4 王子様教師?
一時間目の授業が終わった直後の休み時間。聖はドキドキしながら二時間目の始まりを待っていた。
「いよいよか」
時計をじっと見つめて、深呼吸を繰り返す。どうしてこんなに興奮しているのか、自分でも不思議だった。
あと八分、あと六分、あと四分と心の中でカウントダウンをして、あと三分というところまで差しかかったとき……。
「聖!」
と、マコトが突如現れ、聖の机を力任せに叩いた。
「な、ななな、何?」
机の悲鳴に尻込みながらも、座った状態の聖は立っているマコトを見上げる。
「聞いてくれよ! ええっと、その、なんだ、とにかく聞いてくれ!」
「わかったよ。ちゃんと聞くから、ひとまず落ち着いて……」
言われるがまま、マコトは大きく呼吸をする。が、何があったのか顔は青白い。
「で、どうしたの?」
「そ、それがさ、れ、れれ、例の代理教師のことなんだけど……」
マコトの震えが声にも表れ、これはただ事ではないと聖は感じ取る。思わずゴクリと固唾を呑んだ。
「隣のクラスがさ、一時間目が数学だったんだよ。それで、例の代理教師がどんな奴だったのか、今、聞いてきたんだ」
「え、ホントに!」
より心を躍らせる聖だが、顔面蒼白なマコトが気になる。これは多分、真実が期待に反したのだろう。それも大幅に。
「ああ。これはもう率直に言おう。代理教師はずばり、王子様の皮を被った鬼だ」
「鬼?」
意外な言葉が返ってきて、聖はしきりに瞬きをする。マコトはがくがくしながら「だってよぉ……」と語り始めた。
「隣のクラスの奴ら、ひーひー言って泣いてたんだぜ? 一人の生徒が問題に答えられなかっただけで、見下すように叱ったり、連帯責任とか言ってあり得ないくらいの課題をクラス全員に出したりして。しかも、問題を答える生徒を差すときに、居眠りしていた生徒やぼうっとしていた生徒ばかりを故意に狙ってくるから、隣のクラスはもう数学だけで課題の山になったらしいんだ」
「ええ?」
聖もさすがに苦虫を噛み潰す。それは確かに鬼だ。真剣に授業を受けていた生徒にしてみれば、とんだとばっちりである。
「どうしよう、聖! 俺、今日は見たいテレビがたくさんあるのに!」
「いや、まだ課題の山になると決まったわけじゃないし……」
懸念はあった。厳しい先生であるのも簡単に予測できる。けれど、それでも聖の中では早く会いたいという気持ちの方が勝っていた。なぜかは不明だけれども。
そして、チャイムが鳴った。授業の始まりを告げるチャイムが。マコトは「やべっ」と言いながら、そそくさと聖のすぐ後ろの自席に戻る。
聖はすでに筆記用具も教科書もノートも机の上に出して準備万端な状態だったので、そのまま待機した。
「あ……」
ぴくりと体が反応する。チャイムに紛れて廊下から聞こえる足音。それがどんどんと、こちらに近づいてくるように大きくなっていくので、胸が騒ぐ。間違いない。代理教師の足音だと。
その足音は聖の予期した通り、教室の前の引き戸の向こう側で止まった。
……来た。
聖の心臓が最高潮に跳ね上がる。ガラガラと引き戸を開けて、その人物は姿を現した。
ざわりと教室内が一気にどよめく。それもそのはずだ。何も聞かされていなかった生徒たちにとっては、その代理教師の金髪碧眼という外見は見事に意表を突いていたのだから。
それに、話を聞いていた聖でさえ、そのあまりの美麗さともう一つ、聖しか気がついていない事実に口をあんぐりとしてしまった。
しかし、生徒たちのその反応に代理教師は眉一つ動かさず、平然と教壇に立つ。
「はじめまして。今日から産休に入る大内先生の代わりに数学を教えることになった甲斐谷です。初めに言っておきますが、私は親に学校という素晴らしい教育施設に行かせてもらっていながら、居眠りだの忘れものだの、それを無下にする恩知らずな行為が大嫌いです。ですので、そのような真似をした生徒がいたらクラス全員で責任を取ってもらいますので、そのつもりで」
無表情に冷ややかな口調。聖は背後から、マコトのかすかな怯える声を聞き取った。
マコトの言っていた通り、確かに冷たそうで怖そうで厳格そうで、近寄り難い雰囲気はある。しゃべり方にもそれは顕著に出ていて、文句なしにおっかない。
けれども、言葉の内容は正しいと聖は思い、他の生徒よりは恐怖を感じていなかった。
「では、何か質問はありますか?」
まだ甲斐谷の恐ろしさに気づいていない女子たちは、きゃあきゃあと小声ではしゃいで「ハーフなんですか?」とか「趣味はなんですか?」とか「休日は何をしてますか?」などと、どうでもいいような質問を飛ばす。
それに、甲斐谷は。
「残念ながら私は親の顔なんて知りませんし、趣味は色々ありますし、休日は基本的に予定を入れてない方が多いので、その日の気分で決まります」
と、答えているようでまったく答えてない言葉を返した。だが、女子たちはなぜかそれで満足する。他の生徒たちは怖いので指摘はしない。
「それにしても、綺麗だなぁ。本当にどこかの国の王族みたい」
聖はぼけーっとしながら甲斐谷を眺めていた。
年は二十代前半くらいだ。スーツを見事に着こなし、真ん中わけにされた金髪は金糸のようで、長さは聖とそんなに変わらない。海をイメージした宝石を思わせる鋭い碧眼に細い眉毛。背はかなり高くて、服の上からでもかなりスレンダーな体格であることがわかる。
それから、もっとも印象的だったのが色白な素肌だった。これ以上白かったら病人の域に入ってしまいそうなぎりぎりの白さは、美肌の中の美肌である。
「じゃあさ、聖。訊いてみれば?」
後ろの席からマコトがにんまりしながらシャーペンで聖の背中をつついてくる。他者から見ればマコトが何かよからぬことを策略しているのは明白なのだが、しかし、聖は感づくことなく促されてしまう。
「もう質問はありませんか? ないのなら、授業に入りますが」
「あ、ちょっと待ってください! あります! 質問あります!」
反射的に挙手して、聖は立ち上がった。甲斐谷と目が合い、どきっとする。
「なんです?」
「あ、あの、ど、どどど……」
勇気を振り絞り、決意を固めると共に叫んだ。
「どこの国のお姫様ですか!」
沈黙。
教室内にいた聖以外の全員が「……は?」と口をぽかんと開け、眉間にしわを寄せる。数秒後、ようやく聖の言ったことを飲み込んだ生徒たちは次々に吹き出して、どっと笑声が沸いた。
「あはははは! そりゃないぜ、聖! せめて王子様、だろ!」
抱腹絶倒するマコト。催促はしたが、まさか聖がこんなにも怖いもの知らずで、かつ、失礼な質問をするとは思わなかったのだ。
「え……? え……?」
当の聖は自分の質問のどこがおかしいのか理解できずに困惑する。笑われている理由さえわからない。
「わかるぜ、聖。要は女性に負けないくらいの美人だって言いたいんだろ?」
マコトは爆笑しながらも聖に同情した。けれど、聖はまだ混乱している。
「え、ちが……だって……」
助けを求めて聖の視線は甲斐谷へと向けられた。女扱いされた甲斐谷は激怒もせず、かと言って、生徒たち同様に笑うこともなく、静かにこう述べた。
「まあ、おとぎの国、ということにしておいてください」
「おとぎの国?」
「そうです。わかったのなら、さっさと着席しなさい」
想像に任せる、という意味だと解釈して、聖は腰を下ろした。そしたら笑い声も自然とやんで、甲斐谷は授業を始めた。
……なんで笑われたんだろ?
気がかりだが、悩んでもしょうがないと考え、聖は気にしないことにした。
甲斐谷先生……なんか変わった人だな。
直感的にそう思い、再び甲斐谷をじっと観察する。
……なんだろう、この感覚。
それは初めて出会ったときに生じるものではない。なぜなら、知らない人だとはっきり言えないのだから。だけど、だからと言って知っているのかと尋ねられても、それもやはりあやふやな答えになってしまう。
なんだかこの人、懐かしい……?
ひょっとしたら自分の覚えていない幼少期に出会っているのかもしれない。けど、こんなに見た目にインパクトがある人と知り合ったのなら、覚えていそうな気もするのだが、養護施設時代にそんな経験をした記憶はまったくない。
だったらいつ出会ったのだろう。余計にこの懐かしい感じに疑問符がつく。
……どこかで会って、俺が忘れているだけなのかな?
そういう考えに行き着いて、必死に脳を働かせてみるが、記憶にはどうも霧がかかっている。欠片さえ見つからない。
それが心底悔しくて、聖は自分に腹を立てた。いつしかカチカチとシャーペンを鳴らし、貧乏揺すりをし、歯軋りをする。そうまでして思い出したいとあらん限りの努力をしているのに、しかしながら、現実は残酷だった。
聖の口から無念の吐息が漏れる。頭を酷使しすぎて少し痛い。自分にこんなにも集中力があったなんて思いがけない発見だ。これが俗に言う、無我夢中なのだろう。本当に周りが見えなくなって、全神経を思案に注いで没頭してしまった。
そのため……。
「では、この問題は永野君に答えてもらいましょう」
と、甲斐谷が言ったときには、心臓が勢いよく跳ねて。聖はいつの間にか黒板が数式で埋め尽くされているのをようやく認める。
……も、問題?
甲斐谷が示しているのは、教科書に載っている簡単な練習問題だった。その前のページにある例題の解説をちゃんと聞いていれば、誰にでもできそうなくらいの。
だが、解説を聞く以前に、解説をしていたこと自体がうろ覚えなほど上の空になっていた聖が答えに辿り着くなどできるわけがなく。そう思い至ってようやく、自身のピンチを認識した。
……や、やばい!
動揺して心が更に乱れる。マコトが言っていた連帯責任でクラス全員が課題という最悪の結果が脳裏をよぎった。
そうなってしまったら、クラス中が冷たい視線を向けてくるのはほぼ間違いない。けれども、解説を聞いていなかったという失態を変える術はもうないので、それを隠そうとあがくよりは、素直に己の非を謝るべきだと聖は決心する。
「あの、その……わかりません」
「さっき解き方を説明したばかりなんですが?」
ずきりと胸が痛む。怒っていると思い込んでいる聖はかなり弱腰になっていたが、目だけは真っ直ぐ甲斐谷を見据えた。
「す、すみません。考え事をしていて、聞いていませんでした」
休み時間になったらクラス全員に頭を下げる覚悟で声を絞り出す。自分の失態に対してできる限りの処置はした。だから、これでダメだったとしても悔いなく受け入れられる。
ところが、甲斐谷の下した処罰は、聖の予想とは大きく異なった。
「……もう一度説明するので、今度はしっかりと聞いていてください」
……あれ?
甲斐谷は言葉通り、同じところを丁寧に説明してくれたので、改めて差された聖は普通に答えることができた。
その後も、甲斐谷は解説をしては生徒を何人か差していったが、幸いにも居眠りなどをしている者はおらず、全員きっちりと答えていく。
そして結局、甲斐谷の口から課題という単語は出ずに、授業は終わった。




