嗤い哭く心に鬼ぞ来る
――生まれて初めて、鬼を見た。
それが、桐谷 藤香の初見の感想だった。
ただ事実を述べただけの感想とも言えない感想。もっと他にあるだろうに、それしか浮かばないとは。緊急時に働く人間の脳みそとは、中々に残念なものだ。
鬼といっても、目の前のそれは赤や青という色をしていない。普通の顔色で、見た目は人間のようだった。
ただ、頭部から生える二つの尖ったモノ。赤い唇から覗く、やけに鋭い犬歯。不精で伸ばしたにしては殺傷能力が高そうな、長い爪。
それらが人間ではないと。藤香の知識では、これが鬼と呼ばれるものなのだろうと訴えかけてくる。
おとぎ話では、悪い存在とされる。赤青黒など様々な色を持ち、頭に角、口に牙、虎の皮のふんどしや腰みのを纏い、手には棍棒。そんな姿がポピュラーだろう。
姿が見えず、自在に変身するという話もある。
他、人に危害を加え、さらに人を食べてしまう存在だとか。他、人の怨霊と化したものか、地獄のものとされていたり。
伝承は多く、どれが本当なのか、どれも違うのかは分からない。分からないが、兎にも角にもこれまで生きてきた中では、初めてお目にかかった、鬼。
それが目の前にいた。
「今すぐその人を放しなさい。そして消えて」
恐怖、悲鳴、非現実感、全てを飲み込んだ藤香のしたことは、この第一声だった。
声などかけずに逃げるべきだ。どう考えても、藤香がどうにか出来る相手ではない。
だが。
藤香は見過ごせない。このまま見なかったことにして、逃げ帰るという選択肢はなかった。
なぜなら。
鬼の足元には、少女が転がっている。ぐっしょりと濡れた腹を両手で押さえ、は、は、は、という苦し気な呼吸の合間に声を絞り出した。
彼女が同じ高校の生徒でなければ、ましてやクラスメートで友人でなければきっと逃げていた。
「……たすけ、て……」
「必ず助けるわ」
請け負ったものの、根拠はなかった。
塾帰りの夜間。ビルとビルの隙間に出来た暗闇。人通りは乏しく、叫び声をあげても助けは来ないかもしれない。
ぎり、と奥歯を噛みしめ、腹をくくる。
鬼の口の端がにぃっと吊り上がった。茶髪にピアス、二十代前半の遊び慣れた風体で、顔立ちはそれなりに整っている。
藤香の体などたやすく切り裂くであろう牙から、滴り落ちる赤い液体がやけにゆっくりと見えた。
鬼なんてものからすれば、藤香などただの餌。なめてかかる筈だ。だったらそこを突いて、どうにか隙を作り、女生徒を連れて逃げる。
そう、方針を固めて行動に移そうと、右足に力を入れたその時。
鬼が動いた。
否。動いていた。
予想以上の速さで爪が翻る。その爪を、前に掲げていた学習塾の鞄が受け止め、すっぱりと二つに分かれた。
「このっ」
下から上へ振るわれた爪が戻ってくる前に、藤香は鞄の残骸を、思い切り鬼の横っ面に叩きつける。が。
「っ!」
分厚い参考書入りの鞄の直撃を受けた鬼は、全く体勢を崩すことなく、細めた横目で藤香を眺めた。逆に衝撃でよろめいた藤香へ、爪が迫る。
逃げなきゃ……どこへ?
鞄を引き戻して、もう一度……無理。
あの爪をかわさなきゃ……どうやって? 足に力が入らないというのに。
あの娘を助けるどころか、自分も死ぬ。それは嫌だ。
誰か……助けて? 助けを求めるくらいなら、最初から首を突っ込まなければいい。
瞬時に巡らせた思考から導きだしたのは、力の入らない足から、逆に力を抜くことだった。
藤香の体が沈み込み、鬼の爪が空を切る。鞄を放り投げて、自由になった手を地面に着き、体を前に進めた。倒れている女生徒に手を伸ばす。
野球のスレイディングよろしく、低い体勢で女生徒に飛びつこうとした藤香は。
「……っがはっ」
女生徒の体に手が届く、その一歩手前で首に衝撃を受けた。
「……ほんと、あんたってムカつく」
片手で藤香の首を捕まえ、つるし上げたのは、助けようとしていた女生徒だった。
「優等生の委員長様はぁ、落ちこぼれのあたしが可哀想なんだよね? だから優しさを施してあげてぇ、有難ーい善意を押し付けてくれるんだよねぇ?」
女生徒の、ブリーチで傷んだ髪の下に燃える憎悪の瞳、頭部から生える一本の角。口元には鋭い牙が覗く。
ざらざらと、先ほどまで女生徒を襲っていた、いや、襲っていたと思っていた鬼の体が崩れ去った。藤香の首を締めあげる、手の爪が肌に刺さり、赤い滴がぷくりと丸く膨れた。
「今だって、あたしのお芝居にころりと騙されて、正義感振りかざしちゃってさぁ。馬鹿みたい。頭悪ーいあたしより馬鹿。馬鹿、バカ、ばぁかぁ!」
けたけたという笑いが、酸欠の頭にわんわんと響いた。女生徒の顔も声も、ぐにゃぐにゃと歪んでいる。ああ、こういう光景、見たことがあるなと藤香は思う。
何だったろう。そうだ、あれだと思い当たる。
藤香の成績について話す時の、両親の顔と声。あれはいつも水の膜を通したように、屈折して藤香に届く。
空気中だと優秀で自慢の娘、一度水の膜を抜ければ折れ曲がり、思い通りの娘を持つ優秀な自分たちに変換される。
「あたしはそういうあんたが大っ嫌い。余計なお世話だっつーの。あたしはね。落ちて、堕ちて、底に沈んでるのが心地いいのよおっ!」
――そうだ。心地いい。どろりと濁った沼の底は、光なんて通らない。親のエゴも周囲の評価も、届かない腐った安寧は、どろどろと優しく溶かしてくれる。そうよね、朱莉――。
押さえつけられた喉元は、震わせることが出来なければ、声を発するという機能を発揮しない。
彼女の言葉を肯定するため、藤香は声帯を動かそうとして断念した。
成績優秀な生徒と、劣等生。優等生と、反抗的な生徒。
正反対なのに、分かりすぎるほど分かってしまうことが、可笑しかった。だから惹かれあったのかもしれない。親友という、錯覚をしたのかもしれない。
「何笑ってんのよ。嗤ってんじゃないわよ、冗談じゃない。嗤うな。嗤うな、嗤わせないようにしてやるッ」
どうやら本当に笑っていたらしい。首にかかる圧が増した。
散り散りになろうとしている思考の中で、首をへし折ろられるのだろうな、なんて、一際冷めたものが鮮明に浮かんだ。
「それは困りますね」
だが、折られなかった。代わりに何かの声が割り込んだ。
首にはまだ手が纏わりついている。しかしそれ以上の力を加えることはなかった。なぜなら。
手首ですぱりと切断され、鮮やかな断面を晒していたから。
「なっ!?」
遅れてびゅうびゅうと血を噴出させながら、朱莉の大きく見開いた目が、割り込んだ声の主を映す。地面に倒れた藤香の視線もまた、自分の前に立つ背中に釘付けになった。
殺そうとした者、殺されようとした者。そのどちらにも、信じられない、という思いが共通に浮かんだ。
宮本 丞。いつも静かに息を殺して存在している、クラスメート。誰かを困らせることもなく、上へ飛びぬけることもなく、かといって底にも沈まない、そんな男子生徒。
その彼がこのタイミングで現れて、躊躇なく朱莉の手首を斬ったのだ。
「彼女を殺してもらっては困ります」
宮本が至極無造作に右足を半歩だけ前に出す。
だらりと下げた宮本の右手は、一振りの刀。
右手に、ではなく、右手は、だ。手首よりも先が刀になっている。それは右手首から生えたというよりは、右手首より上が変形して刀になったように見えた。
角を生やし、藤香を殺そうとした親友。
右手を刀そのものに変化させた、クラスメートの宮本。
現実感を伴わない世界で、パーカーにジーンズという宮本のごく普通の恰好こそが、違和感だった。
藤香はふらつきながら立ち上がり、首を掴んだままの手を外す。地面に落ちた手は、やる気のなさそうに一度だけ跳ねてから、力なく横たわった。
「ゴホッゴホッ、宮田くん、その腕」
何度か咳き込んでから、藤香は喉を擦って声を絞り出した。宮田が何か答えようと口を開く前に、刀がぐにゃりと形を変える。
先が平たく広がって二つの穴が開き、大きな切れ込みも入る。穴は目、切れ込みは口のようだった。
『くっくっくっ。こんにちは、お嬢ちゃん』
切れ込みが上下する動きに合わせ、声がした。どうやら本当に目と口だったらしい。
笑ったのだろう。
二つの穴が細くなった。切れ込みもさらに深くなる。
藤香の体中の血管がどくどくと波打つ。耳の奥で血流の音が、ごうごうと煩いくらいに響いた。
「黙れ。勝手に出てくるな」
『おお、怖い、怖い』
冷たい声音と共に宮本が鬼切を小さく振ると、刀が元の真っ直ぐな形に戻った。こちらを見向きもせず、刀を鬼となった朱莉に向けて宮本が宣言する。
「大丈夫、桐谷さん。君は僕が守るから」
宮本がしゃべっているが、耳鳴りに阻まれて上手く聞こえない。右手が熱い。冷え切っている時に湯につけると燃えるように感じるものだが、その比ではなかった。
「宮本君、あなた」
右手から熱が藤香の隅々まで運ばれていく。頭まで回った熱にぼうっとなりながら、こちらに背を向けている宮本へ、ふらりと近付いた。
腕の先がぎゅるぎゅると捻れた。手首よりも先の肉が螺旋状に絡まって伸び、それが平たくなって硬質な金属へと変わる。
「とても美味しそう」
刀になった藤香の手が、宮本の背中に伸ばされた。




