お帰りの世界はこちらですか?
風を切る音で、目が覚めた。
ああ、ここは空だ。雲の上から落下していく浮遊感。
夢の中で、これは夢だと知っている、あの感じ。明晰夢っていうんだっけ。
すぐに目が覚めるだろう、と瞼を閉じた。しかし、落下を受け止めるはずのベッドも床も戻ってこない。
身体じゅうにぶつかる風の感触だけ。
(……?)
目を見開くと、果てが見えない空ばかり。背を引っ張られるように落ち続けている。
寒くない。痛みもないのに。
(夢……だよな?)
手足を振り回して、周囲の大気をかき分け、頭をよじって、下を見やる。
落ちていく方向。はるか彼方の雲間に、地面が見えた。
「う、浮いてる? 島が!?」
自分の叫びが耳に届いて、確信に近い怖気が脳天を貫いた。
これは夢じゃない。現実に戻ってもいない。
海をゆく鯨の群れのように、大小無数の島々が雲海に浮かんでいるところなど、見たことがない。
あの浮島の一つめがけて落ちていくのか、隙間をすり抜けてさらに落ちていくのか。
いずれにしても絶対。死ぬ。
死ぬ……? 死にたくない、何だこの状況、理解できない、死にたくない!!
「わ、あぁああぁ!? なんだよ、ちくしょう、いや、だぁああああぁあ!!!!」
めちゃくちゃ手足を振り回すが、何が変わるわけでもない。
圧倒的な高度を証明するように、ゆっくりとゆっくりと、眼下の浮島に広がる緑が近づいてくる。
すっと心が冷えた瞬間、がくっと落下が止まった。
あ、目が覚めたのか、恥ずかしい……と思いきや。足場も何もない空中で宙吊りになってるのは、変わっておらず。疑問に思ったのも束の間、腕をぐいっと引っ張られて、視界が暗転した。
◆
リノリウムの床に感謝する日が来るとは。
息を切らし、へたりこみながら、落下せずに済む安堵を噛みしめていると、
「大変でしたね」
笑みを含んだ声が降ってきた。
先ほどまでの空中とは全く違う。明るく保たれた部屋に、机と椅子。周りには、本が整然と並べられた大型の棚がそびえている。ここは……図書館、なのか?
声をかけてきた誰かは、椅子に座っている。ゆったりしたローブを羽織り、先が折れた三角帽子をかぶり、胸元になにかの記章を付けている。
「混乱するのも仕方ないですが、とりあえずは大丈夫でしょう」
「俺は……さっきのはいったい……。あ、」やっと頭が回り始める。
「さっぱり分からないんだが……君が起こしてくれたのか?」
「起こして? そうとも言えますか」
「すまない。ありがとう」立ち上がって、礼を言う。
「いえいえ、仕事ですから」
少女は十代半ばぐらいの年恰好だ。見渡すが、辺りに他の人がいる気配もない。
全く身に覚えがないが、図書館に寄った際に、疲れのあまり寝こけてしまったらしい。で、司書(見習い?)のこの子に起こされたと。恥ずかしすぎる……早く家に帰らないと。頭をかき、ぐるりと眺め回すが、どこも棚ばかり。
「ここ、出口はどっちかな。申し訳ないが迷ってしまったらしくて……」
「ふうむ、元に戻りたいと。仕事が早く片付くのは、わたしも望むところです」
少女は、ぴょんと椅子から降り、私の前に立った。
「では、どちらの『世界』にお帰りになりますか?」
そして、案内するかのように右手を広げて、縦横無尽に並ぶ書架を示したのだ。
◆
「……え?」
「ですから、あなたの『世界』ですよ。どの『世界』か分かれば、戻してあげます。仕事ですから」
「『世界』? 何を言ってるんだ……さっきのは夢じゃ……ここは、図書館だろう? 君は司書か何かじゃないのか……?」
「ああ、あなたの方では『そう視えている』のですね。じゃあ質問を変えます」
困っているのか楽しんでいるのか、どちらともとれる口調で言う。
「あなたは『誰』です?」
「誰って、」
口に出して愕然とする。俺の名前は、何だ……? 俺は、誰だ……?
さっきの強烈な体験で、抜け落ちてしまったのか。いや、たとえ覚えてなくても……慌てて自分の服をあちこちまさぐった。持ち物がまったく無い。スマホはもちろん、学生証が入っていた財布も見当たらない。
「ごめん、思い出せない……記憶喪失、なのかもしれない。どこかの大学生だった……とは思う。警察に連絡した方が良いな。ここ、電話があれば……」
「あらら、まだ理解されてなかったのですね。すいません、急ぎ過ぎました」
どこからか耳障りな音が多重に聴こえてくる。ひそひそ声のような、虫が蠢くような音。目前の少女の口から、その呟きが漏れてきているのが分かったとき、周囲の様子が奇妙に滲んだ。立ち並ぶ書架が、机と椅子が、彼女の姿が、テレビ画面の砂嵐みたいにざらつき、よじれて歪み、虹色にぶれて、唐突に元に戻った。
「今ので、少しは分かってもらえたでしょうか。あなたは、もともと居た世界にいるわけではありません。あなたが今見ている景色は、慣れ親しんだ形になるよう、わたしが調整したものです」
「……俺は、まだ夢の中にいるのか……?」
「いいえ」司書の姿をした少女は宣告する。
「夢でもありません。わたしが、あなたを『摘出した』のですから」
机に置かれていた本を、彼女は取る。背表紙のタイトルは『浮島群世界便覧』と読める。栞を取って開いたページを、示されるまま覗き込む。
浮島の季節ごとの空路について書かれたとおぼしき文章の一部に抜けがある。いや、うっすら消えかかっている箇所がある。目を凝らしてみると、前後とは何の脈絡もなく、誰かが高空から落下し浮島にぶつかって死んだ、という話がかろうじて読み取れた。読み終わると、完全に消えてしまい……脈絡に沿うような形で、別の文章が浮かび上がってきた。まるで最初からそうであったように。
「『摘出した』って何だよ……」
「ですから、こうやって」
少女はページに手をかざして、文字列をつまみ上げて、本の外でパッと離すような仕草をした。
なんだそれは。頭が痛くなる。
「つまり、こう言いたいわけか。並んでいる本の一つ一つが『世界』であり、俺はその中の一冊に紛れ込んでしまった。君は、それに気付いて俺を『摘出した』」
「その通り」やっと分かってくれたか、と晴れやかな顔をする少女。
「最近、多いんですよね。ある『世界』のモノが、別の『世界』に紛れ込んじゃう件が。気付き次第、せっせと元に戻してるんですが、法則性もないし、なかなか手も足りませんし」
「流行りの、異世界転生ってヤツか」
それなら、さしずめ俺は転生トラックにでも轢かれて、別の世界に飛ばされたのか?
その割にはチートを授かるどころか、持ち物やら名前まで無くしてるが……。
だが。ここが『異世界』というのであれば、話は簡単じゃないか。
◆
「どの『世界』に戻るか、だったよな。俺は『地球』の『現代日本』に戻りたい」
未だに状況がきちんと呑み込めたわけではない。しかし、異世界どうこう言うからには、目の前の少女は神様かその代理、そんな存在なのだろう。図書館も、日本語で書かれた書物も、彼女が黒髪であることも。俺が見ている光景が、残された記憶にある『現代日本』に合わせて調整されているのは間違いない。
だったら、俺の帰るべき『世界』は『現代日本』だろう。念のため『地球』も付けておこう。あとは、少女が呪文でも唱えて俺を送り返してくれるはず。
だが、彼女はそう思わなかったようだ。
「うーん……もっと他には?」
「他にと言われても」
眉根を寄せた困り顔はちょっと可愛い。が、年代まで指定しなきゃダメなのか? 今は思い出せないが、神様がさっくり調整してくれないのか。
「それ、わたしの担当そのものです。『地球』の『現代日本』にある『世界』すべて」
司書の少女は、端が見えない図書館のあっちからこっちまで指さしながら言う。
「ちょっと待って? 『地球』の『現代日本』にある『世界』すべてって、どういうこと」
「現実の『現代日本』の他に、現代日本で『創作』された全『世界』が収蔵されています」
「俺が帰りたいのはその現実の世界であって……」
「あなたが『創作された人物』ではないという保証が、どこに?」
「――!?」
「むしろ『異世界転生』を受け入れた時点で、創作人物である、と断言してもいいでしょう。『現代日本』に生きている現実の人間は……異世界に転生できるとは考えていないはずですから」
彼女は優しく笑った。
◆
で、俺がどうしたかと言うと。
「次は、隣の書架の端からチェックしてみましょう」
図書館で彼女を手伝いながら、帰るべき俺の『世界』を探し続けているのだ。
「あのさ」
「何です?」
「いつまでも君とかじゃ具合が悪いから、仮の名前で呼んでもいい?」
「わたしとあなたしか居ないのですから、名前が無くても特に不都合ではありませんが」
「俺が気にするから。そう……」
机の上には数冊の本と、ページの合間に挟まれた栞がある。
「栞、とかどうかな」
「……なるほど。わたしの個体名称として登録しておきます」
まんざらでもないように見えたが、これも調整された景色なのだろう。
俺は、栞につまみ上げられ、文字列と化す。
元いた『世界』に近いほど、挿話となる俺の文字列に対して、何らかの反応が起きるらしい。
現実の『現代日本』では起きなかった反応を求め、今日も本の頁へと潜っていくのだ。
「次こそ、『あなたの世界』に巡り合えるといいですね」




