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その指先で紡ぐのは

 傘を差すと、途端に雨が降り出し濡れずに済んだことにどこかほっとして息をつく。

足下への視界を塞ぐ二つの大きな塊を避けて、足先で慎重に地面を探っては歩みを進めていく。

玲子にとっては邪魔でしかなく、段差はとても危険すぎて手すりなしでは降りられない。


 今日もそれで軽く右足をひねってしまった。

足首の関節の中心をじくじくと疼くような痛みが絶え間なく走る。

同時に、先ほど上司と同僚の営業担当に言われた言葉が脳裏を横切り、思わず唇をきゅっと噛んだ。


 ──桜井さんはその胸で契約いくらでも取ってこられるんじゃないの?

 ──ああ、それはいい!今月はもう少しでクリアできそうなんだけどそれがなかなかね。今度一緒にあそこの課長さんと打ち合わせをするから、同行してよ。


 しがない営業部のOLにすぎない玲子は、自らの体に貼り付き盛り上がる脂肪の塊を見ながら、ため息をつく。

普通に生活をしたいだけなのに、毎日のように同僚の男性社員や上司からからかい交じりのセクハラを受ける。同じ営業部の同僚に相談したところ、かえってセクハラの回数も程度もひどくなってしまった。


胸の大きさ自慢と取られたのか、あれ以来他のOLたちも庇ってはくれず、なにかしら仕事を押し付けてさっさと帰っていく。

自分一人だけが膨大なデータの打ち込みを終えて、ようやく帰宅。定時はとっくに過ぎている。


 足元が濡れ始めて転ばないように慎重に歩きながら、人混みを泳ぐように傘を差して地下鉄への降り口を目指していく。

ぬれた石段に足を乗せたところで背中に衝撃を受けた。


 ぐらりと身体が傾いて視線が徐々に下に下がっていく。

同時に肩に掛けたバッグの重心が視線と同じ方向に振られ、両脚が地面からずるりと滑った。

耳元で誰かが叫ぶ声がするが、周りの景色がスローモーションのようにゆっくりと動いている。

何かつかむものはないかと視線の先の指先が泳いだ。


 小さな叫び声をあげて目を覚ますと、ここ一年で見慣れた漆喰で細かく装飾された真っ白な天井が見えた。

ここに落ちてくる前の、日本での最後の記憶。

まだ震える両手で顔を覆う。与えられた白い衣が玲子の動きをなぞり、緩やかなしわを描いた。


 階段で足を滑らさなければ、玲子はまだ日本に居たはずだった。

毎日の仕事で疲れてはいたけれど、ほどほどにやりがいのある仕事をこなし、週末には買い物に出かけたりジムに通ったりしてほどほどに充実した生活をしていたはずだった。


 今は、ここリーキュと言う国の神殿で、保護されて暮らしている。

毎日夜も明けきらぬ早朝に起きだし、冷たい水を汲んで神殿を磨き、そして祈りを捧げる日々。質素な朝食を済ませたら、自分たちの食料の大半を支える農場へ行ってそこで土や藁にまみれて仕事をする。時には家畜の世話をし、さらに収穫物を加工して街に卸すこともある。


 動物の世話は嫌いではないけれど、日本で見慣れた動物とは少し違う。

ヤギや羊のような顔で同じような声で鳴くタジュと言う生き物は、脚は四本だがしっぽは二本もある。

首は長く性質は穏やかで、主にその身体を覆う長い毛を刈り取って加工して売る。

羊毛と同じで、脂がまとわりついて扱いにくいので、洗って煮て脂と汚れを落とし、紡いで糸に加工するのだ。


 繊維が細く長く繊細で、まるで極上の絹糸のようなそれは、市場に出ると非常に高値で取引されるのだという。

リーキュ国の方針でそのタジュは神殿でのみ育成を認められている。

しかしリーキュ国内でもタジュを育てている神殿はそう多くはないから、常に高値で取引されているのだという。


 神殿ではさらにその付加価値を高めるべく、その細い繊維を生かした工芸品を作って販売している。

雪のように白いその繊維は色に染まりにくいため、たいていその色を生かすように刺繍であったり織って布に加工されたり、汚れにも強い性質を生かして叩いてフェルト状にしてから、マントやコートなどにも加工されるのだという。


 その中でも玲子が担当しているのはレース編みだ。

 ここに落ちてきてから、しばらくは昏睡状態だったらしい。目覚めてから、たまたま視界に入った糸でレースを編んだ。

記憶は未だに戻らないものも多い。

手先が覚えていた、レース編みにタティングレース、チュールレース、それにボビンレースにカットワーク。

名前以外の記憶がいまだに曖昧な玲子の暇つぶし兼リハビリとして、好きなだけ糸を扱わせてくれたから、ほんとうにありがたかった。


 日がな一日、ぼうっとしていると水底に沈んでゆらゆらと陽の光を反射する井戸の底の砂のように時たま記憶が揺らぐ気がして、気が付いたら涙が流れ落ちていることがある。

それで同僚の巫女を心配させてから、玲子はレースにより没頭するようになった。


 しばらく目の前のクッションに挿したピンに掛けられたボビンを操りながら糸を編んでいく。

目の前で繊細な花模様や様々な幾何学模様が生まれて少しずつ長さを増していく。

これらは全て、この国の富裕層が先を争うように買っていく。

宮廷やサロンでこのレースは貴重品として扱われ、そしてその財力や権力を端的に示す記号となる。


 神殿の奥深くに保護された玲子には関係のないことだ。

そして、レースを編むのもこれからはそう頻繁でもなくなるだろう。

ゆったりとした白く肌触りのいい巫女服も今日でお別れ。

今編んでいるレースももう少しで編みあがる。

編みあがったら、それを神殿への供物として捧げ、玲子は嫁いでゆく。


 その男は優雅に礼をしながらダレン・スウィンドルと名乗った。

様々な商品を仕入れ、各地で売り歩く行商人なのだと言う。

そこで、旅の安全と商売繁盛を願って玲子が居るこの神殿を訪れたのだと。


 神殿への参詣後に門前町で行商を行うダレンは、参詣客への応対で拝殿に出ることもある玲子と言葉を交わすのにそう時間はかからなかった。

埃にまみれた旅装ではいるものの、すっきりとしたいでたちと洗練された仕草にちょっと色っぽい垂れ目で右目の下にほくろがある。

その目が色っぽいと若い巫女を中心にダレンは神殿内でも人気があった。


 雪深い田舎の神殿で、ダレンはちょくちょく顔を見せた。

日本人らしい彫りも浅く深い闇色の髪と瞳を持つ玲子は、薄い色彩の人々の中で特に目立つ容姿で、物珍しさもあってかダレンはよく話しかけてきた。

優し気な、それでいて男の色気を振りまきながら時には小さな贈り物をしてくれる。

玲子はあっと言う間に夢中になった。


 ダレンが神殿に姿を見せ始めてから、三か月ののち。

玲子は参詣客が途切れた合間を縫ってできたわずかの間に、ダレンから求婚の腕輪を贈られた。


 リーキュでは男性が女性に求婚をする際、三つの品を用意する。

一つ目は、ランサンの木の花でできた花冠。

二つ目は、同じランサンの木から採れた香油。

そして三つめが、求婚の腕輪。


 これは素材は階級や収入などによって違いがあるものの、一般的にはランサンの木の枝から削りだして、指輪とセットで作る。

腕輪から指輪までは様々な意匠を凝らした透かし彫りのプレートや鎖で繋がれ、これを左手に付けていると婚約の印になるのだ。


 ちなみに婚姻すると、この素朴な木製の腕輪がどういうわけか金属に変わる。

深く彫りこまれた線や溝、それに孔には樹液が固まって樹脂となり、それが宝石の一種となる。

それもさらに硬質化して魔力を貯めこみ、その魔力で花嫁を守る守護石となるのだ。


 求婚を受ける際にはお返しとして、女性側から男性側へ同じく指輪とペンダントを贈る。

それらも同じように魔力を貯めて、結婚式の際はそれが高い天井から差しこむ光を吸い込み得も言われぬ音が辺りに鳴り響くのだ。


 その音が澄んでいれば澄んでいるほど、夫婦は幸せになれると言う。

光がお互いに身に着けた婚約指輪と腕輪、それにペンダントから発され、それと共に澄んだ音が鳴り響き、終わるころにはお互いに贈りあったものが木製から金属製へと変わっている。

それをもって婚姻の誓いはなされたと祭司が宣言する。


 ちなみに、お互いが贈りあった婚姻の証は双方の意志でのみしか外れない。

外れたるは離婚の成立の時のみで、どちらかに過失があれば、そちらの証は真っ黒に変わるので、それは一目瞭然だという。


 玲子は、自身の結婚式をそれはそれは楽しみにしていた。

ダレンから贈られた腕輪とそれに繋がる指輪。

なめらかな木肌が温かみを増し、それが更にダレンへの想いをもっと温度を上げているような気がする。

神殿では男女の清い交際しか認めないから、ダレンとは手をつなぎ、抱きしめられる以上のことはしていない。


 それも今日で終わる。


 巫女が還俗と同時に所属する神殿で結婚式を挙げる際には、今までの巫女服に端を色鮮やかに刺繍して、縁にも刺繍を施したヴェールをかぶるのが花嫁衣装となる。


玲子は自身の手で編み上げたレースで縁取りし、さらに全体に刺繍とピケを施したヴェールを用意した。

これだと前が透けて見えるから、前が見えなくて足元もさらにおぼつかないと言う危険性が減る。

ただでさえ余計な脂肪の塊で足元が見えづらい。


 通常の歩幅ではまず足先すら絶対に見えないのだ。

段差は事前に確認しつつ、慎重に。

同僚であった巫女たちに両手を取られ、さらに視線を下げないようにささやかれる。

足元の不安も案外段差の多い設計の堂内を、ゆったりとしながらも足先まで覆うスカートでこの神前までの長い距離を歩くのは玲子に取ってはものすごく骨が折れる。

 ゆっくりとしかし確実に歩を進め、巫女たちから新郎のダレンに手渡される。


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