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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

そのリードは誰の首に繋がっているか

作者: 望遠鏡

展開ちょっと早いです。

兄様が千幸を蹴った。

また何か気に食わないことがあったらしい。千幸の頭をグリグリと靴で踏むが、千幸はいつものように無表情のままだった。

「何とか言ったらどうなんだよっ!この駄犬が!」

そう怒鳴られても千幸は顔色一つ変えずに押し黙っている。

千幸の顔が変わるのを私は見たことはない。ただ淡々と兄様の命令をこなす。気を回すことはできない。あくまでも命令に沿っている。今までずっと変わらない。

千幸は人の形を模した犬である。

兄様は一頻り千幸を蹴ると、苛々したように荒い動作で椅子に腰掛けた。私もその向かい側の椅子に座る。

「兄様、一体どうなさったのです」

私の問いに兄様は蕩けるような笑みを浮かべた。兄様は私を溺愛している。否、兄様だけでなく家族皆はことのほか私に甘い。

「ああ、いや。何でもないんだよ。江梨子は何も気にしなくていいんだ」

「そうは言いましても」

「江梨子は本当に優しいな」

そういう兄様の瞳はどこまでも優しい。

それが、先程の千幸を睨み付けていた恐ろしい瞳との大きな温度差を感じさせる。

兄様は動物全般が昔からお嫌いだった。

「学院で何か問題が。いえ、それとも恋人の彩月さんかしら。彩月さんはとても美人な方ですし、兄様と付き合っているのに男子生徒からの告白が尽きないと私の学年にまで噂になっております。兄様もさぞ心配でしょう」

「確かに未だに彩月の周りをうろちょろしている連中は多いな。彩月は優しいから寄り付く害虫も多いんだ」

「優しさは彩月さんの美点ですわ」

「そうだな」

兄様の表情に穏やかなものが広がる。

きっと彩月さんのことを思い出しているのだろう。付き合ってから三年も経つのに兄様の彩月さんへの愛情は衰えることがない。

千幸はというと未だに床に這いつくばっていた。ずっと前に兄様からお叱りを受けた直後に千幸が立ち上がったら、兄様は猛烈に怒ったことがある。それからはお叱りの後は兄様がこの部屋を退室なさるまで千幸は床に伏したままでいるようになった。


兄様と私と千幸は小さな頃から一緒に育った。千幸の生家である相良家は代々私の生家である吾妻家に仕えている。千幸も幼い頃から兄様に仕えることが決められていた。

千幸はその頃から犬だった。

千幸は兄様に従順に何処にでもついて行き、どんな仕打ちも受け入れていた。

例えばいつだったか私は千幸に恋をした女の子達に苛められたことがあった。

千幸は昔から見目がとても美しく、それ故女の子からとても人気があった。

けれど千幸は何にも関わろうとすることはなかった。兄様の側につき、兄様の通りに動いていた。唯一の例外は兄様の妹である私で、過保護な兄様はよく私に会いに来るものだから、千幸とも関わりは多かった。それが反感を買い、私が兄様をだしにして千幸を独占しているという噂が立って、苛めが始まった。けれど苛めは直ぐに兄様の知るところとなり、兄様はその発端である千幸を酷く叱った。

確かあの時は千幸の全身は痣や傷だらけになったところで、流石に私も可哀想だと思って兄様を止めたはず。恐らく、この時が千幸が一番酷い傷を負った時だった。兄様は凄い剣幕で千幸に、「いいか!お前のせいでこうなったんだからきちんと後始末してこい!」と怒鳴って言っていた。千幸はただ黙って床に伏していた。

次の日、私を苛めていた女の子達から謝罪を受けた。千幸が何をしたのかは、知らない。けれどそれから私は苛めを受けたことはない。


兄様はそれから少し世間話をしてから、仕事があると言って部屋から出ていった。千幸は漸く体を起こし、服についた埃を払い、私に一礼して部屋を出ていった。




私の婚約が決まった。

相手は白鳥裕之さんという方。

白鳥家の跡取りであり、大企業SIRATORIの取締り補佐に着いている。社長の座を継ぐのも時間の問題だろう。年は私より二つ上。兄様や千幸と同い年だ。悪い噂も聞かない。両親も良い縁談だと喜んでいるし、兄様も寂しいと言いつつ祝福をしてくれた。彩月さんも自分のことのように嬉しそうにおめでとうと言ってくれた。

白鳥さんとは今度の火曜日に双方の両親込みの会食をすることとなった。そこで顔合わせをするのだろう。

生まれた時から恋愛結婚は難しいことは分かっていたので不満は何もない。恋をしたことも無い私なのだ、そんな感情を抱くことなどなかった。十六にもなって初恋もまだなんて子供のように思われるだろうか。何もわからないけれど、ただ白鳥さんが優しい方であればいいと思う。


千幸からも、おめでとうございますと言ってもらえた。上手く行くと良いですね、と言った時も相変わらず無表情だった。

今年は私の結納、兄様も来年の高校の卒業と共に彩月さんと籍を入れるおつもりらしい。

千幸はどうするのだろう。

千幸もそろそろ決まった相手がいてもおかしくない筈だけれど、兄様はきっと千幸にそういった配慮をなさることはないだろう。千幸も誰かに恋をしている様子はない。きっと決まった方もいない。このまま放って置くといつまでたっても独り身でいそうだ。どうにか見繕ってあげたいけれど、私の友人は生憎使用人と付き合うまでは良いけれど、結婚となると難しい方ばかりだ。兄様の交遊関係も似たような感じだろうからあてにはならないだろう。

彩月さんならどうだろう。彩月さんの御実家はこう言っては何だけれど、由緒のある家ではなかったはず。この高校に特待生として入るまでは公立の学校に通っていたのだし、千幸に似合う方ももしかしたら知っているかもしれない。

幸いなことに彩月さんとは今度の土曜日に一緒にお茶をする予定になっている。その時にでも話を切り出してみよう。彩月さんは優しい方だからきっと何か力になってくれるはず。

千幸だってこれを知ったらきっと驚くだろうけど、悪くは思わないだろう。何も、言わないだけで。




火曜日の会食は『涼月亭』で行われることとなった。

『涼月亭』は日本食を専門にしている。中でも有名なのは懐石料理で、懐石料理といったらここの名前がまず上がる程だ。

場所の指定は彼方からだったが、私は洋食や中華よりも和食を好むのでこの料理店になったのは嬉しいことだった。案外食の好みが合うのかもしれない。結婚生活が上手くいくことの一つの条件に食の好みの一致がよく挙げられるので、合うのならそれは喜ばしいことだ。


両親と私が店に着く頃にはもう先方は到着していた。簡単に挨拶をすると、目の前に座っている白鳥さんににっこりと微笑まれる。人付きのする、柔らかい笑みだった。色素の薄い茶色の目が三日月型になって、少し厚めの唇が弧を描く。

「初めまして、白鳥裕之です」

低くも高くもない声が耳に調度良い。如何にも見た目通りな、白鳥さんらしい声だと思った。

両親も白鳥さんの御両親と私達の話をしている。悪くはない雰囲気だった。

「吾妻さんは和食は好きですか」

「ええ。白鳥さんもですか?」

「はい。ここの料理は特に気に入っていて是非貴女と、と思いまして」

「まあ。私もここの料理は好きでしたの」

「そっか、それなら良かったです。……ふふ」

思わず笑いが出てしまったというように白鳥さんが失笑する。そしてその後少し困ったように目を私から反らした。

「白鳥さん?」

「あ、いえ。お恥ずかしいです。少し、その、嬉しくなってしまいまして。食事のこともそうなんですが、それに」

「それに?」

「その、吾妻さん、可愛らしいから。あ、いやっ!勿論写真を見た時からそう思ってましたけど、本人を目の前にするとやはり、その……」

そう言って白鳥さんは頬を赤くして俯いてしまった。

先程まで何だか大人びた様子だったのに急に少し幼く見えて、可愛らしいと思ってしまった。

それに今の様子が一所懸命に見えて少し嬉しくなる。本気の顔で可愛いと言われてしまい、私の頬も火照っていくのが分かる。

「白鳥さんって良さそうな方ね」

隣に座っている母が言う。

本当にそうだと私は心の中で同意した。


会食はそのまま良い雰囲気のまま終わった。

白鳥さんは最後まで良い方だった。私はあれからどうしてか白鳥さんを見ると心臓の鼓動が早くなってしまうのを感じた。

もしかして、これが恋なのかしら。

白鳥さんの柔らかな笑み、私に語りかける温かな声、たまに垣間見る子供のような表情…………それらを思い出すと胸が少し痛くて、息が出来なくなりそうになる。そして別れたばかりなのにまたその姿を見たいと焦がれる。もどかしくて苦しくなる。けれどそれが堪らなく幸福だと感じてしまう。どれも初めての気持ちだった。

これが、恋なのかしら。


「江梨子、今日はどうだった?」

仕事が終わった兄様は真っ直ぐ私の方に来たようだった。どうやら心配していたようだ。

「私、白鳥さんと婚約できてとても嬉しく思いますわ」

私がそう微笑むと兄様はそうか、と一言言って眉尻を下げて笑った。

「お前が幸せなら俺は嬉しいよ」

そう言った兄様の直ぐ後ろには千幸控えていた。

千幸は私と一瞬視線が合うと、そっと目を伏せた。女性のように長い睫毛が目の下に影を落とす。それが何故か、愁いを帯びているように、見えた。




それは本当に偶然だった。

その日は四限目が音楽だったため音楽室で授業が行われていた。この学校では毎年秋にクラス対抗の合唱コンクールが開催されていて、調度この夏真っ盛りの時期はどのクラスも猛練習をしている。

幼い時分からピアノを習っていた私は合唱の際は毎年伴奏をする羽目になっていた。そろそろコンクールも近く、そのため私は今日に限って授業が終わっても少し残って練習をした後教室に戻るつもりだった。

私の通っている学校は音楽室のある校舎と私の教室がある校舎は違い、校舎間の移動には中庭の直ぐ側にある通路を通らなくてはいけない造りになっている。

私はそこを一人で歩いていた。中庭は多くの花壇や木々が植わっており、春から秋にかけて季節ごとの美しい自然が見られる。綺麗な風景、それに加えて死角も多く存在し、中庭は校内で絶好の恋人スポットになっていた。今日も複数の仲睦まじそうな男女が見られる中、私は偶然見知った人を見つけた。

どうして見付けてしまったのか、中庭の隅にある如何にも目立たなそうな柱の影に千幸が立っていた。

薄暗くて距離もそれなりにあるけれど、間違いない。

そして千幸の隣には女性がいる。標準より少し小さめの背、肩まである栗色の髪、そしてその髪には先月兄様が贈った花をモチーフにした飾りが付いたピンク色のピン。

彩月さんだった。

何故?

そう思う間もなく二人の顔が近付く。そしてそのままキスをした。私はますます訳が分からなくなる。

何故?

彩月さんは兄様の婚約者だ。千幸だって勿論そのことを知っている。それなのに。二人は好き合っていたのだろうか。それに、いつから?いつから二人は兄様を裏切っていたの?

体が硬直する。

足が地面に生えているかのようだった。

ふと、千幸の顔が此方を向いた。

底の見えない、黒い瞳が私を見詰める。そこからはどんな感情も読み取れない。私はぞっとした。

千幸は、一体何を考えているのだろう?

何年もいたというのに、どうしてこんなに分からないんだろう。ただ、怖い。その瞳はいつもと何も変わらないのに。

千幸の視線が私から外れた。

その瞬間、体の強張りがふっと緩み、逃げるようにして私は去っていた。

随分と長い間立ち尽くしていたような気がする。けれど腕時計の示していた時間は五分と経ってはいなかった。




昼食を食べる気には到底なれなかった。

二人の姿が頭の片隅から離れない。

兄様に早く伝えないと。

ただそれだけをその日の放課後まで思っていたけれど、それも兄様の顔を見るなりそんな気も失せてしまった。この事を言ってしまえば兄様は二人の大切な人を失ってしまう。兄様には確かに何人も友人がいるが、それは皆どちらかというと将来のための友人と言える方ばかりだ。本当に心を許せるのは家族以外ではこの二人くらいだろう。その二人を、兄様は失ってしまうのだ。そう思うととても言えそうではなかった。

それに、まだ確実ではない。もしかしたら、本当にもしかしたらだが何か事情があるのかもしれない。何しろあの千幸なのだ。

長年兄様に影のように従っている、兄様以外は何にも興味の無さそうなあの千幸が、兄様を裏切るなんてそんなこと私はどうしても信じられなかった。

もし何か込み入った事情があるのだとしたら、私の憶測から大事を起こしてしまうのは忍びないことだ。

好都合なことに今週の土曜日は彩月さんと会う約束をしている。その時に尋ねてみてからでも、きっと遅くは無いはずだ。




だがそれは次の日には叶わぬこととなった。

彩月さんは翌朝、体育倉庫の中で全裸で発見された。

それがどんな姿だったのかは詳しくは知らされなかったが、確実に誰かの仕業だと思われる怪我を負っているらしい。

警察沙汰にはならなかった。

彩月さんが頑なに黙秘を貫き、事件の解決を拒んでいるのだと兄様から聞いた。兄様はとても憤っていたけれど、彩月さんにその意志がない以上どうすることもできないようだった。

学院では様々な情報が飛び交っている。彩月さんによく言い寄っていた御堂さんの仕業ではないかとか、はたまた彩月さんに恋心を抱いていた宗形さんではないかとか、それとも彩月さんを妬む女子生徒ではないか、とか。

噂によると、彩月さんは昨日の三限の途中に早退すると教室を出ていってから姿を見た人はいないらしい。

それを聞いた時、私はゾッとした。

私は昼休みに彩月さんの姿を見ていた。千幸と一緒にいた、彩月さんを。

昼にあの場にいるのは恋人同士くらいだ。互いに夢中になっている状態では他に誰も彩月さんに気付かなかったのだろう。

千幸が、彩月さんに何かしたのだろうか。

直接的な原因でないにせよ、この事件に千幸が関与している可能性はとても高い。

でも、何故。

彩月さんを好きだからだろうか。けれど好きな相手にこんなことをするだろうか。それならばいっそ千幸が彩月さんを憎んでいると言った方が違和感がない。そんなようには一度も見えたことはなかったが、そもそも二人がキスをするような関係であったことだって私は昨日まで全く気付かなかったのだ。きっと二人の間に私の知らない何かがあったんだろう。

それとも、本当にこの事件は千幸と関係が無いのかもしれない。もしかしたら、千幸と別れた後彩月さんは何者かの手によってあんな目に合わされたのかもしれない…。

そうは思いたかったが、どこかで千幸がやったのではないかと思ってしまう自分がいる。千幸の、あの黒い瞳を思い出すとそれだけで根拠もないのに千幸ならやりかねないと思ってしまう。

恐ろしい瞳だった。

どうして今まであれを普通だと思っていたのだろう。あんなにも、淀んでいる。兄様はそれに気付いているのだろうか。




兄様の部屋を訪ねると、窶れた顔の兄様が出迎えてくれた。

「江梨子、どうしたんだ?」

そう尋ねる兄様がとても痛ましい。

無理に笑おうとしているのか、引きつったような笑みが兄様の顔に浮かぶ。

私は昨日見たことを兄様に伝えようとして、その後ろに千幸が佇んでいるのを見つけた。

千幸が兄様の後ろから私を見つめている。黒い、ただひたすらに黒い瞳が私をい抜く。

こ わ い。

口を開いたまではいいが、あ、と声にならない声が空を切っただけだった。兄様は困ったように眉を下げて、

「彩月のことか。心配して来てくれたんだろう?とりあえず立ち話もなんだから座って話さないか?」

と私を室内にある椅子に私を促した。私が腰かけると兄様は向かいの椅子に座る。その背後に千幸が立った。

「すまないな、江梨子。こんな心配をかけてしまって…、お前も白鳥さんと婚約したばかりだというのに……」

「兄様、お気になさらず。私だって彩月さんを姉と思ってました。悲しくならないはずがないわ。まして兄様は……」

兄様は顔を苦しそうに歪めて、下を向いた。その手は固く結ばれており、小刻みに震えている。

「誰が、一体誰があんな酷いことを……!許せない…、見付け出して、殺して、やりたいくらいだ…!何故彩月がこんな目に………!彩月が一体、何をしたっていうんだ…!!」

それは悲痛な声というのがピッタリだった。

本当に一体何を、と思った所でふっと昨日の昼間の出来事が頭に蘇る。

まるで天罰が下ってしまったようだと思った。思わずちらりと千幸を見ると、無感動に彼は佇んでいた。そこからは何も読み取れない。千幸は、今、一体何を思っているのだろう。


だが私はついにこの場で千幸に問い正すことができなかったのだった。





その次の日、白鳥さんから突然電話がかかってきた。どうやら彩月さんのことを聞いて、私を心配してわざわざ電話をしてくれたらしかった。

『貴女のお兄さんの婚約者さんのこと、僕の方にまで聞こえてきているよ。それで、その心配でついかけてしまったんだ』

「白鳥さん……わざわざ有難うございます」

『いやいや。とても災難だったね。犯人は、まだ分かっていないんだろう?』

「ええ……私……、彩月さんのこと、本当のお姉さんのように思っていて、だから……」

白鳥さんの温かい声についポロリと涙を溢す。白鳥さんは私の声色から泣いているのに気付いたらしく、大丈夫かい?と少しぎこちない声で尋ねた。

「ごめんなさい、つい」

「謝らないで。吾妻さんが悲しむのは当然のことなのだから」

優しい声だ。それに私の涙腺は決壊してボロボロと涙を溢してしまい、言葉に詰まってしまった。

白鳥さんはその間通話を切ることもせず、ただ黙っていてくれた。

その優しさにまた涙が溢れる。

行き場の無い感情がぐるぐると私の中を巡っていて、どうしようもない。誰かに吐露してしまいたい衝動に駆られる。

白鳥さん、なら。いや、でもやっぱり駄目。そしたらきっと白鳥さんを巻き込んでしまうことになる。

何しろ彩月さんをあんな目に合わせた人なのだ。さぞかし残酷なことを簡単にできる人なのだろう。私の軽率な言葉で白鳥さんを危険に合わせるなんてあってはならないことだ。

「ありがとうございます……」

私は結局お礼を何度も口にすることしか出来なかった。

それからも白鳥さんは何度か心配の電話をしてくれた。

不謹慎かもしれないけれど、少しだけそれを嬉しく思ってしまった。




兄様はそれから日に日に悪化していくのが目に見えて分かるようになっていった。

彩月さんの事件について未だに何の進展しないこともあるが、会社の経営もあまり上手く行っていないようで、そのせいもあるみたいだ。

元々そんなに家にはいない父も仕事に追われてめっきり帰らなくなってしまったし、母も年中浮かない顔をしている。

私は会社には携わっていないから詳しいことは知らないけれど、使用人達の噂は耳に入ってくるし家族の雰囲気からも事業が芳しく無いのは簡単に察せられた。

私は仕事に忙しい兄様の気をどうにか慰めるためにお気に入りのハーブティを持っていった。

「ああ、江梨子か…」

何日か振りにあった兄様の顔には酷い隈が浮かんでおり、風呂に入れていないのか髭が少し生えていた。

兄様は一瞬不思議そうな顔をしたものの私の手元にあるお茶を入れる為の道具を見て、「すまないな…」と溢した。

最近兄様が謝る姿ばかり見ている気がする。

「疲れを癒すハーブティを持ってきましたの。最近、兄様はお忙しそうですので」

「そうか…ああ、そうだな。心配かけてすまないな…」

椅子にどっかりと座る兄様の目の前にソーサーとカップを置き、ハーブティを注ぐ。ローズマリーの爽やかな香りが周囲に広がった。

千幸が奥の扉から出てきた。

この部屋の奥にある部屋は兄様の仕事部屋となっている。

千幸の顔色もあまり優れないようだ。大変なのだろう。

私は兄様の隣の椅子の前に同じようにソーサーとカップを置いた。

「千幸、貴方の分もありますわ。此方にいらっしゃいな」

兄様はそれに何も言わない。言わないということは、座ってもいいという意味だ。

「ありがとうございます」

千幸はそれに素直に従って椅子に腰を降ろした。

静かにハーブティを飲み始める。

それに少しだけ安堵した。

この前は恐ろしく感じていたけれど、やはり千幸は千幸だ。

「もう感付いてはいるだろうが、経営が上手くいってない。このままでは不味いかもしれない」

一息ついたのかポツリポツリとそれを皮切りに兄様は今の会社の現状を話し出した。

詳細はぼかして話しているようだったけれど、予想以上にかなり経営が危ないことになっていることが分かる。

端的に言うと、会社が買収されそうになっているらしい。

どうにか食い止めようとしているが、それも時間の問題だろうと兄様は浮かない顔で言った。

こういう事態になっているから白鳥さんとの婚約も白紙に戻らざるを得ない、とも。

確かに白鳥さん側からすると傾いている企業と手を組んで煽りを受けては堪らないと思うことだろう。

理解は出来る。けれど、感情が上手く追い付いてくれない。

胸が苦しくなって、私は白鳥さんを少なからず思っていたことに気付いた。

会ったのはたった一度だけ。けれどそれから何度も電話をしてくれて、優しい言葉を掛けられて、好きにならない筈は無かった。

兄様の前だからと出来るだけ自然に笑おうとして、けれど上手く笑えていなかったのか、兄様は辛そうな顔で下を向いてまた謝罪を口にした。

「すまない、すまない江梨子…」

「兄様、兄様のせいではありません。ですからそんなに思い詰めないで下さい……私、それが本当に心配で……。私は経営に携わるのは難しいので、何も出来ないことこそ心苦しく思っておりますが、それは兄様が気負うことではありませんのよ」

どう言えば伝わるか分からなくてただそう言うと、兄様は眉間を指で押さえた。泣くのを堪えているのか少し体が震えている。

千幸を見てみると表情は変わっていないけれど、元々無表情な(たち)なのでどう思っているかよく判別が出来ない。

「千幸、兄様のことをお願いしますね」

そう言うと千幸はまたそっと睫毛を伏せた。

それは肯定の意を示しているのかどうなのか。よく分からないけれど、兄様を支えられるのは千幸くらいしか思い付かないのだ。それに期待するしかない。

「はい」





それは突然の知らせだった。

白鳥さんが交通事故にあった。重体で意識が戻らないらしい。

病院の名を聞くや否や私は家を飛び出した。

それまで雇っていた運転手は解雇してしまったからタクシーを四苦八苦して呼び寄せて乗り込み、行き先を告げた。

運転席に座っている中年の男の人は私の尋常でない雰囲気を感じ取ったのかどうなのか、必要なこと以外何も言うことは無かった。

病院に着くまではいやに長く感じられた。

嫌な胸騒ぎがする。

最近良くないことばかり起きているからだろうか。

どうしてなのだろう。彩月さんに家の経営に白鳥さん。こんなに幾つも悪いことばかり起きるものなのだろうか。

よく分からないけれど、このまま行けばもっと悪いことが待ち受けているような、そんな予感が胸をよぎる。

タクシーが止まった。私は財布の中から一万円札を何枚か取り出して運転手に渡した。

「お釣りはいりませんので」

気が急いて仕方がない。

そのまま運転手の顔も見ずに病院内に入った。

大きな病院だからか、平日の昼間だというのに病院は混んでいた。エレベーターを使い、予め聞いていた病室に向かう。

もう何日も前に大きな手術をしたらしい。私が白鳥さんの事故を知らされたのは事故から数日経ってからだった。

白鳥さんは手術後まだ一度も目覚めていないそうだ。頭を強く打ち付けたようで、このまま目覚めない可能性もあるらしい。

病室には白鳥さんの母親が居た。私が来たのを見ると嫌そうな顔をした。

「すみません、白鳥さんのお見舞いに来ました。何分(なにぶん)知ったのは今朝のことで……」

「来てもらって早々に申し訳無いのだけれど、帰って貰えないかしら」

硬い声だ。

何故こんなに嫌がられているのだろう?

婚約者なのにお見舞いに来たのがこんなにも遅かったからだろうか。

「どうしてでしょうか…?」

思わずそう聞いてしまう。白鳥さんの母親は眉を潜めて、

「貴女が悪い訳ではないと分かっているの。ええ、でもね少し困ってしまうわ…」

と言った。

よく分からない返事に私は戸惑ってしまう。そんな言い方はまるで私にこの事故の責任があると言っているようなものだ。でも私には何も心当たりが無かった。

半ば呆然と立ち尽くしていると携帯の着信を知らせるバイブが鳴る。

よく分からないけれど一刻も早い弁明をしなくてはいけないと思う傍ら、この電話に出なくてはという気持ちも出てくる。バイブは途切れることなくずっと振動していて、それが緊急性を感じさせる。

「すみません、用があるので今日はもう帰ります。ですが、話がよく見えませんしお互い齟齬があるようですので後日話す場を設けさせて下さい。お願いします」

そう一息に言って頭を下げて病室を出る。

病院の入り口まで行って、未だに切れずに振動し続けている携帯を取り出して電話に出る。

「どうしたの?何かあったのですか?」

その言葉を言い終わる前に、

「すみません、慎司様が…大変なことになって…すみません」

千幸の声だ。

慎司様、というのは兄様のことだ。兄様に何かあったのだろうか?嫌な予感がする。

私は何があったのか問いただそうとして、急に通話がプツンと切れた。

「え?千幸?千幸どうしたの?兄様は?」

つい電話口でそう言ってしまうが通話が切れたことを告げる、ツーツーといった音が流れているだけだ。

私は携帯を仕舞って行きと同じようにタクシーを捕まえた。

嫌な想像が幾つも思い浮かんだ。

兄様がこの連日の忙しさで倒れてしまったのかとか、ついに会社が倒産しただとか…とにかく良くないことばかりを。


自宅の前まで着くと急いで家の中に飛び込んだ。

使用人はもうほとんど解雇してしまったからか家だけは大きいが人気(ひとけ)は少ない。

もうそろそろ夕暮れ時で屋敷の中は薄暗くなっているというのに明かりが一つもついていなかった。

いつもは相良の誰かがしてくれているというのに。

それだけで私は異常性を感じた。

兄様の部屋の方へと向かうと漸く灯りが点っているのを感じて安堵した。

ノックを二度する。

「兄様、私です。江梨子です」

そう言うと少ししてから兄様が扉を勢いよく開けた。

「江梨子か!?何で戻ってきた!いや、いい。とりあえずいいから逃げろ!いいな!」

凄い剣幕で立て続けにそう言って肩をぐいぐいと押す。突然のことに私はただ驚くばかりだった。

頭がついていかなかった。それもそうだ、だって兄様に何かあったのかと思っていたらその当の本人は元気そうな姿だし、言っていることも急だし事情もよく分からない。

「江梨子、いいか、くれぐれも…」

そこまで言って兄様の動きが止まった。

そして部屋の奥から千幸が出てきた。千幸の後ろには黒いスーツを着た体格の良い男の人が何人かいる。黒いスーツの人達は手際良く兄様を羽交い締めにした。

「逃げろ江梨子!千幸には気を付けろ!行け!早く!」

兄様が部屋の奥に引き摺り込まれながらそう言っているのが聞こえた。

千幸は私をただじっと見ていた。

黒くて何も感情の浮かばない瞳。兄様の言葉に急にこの状況がとてつもなく怖くなった。

兄様に言われた通りに逃げなくてはと思うのに、足がすくむ。

「江梨子様」

千幸の手が私の腕に触れた。

「江梨子様…いえ、もう貴女は吾妻家のお嬢様では無いのですから様付けは可笑しなことですね」

千幸の指がそっと私の首元に触れる。そのままそっと横に滑らせた。

「この十八年間、私は人では無かった。慎司様の犬でしか無かった。けれどもう、そうでは無くなってしまった……」

首元にある手は骨張っていてひんやりと冷たい。

冷たい手の人間は心が温かいと聞くけれど嘘だったのかしら…とふと思った。危機的状況の方が案外変なことを考えてしまうのかもしれない。

嫌な汗が背筋を伝う。緊張、している。

「つまり、何を言いたい、の……?」

「…事情を知らない貴女に簡単に言うとですね、この会社は私のものになりました」

千幸は、何を言っているんだろう。

どうしてなのかよく分からないけれど、冷や汗が止まらない。

「そんな…何で……それに、私達はどうすれば……」

喉が張り付いているような気がする。声が震える。

「ああ、大丈夫ですよ。ここに住んでいて構いません。最も、今まで通り、とは行きませんけれど」

「…兄様も…?」

「…ああ、先程のことを心配していらっしゃるのですか?安心して下さい、望むのでしたらあの人もここに住まわせても構いませんから」

聞かなければどうしていたのだろう。いや、そんなことは愚問か。

どうしてこんなにも怖いのだろう。

これからが心配なのだろうか、それとも見知らぬ人のような千幸を恐れてなのか。それとも。

それとも、この嫌な予想が当たるのが怖いから、だろうか?

「他に、何か聞きたいことはありますか…?」

そう聞かれて、私はもう一つの疑問も口にした。

「彩月さん、は…」

それ以上は言葉が続かなかった。千幸は少し首を傾げたけれど、間が開いてから「ああ」と言った。

「そういえば見られてたんでしたね。まあ、わざとなんですけれど」

そっと頭を撫でられる。

「貴女の思っている通りですよ」

その瞬間、恐怖が喉元まで競り上がってくるのが感じられた。体がみっともなく震える。泣きそうな私に、千幸は、笑った。

笑っていた。そんな顔、初めて見た。無表情以外見たことなんて無かった。ずっと。十六年間も一緒にいて、初めて。

「私が怖いのですか…?そんなに、震えて」

「あ、あ…」

もう声が出せない。ただ怖い。段々と千幸の笑顔が滲んでいく。

「怖がらなくても大丈夫ですよ。あの女みたいに捨てるつもりはありませんから。だから、ね。安心して、壊れて…?」

滲んだ視界に黒い、これから私をずっと支配するであろう黒い闇を私は見た。


矛盾があったらすみません

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