面から向き合う。焦点が合わない彼女の意識は、少し遅れて椎太を捉えた。
「……ごめんね」と言った。「ごめんね、心配かけちゃって」枯れて掠れた声だった。「私もね、分からないの。どうしたらいいのか、さっぱり」
「話してくれないと、俺だって分かんないよ」
椎太は、生々しく紅く痛々しい、リストカットの痕に気づいていた。気の利いた言葉なんて浮かばない。椎太の瞳にも涙が滲んでいた。ありきたりな、率直な思いが溢れ出す。
「俺は何があっても姉ちゃんの味方だから。俺に出来る事なら何でもするから」
舞は潤んだ瞳で椎太を見つめ、頷いた。そして、水色のパジャマに手を掛けた。手首から血が滴る。彼女は気にも止めず、パジャマを少し捲った。
臨月手前の腹が露出する。新たな生命を宿す、グロテスクな膨らみ。
戸惑う椎太の手を、彼女は強く引き寄せる。その膨らみに引き寄せる。まず人差し指が、そっと肌に触れる。
刹那、椎太は心臓を直に殴られたみたいに、甚だしく揺さぶられた。鼓膜の不規則な振動にも意味が与えられたように、それは指先から侵入して情緒を震わせる。
彼の神経は、無意識に翻訳した。言葉を受け取ったのだ、と。椎太は胎児の声そのものを聞いたと錯覚したのだ。
否、言葉というにはあまりにも重く、悲痛なものだった。声というより叫びに近かった。それは、すべての生命を否定する独白であった。
――生まれたくなんてない――




