2 非日常への一歩
永野聖はなんの変哲もない中学三年生の男子だった。
癖っ毛で所々跳ねた栗色の髪。優しそうな雰囲気を持ち、黒真珠の瞳はやや大きいので少し少女っぽく見えるが、どこにでもいそうな健全な男子だ。
際立った特技もなく、奇抜な趣味もなく、特に目立つ要素もなく。勉強もスポーツも標準で、部活は帰宅部。学生生活を送るのに困らない最低限の友達はいた。
そんな彼の人生もまた、呆れ返るくらい平々凡々で。ちょっとした事件やトラブルに巻き込まれることはあったものの、それらはいずれも普通の学生なら経験しうる可能性が高い事柄ばかりで、日常の範疇を超えるものではなかった。
幼稚園も小学校も何事もなく、あまりの平穏さからぼうっとしている間に過ぎ去って、中学校生活も気がつけば残りわずかとなっている。
なので、しいて現在の変事を挙げるなら、これもまた普通の学生ならあり得る内容だが、進路に悩んでいることだろうか。
「うーん、ここもありかな」
朝のホームルームが始まる前の時間。登校した聖はミズナとゴウと別れて自席に座るや否や、高校受験ガイドを広げた。
赤ん坊の頃に親に捨てられた聖は、小学校卒業まで養護施設で育ち、今は学生寮で奨学金をもらいながら生活している。
そのため、進学する高校の条件としては、まず学生寮か近くにアパートがある点と、聖でも受けられそうな奨学金制度がある点は必須で、それを踏まえた上で、できれば地元であり、合格圏内にあり……などの条件がついてくるのだが、それを満たす高校は予想に反して結構あった。
となれば、あとは校風や制服や肩書きで決めるのだろうが、ぴんと来る高校が今のところない。
「……はあ」
ページをめくり、候補の学校の紹介文を何度も読み返す。しかし、やはりどれも決定打に欠け、そうしている内に疲労を感じてきたので、これからの授業に備えて聖は本を閉じた。
顔を上げ、黒板の上にある時計を見る。二つの針はホームルームが始まるまであと五分であると示していた。
「ひーじり」
聖の視界をさっと何かが覆う。澄んだ明るい声で、その正体が同じクラスの男子であると認識するまに時間はかからなかった。
「よおよお、朝っぱらから高校受験ガイドを読むなんて、真面目だなぁ」
「今の時期なら珍しくないと思うけど?」
その男子――黄賀マコトは好奇心旺盛な性格に加え、クラスきっての情報通である。特に新しい情報を得たときは、歓喜のせいか満足感のせいかにやにやしていることが多い。
今のマコトの顔は、まさにそれだった。
「で、何? 何かあったの?」
マコトのにやにや顔は、仕入れた情報を他人に暴露したい衝動の表れでもあるので、それを知っていた聖はその切っかけをさりげなく作ってあげた。
すると、それはうまい具合に火の油となり、マコトは興奮して話し始めた。
「よくぞ聞いてくれました。数学の大内先生が今日から産休に入るのは、お前も知ってるよな?」
「あ、そう言えば、今日からだっけ」
「そうそう。それで、その代わりとなる教師を学校が雇ったらしいんだけどさ、俺さっき、職員室に用があったから、そのついでにその代理教師を見てきちゃったんだ」
「え、ホントに?」
「ホントホント」
初めこそはただ耳を傾けているだけだったが、情報に対して本気で関心を抱いた聖の反応に、マコトはますます、意地悪っぽくにやつく。
聖のように感情が顔によく出てしまう人にこそ、情報の教え甲斐があるというもの。なので、マコトは新しい情報は意図的にまずそういう人をターゲットにして教えているのだが、聖はそこまで知らない。マコトの好意だと信じて疑わない。今のところ、このクラスの一番のターゲットにされているなどとは夢にも思わない。
「どんな人だったの? 男性? 女性?」
瞳を宝石のように輝かせる聖は、早くも情報の細部を求める。
マコトはわざとらしく勿体ぶってから、ようやく口を切った。
「そうだよなぁ、聖。俺たちみたいな健全な男子なら、二十代のナイスバディな激エロ美女教師を熱望するよなぁ」
「二十代の……え?」
唐突に自身とは無縁な単語が出てきたので、聖はきょとんと目を丸くする。マコトの方は「アレだよ、アレ」と伝えるのに必死だ。
「ほら、自室のベッドの下に隠しがちな男の聖書に出てきそうな……」
「聖書?」
意味をまるで理解していない聖に、マコトは深々とため息。
「そうだった。お前は聖書を読んだことがないほどクソ真面目な性格なんだよなぁ。あー、勿体ない。いや、それがきっとお前らしさなんだろうな。自分の信念は大事にした方がいいぜ。うん」
聖の肩に手を置いてうんうんと勝手に一人で納得するマコトを、聖は訝しげに見つめる。
「……で、結局聖書って何?」
「や、知らないなら知らないままでいいと思う。その方がお前らしいって」
聖書=エロ本だと知ったら知ったで、聖なら「すけこまし!」とか言って軽蔑してくるのは安易に予測できるので、マコトは教えない方がいいだろうと判断した。
「じゃあ、話を戻すけど、その代理教師は男性だったの? 女性だったの?」
「……どっちだと思う?」
マコトが簡単に教えないのは、目の前にある情報というお宝を相手が躍起になって取ろうとするさまを少しでも長く見ていたいからだ。
だが、限度を超えると、痺れを切らした相手の怒りを買うというリスクがある。けれどマコトは、聖がめったに怒らない客だと認知しているので、それを最大限に利用するのだ。
「……男かな?」
わずかに渋っているマコトの表情。それは願望が叶わなかったときのものだと推測して聖は答えた。わかりきった口調で正解してしまうとマコトが残念がりそうなので、直感で答えているふりをしながら。
「うが! 勘が鋭いな、聖」
マコトはがっくりと肩を落として、顔の上半分に影を作った。
「そうなんだ。俺の夢は職員室に着くと同時に儚く散った。けど、男は男でも、超いかついおっさんだったら俺もすっぱりと諦めがついたさ。ああ、ついたね」
「とすると?」
聡い聖には、もう代理教師がどんな人か大体想像できたが、あえていまだに興味津々な演技をして尋ねる。
「その代理教師はな、女子たちがきゃーきゃー言いそうな金髪碧眼に加えて、少女漫画のヒーローみたいな超絶美形だったんだよ! それこそ、おとぎ話の王子様みたいな!」
「へ、へぇ……」
力のこもった説明に気圧される聖。マコトが口惜しい気持ちでいっぱいな理由もなんとなく理解した。要するに……。
「なんで、なんで女じゃないんだああああぁぁぁぁ!」
ということである。外見は文句なしの合格なのだが、性別という壁に、マコトの夢は阻まれたのだ。
「あれ、女性だったら間違いなく美女だぜ! お姫様だぜ! なのになのに、なんで男なんだああああぁぁぁぁ!」
「や、俺に言われても……」
これはもはや八つ当たりであるのに聖は気づいたが、自分が愚痴を聞いてあげることでマコトの気が少しでも晴れるなら別に構わないと思い、ホームルームが始まるまで、とことん付き合ってあげることにした。
このクラスは、今日は数学が二時間目にあると思い出しながら。