春畝公
冷水が、顔に掛かる。
「うひゃっ!冷たっ!」
「なんだ君、顔を糞まみれにして…」
地下深くから汲み上げられた井戸水は澄んでいて、しかもとても冷たかった。
しかし、その水は顔にべったりと絡みついた馬糞を綺麗 に洗い落としてくれる。
俺に水を掛けた主は楽しそうな声を上げていた。
「ほれ、ほれ、ほれ、まだ落ちんか」
しかし、冷たい水に驚いた俺の反応が面白かったのか、何度も水を掛けて来るのには閉口した。
「ぷはっ!」
「むむう…」
「何ですか、いきなり…」
「綺麗にしてやらねば、いかんと思ってな?」
「明らかに、楽しんでましたよね…?」
「楽しむだなんて言い方が悪い、私はあくまで君を助けようとしていたのだよ?何しろ顔中糞まみれの奴がフラフラこっちに来るもんだから、見ていてかわいそうになってな…」
「…」
「疑っているな?」
「…いえ、ありがとうございます」
「随分と素っ気ないの」
悪びれない。
畜生、異世界か?これが異世界ってやつなのか?
疑心暗鬼といってはあれだが…
目の前の男は、明らかにこの場には似つかわしくない服装をしていた。
のどかな農村には似つかわしくない、コートに革靴、シルクハット。
この農村の、地主か何かだろうか?
しかしそれ以上に目を引いたのは、じっとりとした赤い血糊に彩られた白いシャツである。
「ふふ、驚いたかね?」
そこまで、分かりやすく驚いたつもりは無かったのだが…
何だろう、この人は。
「や、驚くのも無理は無い。私だってついさっきまで哈爾濱の駅にいたのだからな」
哈爾濱?
「何しろ、いきなり拳銃で撃たれてこれだよ。奴は…」
拳銃?
「死んだかと思ったよ」
死んだ…
「おい、聞いているのか?君」
話を聞け、とは一言も言われなかった。
しかし、もう少し事実を整理する時間が欲しいのだ。
ハルピン、拳銃、血に濡れたシャツ、一人の男の死。
間違い無く、ある事件の事であろう。
にしては、目の前の人物は若い気がするが…
少なくとも彼が殺害された時は、もう少し年を食っていた筈だが…
え?まさか、え?
矢継ぎ早に繰り出される話を徹底的に無視した結果、ふくれっ面をしている男の目を、じっと見つめた。
「あ、なたは…」
「い、伊藤…」
「ん、左様」
「朝鮮総監、伊藤博文である」




